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フランチェスカ 三十五歳
しおりを挟む自分ならば、出来ると思っていました。
愛する人が望むものをすべて与えること。
愛する人と共に生きる幸せな暮らし。
「トム、今日は何時に戻るの?マルグリットの熱が下がらないから、早めに病院に行かないといけないわ。私だけでは不安なのよ、」
「僕に付き添えって言うのか!?こっちは新規の顧客開拓で忙しいんだ。隣の都市サガンの急成長に伴って王都の地価も上がっている。今が買い時なのにどこの貴族も怖がって手を挙げやしない……!」
「だけどマルグリットが!」
「ちょっと熱が出たぐらいでなんだって言うんだ。もう五歳だろう?放っておいても死にやしないさ。乳母の言うことを聞いて寝かせておけよ。熱が下がらないなら冷蔵庫にでも入れろ!」
「そんなことしたら死んでしまうわ!」
私が返した絶望的な言葉は、玄関の扉に跳ね返って静かな部屋の中に消えました。
家を出て行く夫の隣に見えた金色の長い髪を忘れることが出来ません。トムが新しく雇ったという秘書の女が、実際のところ事務仕事とは無縁のただの愛人であることを私は知っていました。
「おかあさま………」
腕の中でぼんやりと私を呼ぶ小さな身体を抱き締めます。この子供は、私しか頼る人間が居ないのです。彼女の世界には、私しか。
子を産んで育てるという一連の行動に伴う責任を、私は自らが母親になってようやく理解しました。日々は目まぐるしく、同時に、新鮮です。亡くなった両親もまた、このような気持ちで私に接してくれていたのでしょうか。いつか会うことができれば、是非とも聞いてみたいものです。
「大丈夫よ、マルグリット。ジョセフィーヌと母様と三人で病院へ行きましょう。運転ならきっとタクシーが捕まえられるはずだから」
公爵家に勤める運転手たちは皆、トムの言うことしか聞きません。誰よりも自由を愛するこの家の当主が、実のところ妻と子には檻の中のような生活を強いるのは不思議な話です。
私は乳母のジョセフィーヌを呼んで、一番あたたかな膝掛けで子供を包み、家を出ました。希しくもそれは私が三十五歳になる日のことで、結婚して五年目にして私は自分の誕生日を愛する人に祝われないという不幸に見舞われていました。
だけれど、そんなことは言っていられません。自分の子供が高熱で苦しんでいるのです。棺桶に向かうだけの私の命より、まだ先の長いマルグリットの命の方が貴重であることは、言うまでもないでしょう。
「奥様、」
病院に向かうタクシーの中で乳母のジョセフィーヌが不意に私の名前を呼びました。
「どうしたの?」
「こちらの膝掛けは贈り物か何かでしょうか?」
「いいえ。私が作ったものだけど、どうして?」
私はマルグリットを包む膝掛けを見下ろします。いくつかの端切れを縫い合わせたそれは、裏面と表面で違った絵柄を楽しめます。
「とてもお美しいですね。以前から思っていましたが、奥様は裁縫の才がありますから、お時間がある際に作品をこしらえて数を作ってみてはいかがでしょうか?展示会など開催すれば、きっと他の婦人方の目に止まりますよ」
もちろん私もお手伝いします、と言い添えるジョセフィーヌを見て、私は驚きで目を瞬きました。そんなことは初めて言われたのです。
しかし、この提案がきっかけとなって、私はいくつかのドレスと男性もののシャツを作りました。田舎町の洋裁店で習った技術を活かして、帽子作りにも取り組みました。
その甲斐があって、数が揃った私の作品たちは『フランチェスカ・ロレイン』という手製のタグと共に次の春に売り出されることになりました。
バーガンディの夫の姓を名乗らなかったのは、ただの私のちっぽけなプライドです。自分の力でやってやるのだ、という意地のようなもの。
有難いことに、私が作り出す服たちはジョセフィーヌの読み通りに茶会などを通して婦人たちの間で評判を広めました。
そして、私の服飾事業が右肩上がりになるにつれ、夫のトムは家を開ける日が増えるようになりました。
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