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第二章 ジュディ・マックイーン
11.最愛との結婚
しおりを挟む『貴女に快適な空間と食べるのに困らないお金を与えてくれる人を、貴女は愛するべきよ。それが最愛の人なの』
母が口癖のように何度も言っていた言葉は、摺り込みのように私の頭にこびり付いて、私はその通りの人を手に入れた。
ベンシモン・マックイーンと出会ったのは友人の結婚式だったと思う。なんでも、新郎が以前働いていた不動産の同僚だかで、年もそこそこ近く、穏やかな話し方に私は好感を持った。十代のナイフのような不安定な心を日々目にしていたから、自分自身安定した誰かに縋りたかったのかもしれない。
不動産業を開業したというベンシモンは、街の人たちからも一定の信頼を得ているようだった。私が彼と共に歩けば、必ず誰かが声を掛けて来るし、行く末は議員なのではないかという声もあって、両親は私以上に彼との結婚を望んでいた。
私の気持ち?
どうなのだろう、特に嫌ではなかったと思うけど。
「結婚したら、丘の上に赤い屋根の家を建てよう。良い土地があるんだ。きっと君も気に入る」
「私たち…結婚するの?」
「え?そのつもりだと思ってたんだが」
「そうなのね。でも、仕事は……」
「君のクラスの生徒ももう卒業だ。ちょうどキリも良いし、これで退職したらどうかな?」
「………そうね」
眼鏡の向こう側で微笑むベンシモンを見て、私は自分の答えが正解であると判断した。
それからはあっという間で、三年間という短い間の教員生活は静かに幕を閉じた。ベンシモンの提案を受けて自分の教え子たちを結婚式に招待し、その式をもって私は旧姓であるフォレストと決別すると共に「先生」としての呼称を捨てたのだ。
結婚して家に入ったジュディ・マックイーンの生活については特筆すべき事項はない。機械のように決まった時間に起きて決まった時間に眠る夫に合わせた生活は、始めこそ大変だったものの、慣れるとルーティンのようだった。
起床は六時半。
朝ごはんは半分に切ったトーストと砂糖を入れない紅茶。毎週水曜と土曜だけはコーヒーを飲む。フルーツや目玉焼きなんかは、必要とされていなかった。結婚当初は「パンだけでは寂しい」と気を利かせて出していたけれど、一向に手を付けようとしない夫の姿を見て、それらは彼にとっての「不正解」であると知った。
仕事に出て行くベンシモンを見送ったら、自分の自由時間。自由とは言っても、彼は毎日その日あったことを聞きたがったので、行動には少し気を遣った。一度だけ、観たかった劇に友人と足を運んだことがあったが、それを楽しげに伝えた時の彼の反応は微妙なものだった。
「………観劇?」
「ええ。好きな小説が元になっていてね、演出家も有名な方だったからすごくハマっていて…」
「君は随分と時間があるんだね。僕は今日も疲れたよ」
「あ……ごめんなさい、」
「悪いが食欲がないから残させてもらう」
席を立って、自室に引き上げる後ろ姿を見送った。
まだ自分とさほど年齢も変わらないのに、この数年の間に彼には白髪が増えたと思う。二十代半ばにしては老いを感じる肌も、彼が苦労している証拠なのだろうか。
皿の上に綺麗に並んだ魚の切り身をゴミ箱へ捨てながら、私は自分の結婚式を思い返していた。
あの時は、何を思っていたのだろう。参列した生徒たちに見送られて、舞い上がる白い紙吹雪の中を歩いた。赤いカーペットが敷かれたその道は、幸せへと続いていると信じて疑わなかった。
(………幸せ、なのかしら)
自ら望んだはずの生活は、昔よりも少し色褪せて見える。
最愛だった夫は、ここのところ別人のようだ。
温かい食事を食べることが出来て、雨風を凌げる家も与えられている。私はこの揺るぎない安定を幸福と考えて、彼の手を取った。そう、これは幸せであるはずなのだ。
暗示を掛けるように目を閉じた。
ジュディ・フォレストが上手く対処していた数々の事象は、今の私には流すことが難しい。ただただ大きな水槽の中の魚のように、流れを読んで漂っていれば良いだけなのに、どうして。
昔、担当していたクラスの生徒に「本当の恋を知っているか」と問われたことがある。私はあの時になんと答えたのだろう。たしか、結婚を目前にした自分は、ベンシモンとの関係が本物であると信じたくて、もちろんだと頷いたはず。
あの質問をしたのは誰だったのだろう。
どうして、私はあんな強がりを見せたのか。
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