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第二章 ジュディ・マックイーン
29.夢と現実※
しおりを挟む娼婦になって、腐るほどの男に抱かれた。
オーデコロンの強い匂いが付いた男。仕事終わりの汗の匂いがする男。妻の趣味だという異国のお香の匂いを纏った男。そうした匂いの中で、私は自分と違う存在が今の自分をめちゃくちゃにしていると認識することが出来た。
私は仕事で、仕方なくこうした男たちに人形のように扱われているのだと。それは夢みたいなもので、この行為が終われば私は家に帰ってあたたかな現実の中で眠るのだと。
「ヴィンセント…くん、」
だけど、ヴィンセント・アーガイルからは私と同じ匂いがした。私が好んで選んだホワイトリリーの香りのシャンプーに控えめな石鹸の香り。それらの匂いは、どこまでも現実だった。
肌の上を滑る唇が首筋に到達した時、私はひときわ大きく身体を捩った。羞恥心の極みで死にそうだった。だって私の身体を自分の下に沈めるこの若い男は、私のかつての教え子なのだ。
私は彼に何を教えた?
少なくとも、これから始まることではない。
薄い布の下から侵入した手が、ゆるく双丘を撫で回す。私の夫を殺したと言うヴィンセントは、私のことも犯して捨てるつもりなのだろうか。彼は、私たち夫婦にいったいなんの恨みがあるのか。
「先生…ジュディ先生、」
自分のものではない太い指が、下着の隙間から割れ目を探る。
ふるふると首を振っても、厚い胸板を押し返しても、どうやらもう止めてくれそうになかった。これはそういうプレイであって、私は優秀な娼婦の役割に徹しようと心掛けたけれど、それも難しそうだった。
いつかの日に、客に要求された陳腐なプレイを思い出す。自分は私に惚れた男子生徒で、私は淫乱な女教師という勝手に与えた役割で満足げに独り善がりな行為を楽しんだ男。
そうだ、あの続きだと思えば良い。
私は出来る限り、大きな声で大袈裟に喘いでいるフリをした。自らヴィンセントの背中に手を回して、脚を絡める。早く出すものを出して、何処かへ行ってしまえば良い。どういう理由で彼が私を憎んでいるのか知らないけど、劣情を抱く同居人なんて私の方も願い下げだ。
熟練の娼婦よろしく演技に没頭する私の唇にひんやりとした指が触れた。目を開けると、ヴィンセントは悲しげな双眼をこちらに向けている。その瞳には、憎しみや恨みというよりも、深い孤独があった。
「これが、先生の答えですか?」
「え?」
「安っぽい娼婦のフリをすれば僕が満足すると思いました?それとも、僕も客の一人だと思ってるとか?」
「…………、」
「図星なんですね。仕方ないです、きっとこういうやり方を取った時点で僕は貴方の客と一緒だ」
言いながらヴィンセントはグイッと私の両脚を開いた。
びっくりして伸ばした手は惨めに捕まって、彼らしくないペイズリー柄のネクタイで拘束される。殿方が使うネクタイにこんな使い道があるなんて知らなかった。しかも、やや趣味の悪い色合いには見覚えがあった。
「この、ネクタイ………」
溢れた呟きにヴィンセントは穏やかに微笑んだ。
「よく気付きましたね。そうです、これはベンシモンさんの遺品で、彼が最期に付けていたものです」
「趣味が悪いわ!やめて、今すぐ外して!」
「外しません」
短く言い切ると、幼い子供にするように頭を撫でてヴィンセントは私の額に一つ口付けを落とした。
するりとショーツが脱がされ、熱い舌が肌を這った。風呂上がりだとしても、かなり抵抗感がある。もう彼のことを、あの自称変態の小侯爵だとは思えなかった。
「っあ、ああ、お願い…許して、」
「許す……?なにを?」
「私のことを憎んでるんでしょう?夫もろとも何か恨みを買っているのは分かったわ。何が望みなの?」
「………はははっ!」
ヴィンセントが声を上げて笑うのを、私は初めて聞いた。
「やっぱり貴女は何も分かっていない。その節穴の目も含めて僕は先生を愛しているんですけどね」
「え…?愛して…って……?」
「ジュディ先生、好きです。僕と結婚してください」
手を取って口付けたのは薬指の上。
そこには、五年間を共にした結婚指輪があった。
言葉が出なかった。絶句した。
何も答えない私にヴィンセントは何度目かの優しいキスをする。その押し付けがましい愛は、唇をこじ開けて口内に侵入する。混ざり合う唾液が思考を鈍らせそうで、思わず歯を噛み合わせた。
「………っ、」
驚いて離れたヴィンセントの口の端から、真っ赤な血が流れ落ちる。舌を切ったのかもしれない。
しかし、謝罪を述べる余裕なんてないぐらい私は混乱していた。この間違いを早く正さなければいけない。彼が愛だと言っているそれはただの錯覚で、私は彼を導く良き大人なのだと。きっと、あるべき「教師」の姿はそういうものだ。
「貴方の気持ちは、迷惑なの」
想像以上に声は冷たく聞こえた。
「そんな想いを抱いてるなら、もう一緒に住むことなんて出来ない。私の家から出て行って」
「ジュディ先生、」
「出て行ってほしいの。私たちの家から」
小さな意地悪を滲ませて、私はヴィンセントを突き放した。
察しの良い彼ならばきっと意味するところは分かるだろう。この女の心には今も亡き夫が棲みついているのだと、気が触れたように喪服を着続けるどうしようもない女だと。
そうして諦めてほしい。
お願い、どうか私の心から出て行って。
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