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36.狼が怒るとき
しおりを挟むミーシャはガタガタと震えて、言い訳をするように「違うの」「待って」と言葉を吐いた。だけど、いくら待ってもその続きは聞こえて来ない。
それもそのはず。
ダリアはもう、王女の首に手を掛けていた。
僕の後ろでさっきまで楽しげに尻を弄んでいた男も、腰が抜けたようにベッドの上に座り込んでいる。まずいことになったと悟ったのか、慌ててベルトを閉める姿は無様だった。
まあ何よりも、女装して化粧まで施され、尻穴から明らかな異物を吊り下げた僕の方が無様だろうけれど。ダリアが見ていないうちに僕は嵌ったままのそれを引き抜く。
痛くて、気持ち悪くて、恐る恐る引っ張ったせいか時間が掛かり、途中で一瞬ダリアはこちらを見た。だけど、すぐにその視線は王女の顔へと戻る。
「なぁ、俺が聞いていた話はこうだ。ヒューイは旅の疲れで眠り込んでいる。起きたらメイドが知らせてくれると」
「……っあ、ええ、そうよ。そうなの、だけど目を離した隙にこの男が部屋に入り込んじゃったみたいで!」
「なんですと!ミーシャ様!?」
「無礼な男なの!私も怖くて動けなくて、貴方が来てくれて助かったわ、お願い、この男を殺して…!」
ダリアは目を閉じて小さく息を吐いた。
それは彼自身が怒りを鎮めるためなのか、それともミーシャの言動をもとに状況を整理しているのか。僕は人形のようにその場に座ったまま固まっていた。
ダリアの怒りはそれぐらい怖かった。
いつも穏やかで優しいダリア。自分を制御できないと言っていたあの満月の夜だって、彼は精一杯僕を大切にしてくれていた気がする。
だからこそ、彼のこんな姿は異常だ。
変装すら解けたのか耳と尻尾が出て来ている。
「ミーシャ、俺は怒ってるよ。仮にもお前はこの国の王の娘で、俺が昔助けた縁もある。だけど、今はそんなもの全部どうでも良いと思えてしまうぐらい、お前が憎い」
「……っんぐ、ダリ…ア…!」
「待って、ダリア!殺しちゃだめだ!」
僕は弾かれたように立ち上がった。
彼を人殺しにしてはいけない、ただその強い思いに突き動かされるようにダリアとミーシャの間に割って入る。ダリアは意図的にか僕の方を見ないけど、僕は一生懸命にその厚い胸板を叩き続けた。
「お願い、手を離して!ダリア!」
「この女はお前に酷いことをした」
「大丈夫!僕はほら、この通り大丈夫だから!」
「俺が大丈夫じゃないんだよ…!」
吠えるような大声に、僕は身を竦めた。
ダリアはハッとしたように目を伏せる。
「ごめん、苛立って。ヒューイ…大丈夫なんて言わないくれ。こんな人間たちに貶められて良いように扱われたお前を思うと、俺は我慢出来ない」
「……でも…人殺しはだめだ、」
僕はダリアの腕に手を添える。
震えが止まらない王女は遂に両目から涙すら流していた。僕より長い付き合いがある彼女でも、ダリアがこんなに怒った姿を見たことはないのだろう。
もしくは、そういった面に目を向けなかっただけか。
「ダリア、ごめんなさい…!私知らなかったの!貴方がこの子のことをそんなに大切に思っていたなんて…!」
ミーシャは両手を胸の前で握り合わせて、祈るような格好で長身のダリアを見上げる。ポロポロと溢れる透明な涙は彼女の悲壮な表情をより引き立たせた。
「知ってたら別の部屋に案内したりしなかったわ!それに、私…私は本当は、貴方のことが好きだったの!」
「…………、」
「助けてもらった時から貴方の黄色い瞳が忘れられなかったわ。強い肉体に美しいお顔……あぁ!私たちはお似合いだと思っていたのに…!」
「……ミーシャ」
「どうして?ねえ、どうしてなのダリア?何故貴方は私ではなくこの子を選ぶの?こんなこと言いたくないけれど、男性同士の結婚はこの国では認められていないでしょう!?」
畳み掛けるようによく喋るミーシャに気を取られていたら、後ろで屈んでいた侯爵がパッと動いたのが目に入った。急いで振り向いた瞬間、静かな部屋に発砲音が反響した。
僕は、男の手に収まった小型の銃を見る。
そしてその先を辿って辿り着いたのは、ダリアの背中。
見慣れたシャツには赤黒いシミが付いていて、それはみるみる広がっていく。驚いた顔で男を見つめるダリアはミーシャを掴んでいない方の手で自分の傷口に触れた。
「ダリア………!!!」
何をすべきなのかも分からないまま、ただフラフラとよろける狼に駆け寄る。
「ざまぁ見なさい!私を選ばないから、祝福されない恋に身を委ねるからこうなるのよ!」
「王女殿下!今すぐ救護隊を呼んでください!早く…!」
「それならここで結婚を誓って。私と結婚すると言いなさい!ダリア、この汚い男娼を捨てて私を選ぶの!」
「………っ!」
僕が何かを言う前に、立ち上がったダリアはミーシャの小さな顔に手を添えた。僕はドクンドクンと心臓が騒ぎ出すのを感じる。ダリアを助けて欲しい気持ちと、彼らが結ばれることを祝福出来ない自分が居たから。
しかし、誰も予想しないことが起こった。
狼はその手に力を込めて王女の両目へと突き刺したのだ。
「ああっ……!?」
真っ赤な血が床に飛び散って、ミーシャはその場にしゃがみ込む。僕はあまりの惨さに目を逸らしてしまった。
誰もが沈黙を貫く中、ダリアの低い声だけが空気を揺らす。
「それ以上、ヒューイを侮辱するな」
「っひぃ、あ、あ、ダリア…!?」
「二度と俺の前に姿を現さないでくれ。俺はお前らが昔から蔑んできた獣人だ。いつ理性を無くすか分からない」
「あ、私の、目は、目はどこ……?」
「相手を見た目だけでしか判断しないお前にこんなもの無い方が良いだろう。お前は俺の何を知ってるんだ?」
「ダリア!?行かないで、助けて……!」
ミーシャは見えない目を押さえて宙に手を伸ばす。しかしダリアはもうその場を離れて、凍り付いた侯爵から銃を奪い取っていた。
そのままツカツカとこちらに歩いて来て、僕を軽々と抱き上げる。銃声を聞きつけた警備の人間が部屋へ辿り着くのも時間の問題だ。どうするのかと呆然と見守っていると、ダリアは片手で器用に窓の鍵を開けると、力を掛けて押し開いた。
冷たい夜風が頬を撫でる。
「ミーシャ、俺は例えこの世界にヒューイが居なくても、お前のことは選ばないよ。お前みたいな人間は一番嫌いだ」
半狂乱の王女が声のする方へおぼつかない足を踏み出すよりも先に、ダリアはするりと窓を抜けて外の世界へ身体を投げた。僕は初めての浮遊感と共に来たるべき衝撃に怯えて目を閉じる。
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