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15 壁と本気
しおりを挟む使用人たちが感じていた春の気配はいつの間にやら薄らいで、鈍感な者などは「あれは気のせいだったのだ」と口にするようになった。仲睦まじく時を過ごしていた若い二人も一緒に目撃されることが減った。
「………もうすぐ結婚式だというのに、殿下はマリッジブルーなのでしょうか?あんなにデイジーお嬢様を部屋へ呼んでいたのが嘘みたいです」
「セオドア様はきっと忙しいのよ」
「しかし、お二人はじきに夫婦になるのですよ?徐々に熱を上げていくべき期間なのに、どうして急にこんな突き放すような態度をっ!」
「何か……考えがあるんでしょうね」
憤るペコラを横目にデイジーは窓の外へ目をやる。
朝方からシトシトと降り続ける雨がガラス板を濡らしていた。このところ雨季に入ったのか天気は崩れがちだ。式の当日はなんとか晴れてくれれば良いのだけど。
(気分が滅入るわ………)
セオドアは自分のことを避けている。
それは誰が見てもはっきり分かるほどに。
初対面のときは何の期待もされず、好意どころか関心すら抱かれなかったセオドアが、やっと最近になって心を開いてくれたように感じていた。
彼の方から部屋に呼んでくれたり、食事や散歩に誘われる機会が増えていたから、関係は良好になりつつあると勝手に楽観視していたのだ。
「どうやら、お飾りの妻であることを思い出したようね」
「え?」
「いいえ。セオドア様は随分と気難しいみたい」
「それはそうですよ。出会ったばかりの婚約者にお飾りだのなんだの言う男、偏屈に決まっています!」
「だけどね、エミリー」
デイジーは立ち上がってエミリーの前に立つ。
解け掛けた胸元のリボンを正しながら笑顔を浮かべた。
「私は壁が高い方が燃えるタイプなの。なかなかゲームが面白くなってきたから、そろそろ本気を出そうかしら」
「お嬢様……?」
ポカンとした侍女たちの前でくるりと身を翻すと、デイジーは化粧台の前まで歩いて行って台の上に置かれた小箱を開けた。中には小さな香水の瓶が綺麗に整列している。
これらはシャトワーズ公爵夫人、つまり母から引き継いだものだ。母もまた嫁入り時に祖母から託されたらしく、年代を経てもうラベルの文字が読めなくなったものもある。
デイジーが小さい頃、この小箱を開けながら母親は「貴女も大人になったら使うことになるわ」と言っていた。魅了の類ではないと思うけれど、香りは時として魔法のような効果を発揮する。
「殿下はお部屋にいらっしゃるかしら?」
「あ……先ほど、本を抱えて食堂を去るのを目撃しました。図書室か、お部屋で過ごされていると思います」
「そうなのね」
デイジーは化粧鏡の中の自分の顔を覗き込む。
耳下で短く切り揃えられた黒髪、青白い顔にはクマが浮かんでいるものの、コンディションはそこまで悪くはない。お風呂上がりのような頬紅でも付け足せば、もう少し見栄えは良くなることだろう。
「ねえ、もう湯浴みを済ませようと思うの。手伝いをお願いしても良い?」
「もちろんでございます」
サッと前へ歩み出たバーバラがデイジーに頭を下げる。
気分を変えたい、と伝えるとバーバラは良い香りのするバスソルトに肌がしっとりする香油を持って来てくれた。香りがぶつからないように、そこまで匂いは長続きしないものを選んでくれるあたり、彼女の気遣いは素晴らしい。
「ペコラ、セオドア様に話があるとお伝えして」
「今からでございますか?」
「ええ。一時間後と」
ペコラがパタパタと急いで部屋を去って行く。
デイジーはエミリーとバーバラの補助を受けながら苦しいコルセットの締め付けから自分を解放し、ゆっくりと湯の中に足を踏み入れた。じんわりと温かなぬくもりが身体を包み込む。
「いよいよ決戦の時ね」
ちゃぷんっと湯が波を立てる後ろで、二人の侍女は何のことかと首を傾げた。
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