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09.透明人間
しおりを挟む「お帰りなさい。ケーキありがとうございました」
夕食を食べていると白秋が帰宅する音がしたので玄関まで行って出迎えた。四日目となる今日は彼の部屋で目覚めるという衝撃的な朝だったけれど、何もなかったのであれば別に気にすることはない。
須王白秋は「新婚さんみたいで良いね」と、軽口を叩いて笑いながら洗面所の方へ消えた。
私の推測ではおそらく昨日より多少は、彼は私に心を開いてくれているはずだ。なんてったって彼は私を自室に招き入れてくれたのだから。事の流れがどうだったのかは不明だけれど、自分の部屋に気を許せない人間は入れないだろう。
「今日はお魚なんですが、如何でしょう?」
「貰うよ。何だか餌付けされてるみたいだな」
白秋はにこにこしながらそう言う。
お金は全部白秋が出してるので、どちらかと言うと餌付けされてるのは私の方だ。餌付けどころか、完全に飼われてると言っても過言ではない。
グリルに魚を敷きながら、昨日の会話を思い出す。
白秋は、私が逃げ出そうとしないのはおかしいと言った。言われてみれば確かに理解できる。彼と会話したあの会議室を出て上階へ移動する時も、玄関に届いた食品を取りに行った時も、いっそ何処かの窓からだって、私が本気になれば逃げ出すことは出来たかもしれない。
その可能性は今だって十分残っている。だけれど、私が挑戦することはない。それは失敗した場合の万が一を考えているためであって、私が支配に慣れているなんていう意味不明な理由ではない。
「鮭の川上りって知ってる?」
紅鮭の身をほぐしながら、白秋が私に問い掛ける。私は口の中を占拠していた白米を飲み込んで頷いた。
「卵を産むために自分の故郷の川に戻って来るらしいけど、川って上流に向かうほど狭くなっていくから生存率はかなり低いらしいよ」
「そうなんですね……」
「ズタボロになっても古巣に帰るなんて、すごいよね」
「…なんだか食べるのが申し訳なくなってきます」
何の会話だろうこれは。彼の意図が掴みきれずに、お茶を飲みながら様子を伺った。
「真さんは彼氏に会ってどうするつもりだったの?」
「………え?」
「また、よりを戻して貰おうと思った?」
「そんなこと、」
「じゃあどうして?」
どうしてわざわざ傷付くと分かっていて追いかけるのか、と白秋は私に聞いているのだ。詫び入れない顔で無邪気に心臓を抉り出すような質問をする。
「自分でも…分かりません」
「そうなの?」
「ただ、私の何が駄目だったのか知りたくて…それが分かれば自分が納得できるような気がしたんです」
「なんで自分が悪いと思うの?」
「だって……」
そんなの、考えたこともなかった。元恋人が怒り出す時はだいたい私が謝っていたし、そもそも反論の余地などないと思っていたから。
口をつぐむ私を見て白秋は目を閉じる。
「真さんね、俺の知り合いに似てるんだ」
「知り合い?」
「自分を責めて全部受け入れるところとか」
「そんなことは…」
「あんまり抱え込むと潰れちゃうよ。自己肯定感の低さに付け入る人間も居るってこと、分かった方がいい」
お節介でごめんね、と言うと白秋はまた食事に戻った。なんとも言えない胸の重さが息を詰まらせる。親切な忠告のつもりかも知れないけれど、白秋の言葉はいつも鉛のように心に溜まる。いつか心臓が破れて鉛が落ちて来るのではないかと私は内心ヒヤヒヤしている。
「その、知り合いの方はどうされてるんですか?」
「ん?」
「今は前を向いているんでしょうか…?」
「死んだよ」
「……え?」
「急行の電車に飛び込んで撥ねられた。人身事故って遺族に損害賠償来るから止めた方がいいよ、うちの場合は父親が払ったみたいだけど」
理解が追い付かない私を席に残して、白秋は手を合わして早々に食べ終わった皿を片付け始めた。私は聞いて良いのか戸惑いながら、その背中に問い掛ける。
今の彼の話ぶりだと、まるで。
「亡くなった知り合いってもしかして…」
「俺の母親。俺が小学校上がる前だったかな?」
「……ごめんなさい」
「なんで謝るの?気になったから聞いたんでしょ?」
「…………」
俯く私の隣に白秋が立つ。私は顔を上げることができなくて、目の前の皿に乗った鮭の切り身を見つめた。
「俺の母親はね、須王正臣に心を壊されて死んだよ。18で出会ったあの男に孕まされて、周囲の反対を振り切って一人で俺を産んだ。認知なんて当たり前にされなくて、だから俺は今だって透明人間だ」
両手を上げてブラブラと振りながら、須王白秋は茶化したように話す。その口振りは話題と相反して軽い。
以前、白秋は自分のことを存在しない人間であると説明した。今の話を整理すると、彼の母親は出生届を出していないということだろうか。しかし、以前調べた情報では須王正臣は現在の妻以外の人間と結婚歴はないはず。
「なんか考え込んじゃってるから補足するけど、俺が須王正臣に初めて会ったのは母親の通夜の日だよ。どこから聞きつけたのか金だけ持って来た。何かあったら頼ってくれって俺に名刺渡して。罪悪感でも芽生えたのかな?」
白秋は声のトーンを落とすでもなく、ただただ会話の一部として話しているようだった。その様子には悲しみも憎しみも感じられない。
彼が語るところによると、母親の死亡後は暫く連絡を取らなかったが、白秋が二十歳になったタイミングで再び連絡が来たらしい。養子として迎え入れることは出来ないが、生きていく手伝いをすることは出来ると。そうして白秋が影武者のように父親の事業を手伝うようになって今に至る、という話だった。
「向こうとしても宜しくないんだろうね。40歳のおっさんが未成年に手出して出来た子供なんて世間様に知られたら大変だ。俺はつまり、須王正臣の恐怖なんだよ」
母方で唯一の親類だった婆ちゃんも亡くなったし消されるのも時間の問題かもしれないけど、と白秋は続ける。
まだ若干25歳の若者なのに、自分の人生をそんな風に淡々と人に語れることに驚く。私が彼ぐらいの年齢の頃はちょうど自分の内なる問題を疑っていた最中で、どうしたら自分が人と同じように恋愛をして愛されるかなんてことばかり考えていた。白秋に話したら鼻で笑われるだろう。
「ねえ、真さん。このあと部屋で話そうよ」
「部屋って?」
「俺の部屋。もっと真さんのこと知りたいな」
椅子に座ったまま私は隣に立つ白秋を見上げる。相変わらず何を考えているのか分からないその笑顔に、怯えながら小さく頷いた。
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