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第二章 ジュディ・マックイーン
35.お忍び
しおりを挟むその日は、やけに娼婦たちがソワソワしていた。
皆念入りに化粧台の前に立って化粧をしているし、着ている衣装もいつもより気合いが入っている気がする。衣装と言っても、露出度の高いそういった服で外を歩くわけにはいかないのだけど。
私は何かイベントでもあるのかしら、と考えながら指定された部屋へ入る。今日はいつの日かに真珠の宝石言葉を教えてくれた青年が来てくれる予定だった。
この仕事にも随分と慣れてしまった。
初めこそ、他人の汗ばんだ肌やねっとりとした唾液に抵抗感を抱いていたけれど、仕事だと思えば気は紛れた。月末にまとめて受け取る給料は、最低限必要な生活費を除いてすべて夫の借金の返済に充てていた。
お金を振り込む時に、時々、少しだけ馬鹿馬鹿しくなる。私が一生懸命に働いて身体で稼いだお金が、一瞬にして他の誰かのものになってしまうことに。だけど、人生はきっとそういうもので、いつも上手くいくわけではない。私はここでもやはり群れの中で泳ぐ魚の気持ちで、水の流れに従うことにした。
「ジュディ!久しぶりだね」
「ええ、元気だった?」
抱き寄せられたので挨拶代わりのキスをする。
「ぜーんぜん。ジュディに会えない間は地獄だよ」
「大袈裟だわ、私はただの娼婦よ」
「僕にとっては極上の癒しさ」
擦り寄って来る男は以前より痩せた気がする。
そうした変化に触れて良いものか考えながら、私たちは最近あったことをお互い話し合った。この男はハンスという名前で、真珠をプレゼントした彼女に振られて以降は新しい恋人が出来ないらしい。
高望みしているわけじゃないんだけど、と愚痴るのでどういった女性がタイプなのか聞いてみたら「おっぱいが大きくて俺より稼いでくれる子!」という元気な返答があった。
「そんな子がいつか見つかれば良いわね…」
「居ると思うんだけどな~なかなかね、」
「最近お仕事は忙しいの?」
私はハンスの肩を揉みながら尋ねてみる。
「んん、まぁ、実はわりと」
「木材の運搬だったかしら?」
「よく憶えているね。ノルン帝国も皇帝が代わってから最悪さ。何しろ貿易が下手すぎる。金が回らないから仕事が増えないんだ」
「そうなんだ……?」
私は記憶を辿って数年前まで政権を握っていた白髪の前皇帝のことを思い出していた。私が教員の資格を取得したのは確か前皇帝の時代だったから、認定証にも彼の名前が記載されていたはずだ。
現在の皇帝はその息子のバシュミル・サリバン。
悪王という噂はたまに耳にしていたけれど、やはり現在でも国民からの反発は強そうだ。加えて女遊びがひどい現皇帝は、側室に対して莫大な金を投じているとも聞く。
以前、べつの客から通貨グリオンの価値が今後どう変動するのか聞かれたことがあるけれど、この状況では上昇するとは考え難い。
(たしか、ヴィンセントくんにも聞いたんだっけ…)
あの時の自分はヴィンセントのことを銀行で働いていると勘違いしていた。彼の朝はいつも早かったし、毎日きっちりとスーツを着て出掛けていたから。
懐かしい思い出をこれ以上掘り起こさないように、私はハンスの手を引いてベッドへ移動する。待ち切れないといった様子の彼にニッコリと微笑む。柔らかくて気持ちの良い、彼らの求めている女を演じるために。
「ジュディ、最高だったよ!愛してる!」
「ありがとう。私もよ」
お別れのキスをして、去っていくハンスの背中を見送った。
完全に姿が見えなくなったのを確認してからドアを閉めようとしたところ、長い廊下の向こうから呼び止める声があった。紛れ込んだ酔っ払いだろうか。恐る恐る数センチだけ開いた扉の隙間から外を窺う。
走って来たのは、見たことのない客だった。
少なくとも私が接客したことはない。
「すみませんが…予約は受付を通してください」
「君はこれから空いているのか?」
「分かりません。今すぐのお相手がご希望でしたら一度受付に確認して、」
「君が良い!君が良いんだ…!」
電話に伸ばそうとした腕が強い力で引っ張られた。
私はびっくりして硬直する。
ぎゅっと抱き付いて離れない男を引っ張って抵抗を示していたら、数人の屈強そうな男たちがゾロゾロとこちらに向かって来る。私はホッとして声を張り上げようとした。
「すみません、この人が……」
「テオドルス様!」
男は私に背後から覆い被さったままで「バレたか」と舌打ちする。さらりとした黒髪が首に触れてくすぐったい。それにしても、彼らは私を助けに来たのではないのか。
「テオドルス様、車が到着しましたのでもう帰る時間です。このようにお忍びで来るのは危険ですので、長居は…」
「ああ、分かった分かった!」
「陛下もお怒りです。早く車まで、」
「しつこいぞ、俺は逢瀬の途中なんだ!」
そう叫ぶように言うと、男はくるりと振り返って私の手を取った。まるで繊細な花に触れるように、そっと手の甲に口付ける。目を伏せた美しい顔に、私は既視感を覚えた。
どうしてだろう。
私は、この人を知っている気がする。
「俺の名前はテオドルス。君は?」
「ジュディです。貴方は…もしかして…」
テオドルスは私の唇の上に手を当てた。
静かに、というジェスチャーに頷いて見せると、伸びて来た大きな手がポンポンと私の頭を撫でる。すべての所作に私は面影を感じた。似ている、という言葉では済まされない。
「次に会う時、君に良い知らせを持って来よう」
そう言ってテオドルスは私に笑顔を向けた。
他人の空似であると分かっていても、あまりにも似ている。笑ったその顔は私の中でヴィンセント・アーガイルと重なって、大きく心臓を揺らした。
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