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第二章 ジュディ・マックイーン
28.二ヶ月
しおりを挟む「本当に…気を遣わなくて良いのに」
ヴィンセントは彼が以前言っていた通り、律儀に先月の二倍に近い金額を家賃として手渡してきた。私はずっしりと重たいその封筒を突き返そうとするも、押し返される。
「いいえ。すみません、まだ家が見つからなくて」
「………良いの。大丈夫よ」
先日見た、仲睦まじい二人の姿が頭に浮かぶ。
彼女の家に行ったら?という意地悪な言葉が喉元まで出掛かったけれど、なんとか止めた。我を忘れて大人気ないことを言ってはいけない。
私の風邪は結局二日で治った。
まだ喉は痛いけれど、熱は下がったし、感染症を考慮して今日まで休みをもらっていたけれど、明日からは普通に働けそうだ。休み明けの仕事のことを思うと少し気分は沈んだ。
薄いワンピースの下で身体がブルっと震える。
お風呂を出て寝室へ引っ込む途中で、ヴィンセントに呼び止められたのだ。湯冷めしてまた風邪をぶり返してもいけないし、早く毛布に潜った方が良さそう。
「ヴィンセントくん、おやすみなさい。もう眠るわ」
「………あの、ジュディ先生」
「どうしたの?」
「一昨日の夕方…ピポット通りに居ましたか?」
「え?」
「すみません、似た人を見た気がして」
一昨日といえば、私がミルクを買いに出掛けた日だ。
私がヴィンセントに気付いたのと同様に、彼も私を見付けていたということだろうか。勝手に傷付いた顔をして、その場を去ったことまで知っていると?
「ええ。必要なものがあったから買い物に出たの」
それが何か?と揺るぎない表情を心掛ける。
私がどこで何をしようが彼には関係はないのだから。
「その……何か、誤解をされてるかもしれませんが、」
「あ!もしかして一緒に居た女の子のこと?」
ヴィンセントの返答を待たずに私は言葉を重ねる。
「可愛い子だったわね。お似合いだと思ったの。私がベンシモンと付き合っていた頃も、よくあの通りで待ち合わせたわ」
「…………、」
「便利なのよね。結婚したらデートなんてしなくなっちゃうから、今のうちにいっぱい恋愛しておいた方が良いわよ。まぁ、余計なお世話よね!」
「そうですね」
「あら、珍しく厳しい反応。私には関係ないものね」
ふふっと、あくまでも軽く余裕のある笑みを見せようと思ったのに、実際にやってみたら何だか意地悪な感じになってしまった。
私たちの間に変な沈黙が流れる。
私はこの重たい空気に耐えられなくて、余計なことをまたベラベラ喋り出した。チューニングを間違えたラジオみたいに、ベンシモンとの思い出なんかをベラベラと。もしかすると、この若い教え子が居なくなっても寂しくなんかないと強がりを見せたかったのかもしれない。
「……だからね、これからも私は喪服の娼婦としてベンシモンのことを想い続けていくの。だってそれが愛でしょう?」
言い切ってにっこりと笑顔で見上げると、ヴィンセントは見たことがないぐらい暗い表情をしていた。
不安になって伸ばした両手が大きな手で掴まれて壁に押さえ付けられた。こんな格好は娼館でもさせられたことがないので、私は目を白黒させながら沈黙する黒い犬を見る。
「ヴィンセントくん……?」
ゆっくりと顔を上げた教え子は、男の顔をしていた。
「どうしましたか、先生?」
「なんで…手、」
突然変わった彼の雰囲気に怖くなった。
私はこの二ヶ月の間に、随分とヴィンセント・アーガイルという男に心を許していたのだと思う。少なくとも、風呂上がりにこんな薄着でウロつくぐらいには。
「先生、卒業式の日に貴女が僕に言ったことを覚えていますか?」
「……えっと…なんだったかしら?」
「先生は優しくて良い人が好きだって教えてくれました。それと、思いやりも必要なんでしたっけ」
「ああ。そういえば、そんな話を…」
あれはいつの話だっただろう?
そういった会話をしたことは覚えている。
でもだから何なの、と聞き返したかったけれど、ヴィンセントが私の首元に顔を沈めたことでそれは出来なくなった。文字通り息が止まった。鼓動がドッと速くなるのを感じる。
ようやく顔が離れたと思ったら、ヴィンセントはその両手で私を抱き抱えた。私の抵抗なんて耳に入っていない様子で迷いなく進む彼が向かったのは、夫婦の寝室。
嫌な予感がした。
勘違いで終わってほしいと強く願う。
やけに優しく私をベッドの上に下ろして、ヴィンセントは私を見下ろした。私の心を癒した黄昏時の赤い瞳に今は恐怖すら覚える。何が始まるのか、考えたくなかった。
「ジュディ先生、僕は貴女に嘘を吐いてました」
独白のように話し続けながら、ヴィンセントは私の肩の上で結ばれたスリップのリボンを解く。薄いワンピースが衣服としての役目を終えて、布に戻った瞬間だった。
「僕は優しくないし、良い人でもない。思いやりは…どうでしょうね?あるように見えますか?」
なんて答えたら良いか分からず、私は黙り込む。
私はどうしてか、彼が学生だった時、つまり私たちが共犯になってしまったあの空き教室での出来事を思い返していた。私はどうして彼に手を差し伸べたのだろう。なぜ「良い先生」であることに固執したんだろう。
あんな身勝手な優しさを見せたから、きっと。
「僕は先生のことが大好きですけど、先生はきっと人を見る目がないんだと思います」
「そんなこと、」
「貴方の夫は死にました。僕が殺したので」
「………!」
息が、うまく出来なくなった。
ヴィンセントは私を見ている。反応を確かめるような視線に息が詰まった。ベンシモンを殺したと、彼は言ったのだ。私の夫を殺したのは、自分であると。
「ねぇ、ジュディ先生。それでも僕を信じてくれますか?」
大きな手が降って来て私の視界を覆った。
たぶん私は泣いているのだと思う。
彼の罪の告白を聞いたからではない。自分が絶対的な安心を寄せていた、ぬるま湯みたいに居心地の良いこの関係が、求められず求めなくて良い相手だった彼の豹変が、私の「安定」した生活を揺るがすことになると悟ったから。
そう、怖がりな私は真実に触れることを恐れていた。
教え子に心を乱されてしまう愚かな自分と向き合うことを。
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