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第三章 氷の渓谷編

76.はちみつトーストを所望【W side】

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最近、クロウ家のメイドたちが浮き足立っている理由はただ一つ。自分の父親がその事実に気付いているのかは知らないが、地下一階の奥の奥、使用人も普段はあまり立ち入らない部屋に自分が匿っている怪我人が原因だ。

どこから漏れたのか知らないが、瀕死状態で夜中に運び込まれた彼のことを一目見ようと、最近用もないのに部屋の周辺をウロつくメイドの姿は気に触る。

「………何か?」

わざわざ後を付けて来て、あわよくば一緒に部屋へ入ろうとする強者まで出てくるからタチが悪い。ドアノブに手を掛けたまま、不機嫌を全面に出して振り向くと、二人組のメイドは焦ったように頭を下げて去って行った。

全くもって良い迷惑だ。


「おかえり、ウィリアムくん。朝食は何かな?」
「お前のリクエスト通り、はちみつトーストと紅茶だ」
「生憎なんだが利き手が不自由でね…」

食べさせてくれると嬉しい、と続ける口に食パンを押し付けた。ニコニコ笑いながら齧る横顔は、男の自分が言うのもなんだが女ウケが良いのも納得できる。

「悪運が強いとは思っていたが、ここまでとはな」
「幼馴染が生きてて最高に嬉しいだろう?」

ノア・イーゼンハイムはふざけた様子で手を叩き、ぐらぐら揺らしながらカップを手に取った。刃物で切れた右手はどうもまだ痛むようで、まともに使えるようになるには時間が掛かりそうだ。

目の前で陽気に笑うこの男が死にかけたのは二週と三日前のこと。氷の渓谷などという御伽話のような場所で魔女や魔法と対峙した結果、ノアは致命傷となる傷を腹部に負った。涙を流すリゼッタを説得し、なんとか近隣の村まで辿り着いたが、正直なところ自分も彼の命を保証することは出来なかった。それほどに出血量は多く、時間が経っていたから。

長らく昏睡状態だった彼が意識を取り戻したのは昨日の夜のことで、今こうして同じ空間に存在しているのは奇跡とも言える。

「お前、本当によく生きてるよ。未だに信じられない」
「リゼッタの魔法のお陰かな?」
「……そうかもしれないな」

証明できない奇跡の原因が彼女の強い祈りなのだとしたら、少しばかり納得できる気がした。山を降りて村に入り、車を借りて大きな病院へ向かう際にリゼッタとは別れていた。

それは万が一を危惧した自分の優しさでもあったし、彼女自身も同行することを拒んだ。皆、受け止める自信がなかったのだと思う。それほどまでに覚悟をしていたのだ。

「で、リゼッタは今どこに?」
「カルナボーン王国へ帰したよ。魔女は死んだ、もう何も彼女は恐れる必要がない」
「それは…ルネが手紙でも送って来たのか?」
「ああ。近況報告程度のものだが」

渓谷の魔女が死んだ、それはつまり彼女が掛けた様々な魔法や呪いが解けることを意味する。氷の渓谷と恐れられた場所は、その姿を雪の下から表した。一年中通して降り積もっていた雪は、嘘のように消え去って、渓谷は元の美しさを取り戻したと聞いている。

「まさか娼館で働いてるわけじゃないだろうな?」
「そこは流石にナターシャに頼んだよ」

安心したように赤い瞳が閉じられる。ノアの看病で手が離せない自分の代わりに使用人に車を出させたが、その際にナターシャへの手紙も託けた。彼が眠っている間にリゼッタを娼婦に戻したりしたら、目覚めた時にどんな報いを受けるか分からない。

「どのくらいで動ける?」
「さあな…生きてるだけで儲け物だ。少なくとも一ヶ月は様子見した方が良いだろう」
「分かった。明日の夜出よう」
「お前は阿呆か、傷口が開いたら今度こそ死ぬぞ」
「リゼッタに会えない方が俺は辛い」

大真面目にそんなことを言うから、こちらが恥ずかしくなる。10代の頃から娼館通いを始め、手っ取り早く遊べる相手を選んで生きてきたこの友人が、こんなに一人の女に心を捧げているのを見るのは不思議だった。

しかも、彼が恋焦がれるリゼッタ・アストロープは隣国の王子に婚約を破棄された令嬢だ。世間的には敬遠される類の女性であることは言うまでもなく、更に都合が悪いことに、彼女は義両親に縁を切られた関係から、娼館で働いた過去を持っていた。

王族が娼婦に惚れ込むなんて聞いたことがない。
最初は自分もそう思って、その存在を蔑んでいたのだ。

「せめて二週間は待ってくれ」
「嫌だね、俺は一刻も早く迎えに行きたいんだ」
「国王からもお前の看病を頼まれている」
「知るかよ。内臓引き摺りながらでも俺は行くからな」
「……ノア、これ以上友人を失いたくない」

その言葉は頑固な彼の心にも届いたようで、少し真剣な顔をして口を閉じた。

「再来週の月曜日、アルカディアを出よう。本当なら医者を同行させたいが…俺が代わりになってお前を送り届ける」
「助かるよ。ウィリアム、お前には頭が上がらない」
「これで人工呼吸の埋め合わせになれば良いがな」
「っはは、それは丁度良い理由だ」

明るく笑うノアを見て、安心した。
彼と同じ女性を好きになるなんて負け戦も良いところで、疑いを掛けられることすら恐ろしい。小さな芽は育たないうちに摘み取って、苦々しい気持ちを紅茶で流し込んだ。

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