90 / 94
第五章 ジュディ・フォレスト
85.心の声
しおりを挟む長時間歩いたからか、家に帰っても何もする気になれなくて、私は自分の部屋でぼーっとしていた。
自分が必要以上にヴィンセントに気を遣わせて、その状態に勝手に安心して甘えていたことを恥じた。このままではその優しさを当然と思って、感謝すらしなくなる日も遠くなかったはずだ。
そんなことを考えていたら、玄関の扉が開く音がした。
ヴィンセントが帰って来たのだと思ったけど、どうやって話を切り出せば良いか分からず、私はそのまま部屋に篭っていた。毛布を被って、布団に顔を沈める。
しかし、なぜか足音は真っ直ぐに私の部屋へ向かって来た。ノックの音がしたので狸寝入りを決め込むか悩んでいたら、鍵の掛かっていないドアは簡単に開かれる。
起きるタイミングを見失って私は沈黙を貫いた。
ヴィンセントの気配が私のベッドに近付く。
「………先生、起きてますか?」
「……寝てます」
遠慮がちに聞く声を無視することは出来ず、私は小さな声で自分はもう睡眠に落ちそうであることを伝える。
「傘、ありがとうございました」
「…うん…いいえ」
「ジュディ先生はいつから僕の姉になったんですか?」
「え?」
驚いて聞き返すと同時に、自分の吐いた嘘を思い出した。
そうだった。私はどんな関係か聞かれて、咄嗟に姉弟だなんて言ってしまったのだ。そして親切な彼女はきっとそのまま「お姉さんからよ」的な感じで伝えたのだろう。
でも図々しく恋人面をして職場に顔を出すよりは、きっとヴィンセントにとっても良いと思うし、そういう関係の確認が済んでいない現状では仕方ない対応と考えられる。
「ああ、あれね。関係を尋ねられたから、つい…」
「僕は先生にとって害のない弟ってことですか?」
頭のそばにヴィンセントが手を置いたのか、シーツが少し引っ張られる感じがした。私は段々と速くなる鼓動がこれ以上乱れないように、そっと心臓に手を当てる。
「違うわ。違うんだけど……」
「僕は先生にとって何ですか?」
「ヴィンセントくんは…私の可愛い教え子で……」
「まだ?」
「えっと、」
「まだ、僕は貴方にとってただの教え子…?」
そろりと顔を向けたら、思ったよりも近くにヴィンセントの顔があった。私の頭の横に置かれた左手を気にしながら私は何と答えるべきか考える。
愛おしいと思っている。
大切だって伝えなければ。
だけど、私が気持ちを言葉にして表す前にヴィンセントの手が毛布に潜り込んできた。ひんやりとした冷たい手が薄い布越しに私の胸の上に置かれる。
「先生はどうして僕とキスしてくれたんですか?なんでその先すら許したんですか?流れで、仕方なく?」
「違うわ……!」
「じゃあ、どうして?先生の心はどこにあるんでしょうね。僕が、探してみても良いですか?」
「……探す?」
私の胸の上に乗った手を退けて、ヴィンセントは代わりにその耳をくっ付ける。そして、心臓の音を聞くかのようにそっと目を閉じた。
「ドクドク鳴ってる…緊張してるんですか?」
「………っ、」
上目がちにそう聞かれれば、私は何も言えなかった。
久しぶりの体温に、近くで話す息遣い。以前は普通だったそうしたものが、すべて新鮮で懐かしい。
待つと言っていた忠犬も不安だったのだろうか、と考えた。
だって彼の瞳は揺れているから。
「僕を先生の最期の男にしてください」
「ヴィンセントくん……」
「べつに触れ合えなくても良いです。そんなの我慢できる。でも、弟なんて思われたくない」
そう言ってヴィンセントは私の額の上に口付けを落とす。
目を閉じると、静かに瞼が震えた。
私はこの真っ直ぐな思いに真摯に向き合う時が来たことを悟った。
1
お気に入りに追加
192
あなたにおすすめの小説
愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。
石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。
ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。
それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。
愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。
この作品は他サイトにも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
忘却令嬢〜そう言われましても記憶にございません〜【完】
雪乃
恋愛
ほんの一瞬、躊躇ってしまった手。
誰よりも愛していた彼女なのに傷付けてしまった。
ずっと傷付けていると理解っていたのに、振り払ってしまった。
彼女は深い碧色に絶望を映しながら微笑んだ。
※読んでくださりありがとうございます。
ゆるふわ設定です。タグをころころ変えてます。何でも許せる方向け。
王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる