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第二章 ジュディ・マックイーン
17.祝杯と無駄口
しおりを挟む翌日、ゲイリー・ドグナー男爵が連れて行ってくれたのは小洒落た小さなレストランだった。給仕の所作を見るに華美ではないものの格式が高いことは窺える。
私はこの日も闇夜に紛れるような漆黒のドレスを着ていた。やや重たいビロードのドレスは夫が私の初めての誕生日に贈ってくれたものだ。暗い雰囲気になり過ぎないように、アクセサリーは華やかなものを選んだけれど、男爵は何も気にしていないようだった。
ゆったりとしたクラシック音楽が流れる室内で、私たちは運ばれて来る料理を堪能して、最後は彼の誕生日を祝うケーキを食した。蝋燭の立ったケーキを食べるのなんて何年振りだろう。記憶を遡ってもよく分からない。
私はいつから、自分の誕生日に期待しなくなったのだろう。
「ジュディ、今日はどうもありがとう。君のおかげで良い誕生日になったよ。君に出会えて良かった」
「もったいない御言葉です。まだ働き出して間もない私を見つけてくださった男爵に、私の方が感謝すべきです」
「聡明で知的な女だ。お祝いついでに、最近あった君の生活の変化を教えてくれるか?」
「生活の変化…ですか?」
「ああ。近頃明るい顔を見せるようになったから」
そう言ってウィンクをするゲイリーを見て、私は驚いた。
近頃というと、いつ頃のことを言っているのだろう。最近の目ぼしい変化といえば、居候として転がり込んできたヴィンセントとの距離感がようやく掴めるようになったことぐらいだ。
彼がトランク一つで越してきた当初は、やはり他人ということもあって多少の気を遣った。それも元教え子なので、あまりダラけた態度は見せられないと肩に力が入っていたかもしれない。
だけど、ここ最近は慣れて、なんだか親戚の子供を預かっているような気分でいた。もしくは、離れて暮らす弟が突然同居することになったとか。
仕事に行く私を見送るヴィンセントの笑顔を思い出して、私は少し笑う。家に自分以外の人間が居るストレスは、このところ「一人ではない」という安心感へと変わって来ていた。
「……実は、犬を飼い始めたんです」
「ほう。犬を?」
「ええ。とても大きな犬で、あまり人に懐いていなかったんですが、最近少しその子の扱い方も分かってきて」
「興味深い。犬は一定のリラックス効果を人に与えるからね。彼らは賢いから、きちんと躾ければ、きっと君の良いパートナーになるだろう」
うんうんと頷きながら、突然思い出したようにゲイリーは自分と妻がかつて飼っていたというポメラニアンの話を始めた。その小さな茶色い犬は、妻の後を追うように亡くなったらしい。
涙ぐむゲイリーに私はハンカチを差し出す。
その手を握り締めて、老いた男は私の目を覗き込んだ。
「しかし、ジュディ…どうか気を付けておくれ」
「何をですか……?」
「君が飼っていると思っている犬に、実は君が飼われている可能性もある。決して手を咬まれてはいけないよ」
「咬まれるだなんて、」
「彼らは賢い。愛らしい姿に騙されないように」
硬直する私に気付いたのか、ゲイリーは「脅すようなことを言ってすまんね」と手を握る力を緩めた。私は机の上から手を引っ込めてテーブルの下に隠す。左手を重ねると、自分の右手がわずかに震えているのに気付いた。
ゲイリーは犬の話をしているのだ。
私が本当に生活を共にしているのは、若い男だと知ったら彼はどんな反応をするだろう。ましてや、その男は私が受け持っていたクラスの生徒だと知ったら。
会計を済ますゲイリーに礼を伝えて、私たちは連れ立ってタクシーに乗り込んだ。久しぶりにお酒を飲んだせいか、酔いが早く回った気がする。ふらつく私を心配してか、親切な紳士はプレイを「した事」にして、今日は帰ることを勧めてくれた。私はありがたくその提案を受け入れる。
(………ヴィンセントくんは家に居るかしら?)
いつも通りならば、きっとこの時間には彼は家に帰宅しているはずだ。今日は外食すると伝えたから、自分で何か作るか買って帰るかして食事を済ませているだろう。
「お帰りなさい、先生」
「……うん」
案の定、ヴィンセントは私を出迎えてくれた。
この教え子がいったい何の仕事をしているのか知らないけれど、毎日きっちりスーツを着て出掛けて行くからきっと何かお堅い仕事にでも就いているのだと思う。そうであれば、元担任として私も鼻が高い。
「お酒を飲んで来たんですか?」
「うん。少しだけね」
大嘘、本当はグラスに五杯は飲んだ。
酔いを誤魔化すように私は言葉を重ねる。
「昔ね、夫と結婚したばかりの頃によくワインの飲み比べをしていたの。私はあまり強くないから、たいてい彼が酔っ払った私を介抱する損な役になっちゃって」
「………そうですか」
「ふふ、死んでからこういう思い出って湧いて来るものなのね。今まで綺麗に忘れていたのに、不思議」
本当に不思議だ。
私はどうして今更こんな話をヴィンセントにしているのだろう。全く関係ない彼を相手に、どうして。
酔っ払いの無駄口をヴィンセントは黙って聞いてくれる。慣れない高いヒールを脱ぐ時に、ぐらりと傾いた身体は伸びて来た二本の腕で支えられた。
「ごめんなさい……まるでこれじゃあ、おばあちゃんだわ。酔っ払いの戯言に付き合わせて悪いわね」
「いいえ。先生の生活の邪魔をしているのは僕なので」
言いながらヴィンセントは私の背中に手を回す。
どうやら肩を貸してくれるようだ。
「……例えば、ずっと朝にパンばかり食べているとするでしょう。初めは好きでも毎日続くと飽きちゃったりするけど、ある日突然パンが食べられなくなったら、寂しくなるわよね」
「何の話ですか?」
「今まで…一緒に居るのが普通だったの。死んだなんて嘘みたい。やっと自由になれるなんて思ったのは最初だけで、今じゃあ心に穴が空いたみたいにスースーするの」
分かるかしら?と問い掛けると、ヴィンセントは黙って私の瞳を見つめ返した。太陽が沈む時の空みたいな色をしている。顔を背けて周囲を見渡すと、どうやら私たちはいつの間にか寝室の前まで移動していたようだ。
ヴィンセントは空いた方の手で器用にドアノブを回して、私はつられて部屋の中へ進む。ベッドの上に座るといくらか気分は楽になった。ペディキュアの剥げた裸足の爪先を眺めていると、帰って来た優秀な生徒は私に水の入ったグラスを渡した。
「僕には分かりません」
「え?」
私は回転が遅くなった頭で聞き返す。
「僕だったら、一度好きになったパンに飽きたりしない。食べられなくなる前に一生分を買い占めます」
「………ふ、あははっ!なにそれ!」
思わず声を上げて笑ってしまった私を見下ろすヴィンセントは冗談を言ったつもりはないのか、首を傾げる。私は本格的な睡魔が降りてくる気配を感じて、大きな犬に就寝の挨拶を告げた。
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