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第一章 ヴィンセント・アーガイル
08.土曜日
しおりを挟むジュディと暮らし始めて二日目の夜。
僕が帰宅すると慌ただしく出て行く彼女と鉢合わせた。店の指示なのか、星屑をばら撒いたような化粧は、彼女をすっかり「夜の女」に見せた。目尻に跳ね上げた黒いアイラインは、これから出会う男たちへの挑戦状みたいだ。
「……今からお仕事ですか?」
「ええ。いつもバタバタしてごめんなさいね。グラタン、作り過ぎちゃったからご飯まだだったら温めて」
「すみません、いただきます」
「それじゃあ」
「先生、」
思わず掴み取った手首が、あまりに細くて驚いた。
アカデミーでこの手がペンを握っていた頃は、こんなに痩せ細ってはいなかったと思う。かつての教え子である自分の迷惑な申し出も快く受け入れて、夫が遺した理不尽な借金も身体を擦り減らして返済する。
まともな人間なら音を上げているだろう。
逃げ出したいと願うはずだ。
不思議そうに首を傾げるジュディの耳元で、彼女に似付かわしくない派手な偽物の宝石が揺れた。ルビーを模した大粒の赤いガラスの塊。こんなもの幾らでも本物を買い与えるから、娼館なんかで働かなくて良いぐらいのお金を渡すから。
(………そんなこと、出来ないんだ)
壁に掛かった時計を気にするようにジュディの目線が動いたのを見て、僕は彼女の手首を解放した。
「すみません…どうか気を付けて」
「ふふっ、こうやって見送られると年の離れた弟みたい」
「……そうですか」
「ヴィンセントくんもゆっくり休んでね。寝る前に戸締まりはすること、良い?」
「はい。分かってます」
パレルモの番犬と呼ばれる自分が、好きな女の前でこんなに従順な態度を取ることを知ったら、きっと笑いものだろう。ゴーダあたりは行き付けの飲み屋なんかでも言いふらしそうだ。
行かないで、先生。
そんな無責任な一言を僕は呑み込んだ。
ジュディはニコニコ笑って軽快な足取りで玄関から出て行く。すっかり暗くなった空の下に出ると、すぐに彼女はその闇に溶けた。
「………弟だってさ」
ポツリと吐き出した声の暗さに自分で引いた。
子供と呼ばれなかっただけマシだろうか。
僕がジュディと出会った時、彼女は二十歳を過ぎたばかりの新米教師だった。アカデミーでの三年間を経て、僕が想いを伝えられないままにジュディはフォレストの姓を捨ててマックイーン家に嫁いだ。
あれから五年。
僕はもう二十三歳で、十分に大人になった。掃除を始めとして苦手だった身の回りのことも一人でなんとか出来るようになったし、野菜などの好き嫌いもかなり減った。
この拗れた片想いだけが、化石みたいにずっと胸の中央で凝り固まっている。供養されない想いをいつまでも抱き続けることが大罪ならば、僕はとっくに死刑だ。
冷蔵庫の中には青い陶器の皿に入ったグラタンがあった。落とさないように取り出して、オーブントースターに放り込む。焦げ始めたグラタンがもくもくと煙でその危機を知らせるまで、僕は深い考え事に沈んでいた。
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どうぞよろしくお願い致します。
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