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第一章 ネイブリー伯爵家

01.悪役令嬢は思い出す

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「………んん…ごふっ!」

 飲んでいた葡萄酒を思いっきりぶち撒けた。白いドレスにみるみるボルドー色のシミが広がっていく。隣に立っていたメイド服の女はギョッとしたように飛び退き、慌ててタオルを掴んで私の胸元に押し当てた。

「どうしました!?アリシアお嬢様!」

 アリシアお嬢様。
 私はそんな名前らしい。なるほど、やっぱりこれは完全にやっちゃってる。異世界転生しちゃってる。でも夢なのではないかという僅かな可能性も捨て切れない。

 ふらりと立ち上がって、焼き菓子のカゴが乗ったテーブルの角に自分の頭をぶつけてみた。

「あいったぁ……!」
「お嬢様!?」

 痛い。めちゃくちゃに痛い。
 どうやら夢ではないらしい。おでこを押さえたまま、そろりと部屋を見渡すと装飾が施された縦長の大きな鏡が目に入る。そこに映るのは、長く伸ばした淡いピンク色の髪に大きな蜂蜜色の瞳、透き通るような肌をした若い女。

 ありがとうございます。
 本当にアリシア・ネイブリーでした。

「よりによって悪役……!」

 崩れ落ちるように、その場に屈み込む私を心配して近寄って来るこの人の良さそうな彼女はきっとメイドのサラなんだろう。こんなに善人そうなのに小説の中ではアリシアと共謀したとして、裁かれてしまうのだ。

 そう、これは物語の中。

 前世(と言って良いのか分からないけれど)、私は冴えない会社員だった。人よりも機械と向き合う時間の方が圧倒的に多いような社畜ゆえ、久しぶりにコンビニで店員と話すときは非常に緊張したものだ。

 休日はただ身体の回復のために家で粛々と一人で過ごし、恋人はおろか異性と手を繋いだことすらない私の唯一の楽しみ。それは成り上がりヒロインが悪役令嬢に意地悪されながらも健気にヒーローの心を手に入れる王道ラブストーリーを読むこと。

 特に愛読していたのは『エタニティ・ラブサイコ』という平凡ヒロインが一大奮起して着々とステップアップを重ねて、数多の嫌がらせに屈せず、最終的に王太子と結ばれる話。もう何度も繰り返し読んだせいか、二人の台詞まで暗記しているハマりっぷり。ヒロインの恋のライバルである悪役令嬢、アリシア視点の番外編が発売されたから自転車を走らせて買いに行ったところまでは記憶にあるけれど、私は事故にでもあったのだろうか。書店に着いたかすら記憶が定かではない。

 もしかして、死んだ?



「………アリシアお嬢様?」

 不安そうに声を掛けるサラに気取られぬように、笑顔を返した。落ち着いた様子を心掛けて、再び椅子に腰を下ろす。

「ごめんなさい…取り乱したわ」
「いいえ、仕方ありません。あまりに唐突ですもんね。婚約者であるお嬢様を、よりによってデズモンドの塔に幽閉するだなんて………」
「え、幽閉……?」
「エリオット様の決めたこととは言え、お嬢様の気持ちを思うと私も…悲しくて…っ!」

 そう言いながら、深いブラウンの瞳にじわじわと涙を溜めて泣き出すサラに私はビックリした。ちょっと待ってほしい。物語は今どこまで進んでいるのか。

 デズモンドの塔とは、つまり、王都から遠く離れた国土の最北端に位置する罪人を閉じ込めるための場所。一度入ると次に陽の光を浴びるのは死刑執行台に移動する時だけ、とも言われるような監獄に、私はこれから幽閉されようとしているの?

「あの、えっと…いつから幽閉されるんだっけ?」
「三日後です」
「は、三日後……!?」

 急すぎる。
 驚いて固まる私のことを、サラはショックを受けていると思ったのか励ますように抱き締めた。

「大丈夫です。お嬢様を一人で行かせたりはしません…このサラも、命が続く限りはお嬢様と一緒に……」
「いやいや、ダメでしょうよ!」
「え?」
「サラ、私は黙って幽閉されたりしないわ。必ず逃げ出してみせる!貴女は何も知らないと言って。私と一緒にリスクを取る必要なんて無いんだから」

 言い切るとサラは不安そうな目を向ける。

「しかし、お嬢様……」
「大丈夫よ。こう見えて結構、逆境には強い方なの。だいたい婚約者である私を幽閉するなんて何事よ!」
「あの…お嬢様?」
「うん。何かしら?」
「罪状的に…逃げられそうにないです」
「……はい?」

 申し訳なさそうに俯きながら、サラが差し出したのは数枚に渡る書面。一番上の紙には「アリシア・ネイブリーによる被害一覧」と書かれている。大袈裟ね、とペラペラ紙を捲っていくうちに私の顔は蒼ざめていった。

 そう言えば、そうだった。
 私は誰もが恐れ慄く悪役令嬢アリシア・ネイブリー。触れた薔薇は色褪せて、抱き締めた子猫は白骨化すると人々からは距離を置かれていた。

 何故そうも皆が私を恐れるのか。それは極悪とされる性格に加えて、強力な魔力があるからに他ならない。その力を使って作中のアリシアはヒロインに様々な妨害を施してきたし、それが明るみになるにつれて周囲の人間はアリシアのことを「魔女」と呼んで恐怖の対象と見なした。

 しかし、どうだろう。
 今やまったくその波動を感じることはできない。


「あの…サラ?今この部屋って何か魔法を妨害する処置がなされているの?」
「いいえ。ここはお嬢様のお部屋です、そのような処置はなされていないはずですが…?」
「ふぅん……」

 あれ。どうして魔法が使えないの。
 作中では、意のままに念じるだけで物を動かしたり、自由自在に操ることが出来たはずなんだけど。

 もしかして、アリシア・ネイブリーの身体を転生者である私が乗っ取ったから魔法の使い方を忘れたとか?


「いやいや…そんなまさかね」

 小さく溢して、グラスに残った葡萄酒を飲み干した。


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