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第五章 ジュディ・フォレスト
84.傷跡
しおりを挟むヴィンセントの働くレストランは、家から二十分ほど歩いた場所にある小さな個人経営のお店だ。場所は聞いて知っていたけれど、私はまだ一度も訪れたことがない。
余計なお節介だったかと反省しながら、すでに少し白い化粧を施した夜道を歩く。振り返ると、足跡の上にはもう新しい雪が降り積もっていた。この様子だと立ち止まっていると雪だるまになってしまいそうだ。
黙々と歩き続けると、やがてポツポツと家が現れ始めた。
集落から敢えて離れた場所に家を買ったのは、ヴィンセントの意見だった。おそらく追手は来ないだろうけれど、一応私たちは抱える秘密があるわけだし、彼に関しては捕まってもおかしくない罪を背負っている。
ただ静かに、穏やかに、二人で。
それが私たちが新居に望んだことだった。
(……あ、レストランだわ)
暗い街を照らすように明々と明かりが灯っていて、緑色に塗られた建物の中からは楽しげな音楽が流れ出ている。その店の特徴から、きっとここがきっとヴィンセントの働く店なのだと分かった。
窓から中の様子を窺うと、テーブルの間を忙しなく行き交うウェイターたちに混じってヴィンセントの姿を見つけた。白いシャツに黒いベストを着て、別のウェイターの女の子と話をしている。真剣な顔をして聞き入っているから、何か仕事に関する注意を受けているのだろうか。
見入っていると、女の子が何かを言ったあとでヴィンセントが笑顔を見せた。それは最近彼が家であまり見せなくなっていた心からの笑顔で、本当に彼が会話を楽しんでいる証拠。私は心臓がギュッと縮む感覚を覚えて、二人の姿から目を逸らした。
持って来た傘をどうやって渡そうと離れた道端で困っているところに、店の裏から先ほどの女の子が出て来たのを見掛ける。迷った挙句、話し掛けてみた。
「………あの、」
「…?……どうしましたか?」
黒く長い髪が揺れて女が振り返る。
近くで見ると、目が大きくて可愛らしい。
「このお店にヴィンセント・アーガイルという従業員が居ると思うのですが…傘を渡してくれませんか?」
「あ…はい、ヴィンセントですね。失礼ですけど…貴女は?」
私は言葉に詰まった。
彼女はきっと私と彼の関係性について聞いているのだ。それは物を預かる上で確認しておいても良いこと。だけど、私はなんと表現するのが適切かすぐに思い付かなかった。
恋人です、とはまだ言えない気がする。彼にそういったことを伝えていない手前、ヴィンセントが居ない場所で自分を恋人と名乗るのは気が引けた。
「えっと……姉です。姉のジュディです」
結局出てきたのは苦し紛れの嘘で、女の方も大して容姿が似ていない私のこと不思議そうに眺めて建前上で「そうですか」と頷いた。
「お姉さんも知ってると思いますけど、ヴィンセントくんのお腹の怪我は病院へ行くべきですよ」
「………え?怪我?」
「あ…知りませんでしたか?」
首を振る私の前で、女はヴィンセントの左側の腹部に大きな傷を見つけたことを話してくれた。まだ治っていないのではないか、と心配そうに話す姿を見て、何も知らなかった私はショックを受けた。
家での彼はそんな素振りまったく見せなかった。
怪我について話すこともなかったし、痛がる風でもなかった。
過去の動作を思い返していたら、ノルン帝国を出る際に公園で見せた大袈裟な反応が浮かんだ。そうだ、そういえば私が突いたあの時はやけに反応が大きかった。私は何も疑わなかったけれど、もしかすると既に彼は傷を負っていたのではないか?
いつも自分よりも私を優先して優しさを見せてくれたヴィンセントの不調に動揺しつつ、私は頭を下げて礼を言って女の元を去った。彼女はどうして彼の肌に付いた傷のことを知っているのだろう、と訝しむもう一人の自分がずっと騒いでいるけど、そんなこと詮索する権利はない。
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