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第一章 ヴィンセント・アーガイル
00.祝日或いはプロローグ
しおりを挟む思えば、僕たちは最初からおかしかったのだと思う。
彼女が夫の死を弔うために年がら年中黒いドレスで過ごすと聞いた時、僕は正気かと疑った。べつにその服に色が付いてようが付いてなかろうが、ジュディが着ていれば女神のように美しいし、他の男を寄せ付けないという点では歓迎できる。
問題は、彼女がその死を悲しみ嘆く夫が、これっぽっちも善人なんかではないということ。でも、僕はそんなことは口にしない。一つ本当のことを伝えれば、きっと次から次へとへとボロボロ溢れて明るみになってしまう。
「ヴィンセントくん……?」
ジュディは不思議そうに首を傾げた。
「どうしましたか、先生?」
「なんで…手、」
壁に押さえ付けられた手首を見遣って、茶色い瞳はゆらりと揺れた。鈍感な彼女の中にこれから起こることを予測するだけの機能は備わっているのだろうか。
この家が小高い丘の上に位置していて、周囲に民家が少ないことにこれほど感謝する日が来るとは思わなかった。彼女が夫と呼ぶ豚と過ごした年月を思うと吐き気がするけれど、もう欠片さえ残らない彼のことを恨むのは止そう。
「先生、卒業式の日に貴女が僕に言ったことを覚えていますか?」
「……えっと…なんだったかしら?」
「先生は優しくて良い人が好きだって教えてくれました。それと、思いやりも必要なんでしたっけ」
「ああ。そういえば、そんな話を…」
記憶を探るようにジュディは少しだけ目を細める。
僕は、無防備な彼女の首元に顔を沈めてみた。わずかに身じろいだ身体からは清潔な石鹸の香りがする。お風呂上がりだからか、汗ばむ季節でもないのに首筋に浮かんだ雫は、より一層僕の気分を良いものにした。
正装には黒いドレス、普段は地味な黒い麻のワンピースを好んで着る彼女が、唯一その呪いを解くとき。それは彼女がゆったりとした眠りに着く夜の間だった。
僕は嫌だった。
あのろくでなしの男を夫と呼び、死んだ後も彼のために祈るジュディが。そんな彼女に真実を打ち明けることが出来ない自分が。同じ家に住みながら他人のようなフリをする関係が、すべて。嫌で嫌で堪らなかった。
だから、もうそんなもの止めてしまおうと思った。
手を伸ばして抱き上げた身体は思ったより軽くて、ジュディは小さな抵抗を示しながら「ちょっと」とか「どうしたの」と困惑した声を上げる。僕はそのまま彼女を夫婦の寝室に運んだ。正しくは夫婦の寝室だった場所、これからは夫の部分が豚から僕に上書きされる。
剥がれたペンキを塗り直すようなもの。
僕は、彼女の中の思い出を書き換える。
ベッドの上に優しく下ろすと、さすがに鈍いジュディも何かを察知したようだった。向けられる目は恐怖と軽蔑、そしてはっきりとした拒絶の色を含んでいる。
「ジュディ先生、僕は貴女に嘘を吐いてました」
僕は彼女の肩の上で結ばれたスリップのリボンを解く。
「僕は優しくないし、良い人でもない。思いやりは…どうでしょうね?あるように見えますか?」
ジュディの茶色い瞳はもう涙で濡れていた。
大切な愛の告白は、僕たちが甘くて溶けそうな雰囲気になってからと思っていたけれど、どうやらそうはいかなさそうだ。僕は彼女のことを泣かせてしまったから。
「僕は先生のことが大好きですけど、先生はきっと人を見る目がないんだと思います」
「そんなこと、」
「貴方の夫は死にました。僕が殺したので」
「………!」
ヒュッと息を吸う音がして、ジュディはそれっきり黙った。
恐怖と軽蔑を湛えた両目には新たに憎しみが加わる。
「ねぇ、ジュディ先生。それでも僕を信じてくれますか?」
悲しい顔は見たくないから、彼女の双眼を片手で覆った。
もうすっかり冷えた肌に口付けを落とす。
僕はこれからこの女神を手に掛ける罪人だ。
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