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第三章 氷の渓谷編

64.ドーナツの穴

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用意された部屋の簡易的なベッドは固く、本当に眠れるのか心配だったが、よほど頭を使ったせいか横たわった瞬間に深い眠りに落ちていた。

時計もなく光も届かないこの場所で、いったい自分がどれほど眠り続けたのか分からない。気付けば枕元には、水が入った透明な瓶と小さなコップが用意されていた。

ぼんやりする頭を振って、もそもそとベッドから這い出る。洗面所やお手洗いなど必要な設備は一応備わっているようで、とりあえず支度をしようと思った。

これは娼館に居た時にナターシャから言われたことの受け売りだけど、「王子様はいつ来るか分からない」ので容姿は常に整えておきたいと思う。最悪の場合、今日が私にとって最後の日かもしれない。そうでなくとも、万が一、またノアに会えるようなことがあった時に、私はせめて自分が思う最高の姿で彼の記憶に残りたい。

顔を洗って鏡を覗き込む。
強く美しい姿になれるように願った。


ルネがノックもせずに朝ごはんを運んで来たのは、私が化粧を終えて部屋の窓から外の様子を伺っている時。朝なのか夜なのかも分からないが、時々行き交う人の姿が見えるから人間にとっての活動時間ではあるのだろう。

「おはよう。甘いけど良い?」
「……ありがとう」

ルネから手渡された盆の上には、白い皿に乗ったドーナツと湯気を立てるコーヒーがあった。粉砂糖とチョコレートが掛かったドーナツはまるで雪景色のようだ。

「おいしそうですね」

それはお世辞ではなく本当に。
ルネは私の前にテーブルと椅子を持って来た。

「座って食べながら聞いて。これからの話をしよう」
「……はい」
「ノアはきっと君のことを探しに来る」
「…それは、分かりませんよ」
「君の鈍さが演技なのか生まれ付きなのか分からないけれど、兄は一国の王子として冷静さを欠くぐらいには君に夢中だ。それは理解しておいた方が良い」

ルネは皿の上のドーナツを見つめながら、無表情でそう言った。私は淹れてもらったコーヒーに口を付ける。

ノアが今まで私に言ってくれた言葉をすべて真に受けたら、きっとそういうことになるのだろう。しかし、私は結局二ヶ月近く彼と一緒に居て、その本質に触れることは出来なかった。ひらりひらりと質問をわす姿は、まるで私に知られたくないことでもあるようで。

そんな彼からいくら甘い言葉を吐かれても、本気だと言ってもらっても、どこか夢の中の出来事に感じた。


「ノアが来たら、魔女はノアを殺すつもりだ」
「……!」
「アルカディアの発展を止めるためには本当は国王である父を消すことが一番の近道だけど、僕は一度失敗している。それに加えて、ここだけの話、ジゼル…魔女の力は弱っているんだ。王宮まで辿り着けるかも分からない」

私は冗談のような物騒なワードが並ぶ話を聞きながら、なんとか魔女と国王が和解する方法はないかと考える。

代理母になった魔女は自分を利用した後に追い出そうとした国王夫妻のことを恨んでいると言う。その考えは少し理解できる。苦しみだけ受け持って、後はお役御免なんて酷い仕打ちだ。だけれど、それは本当なのだろうか?魔女の思い違いではない?

一口かじったドーナツは、ビターなチョコレートと砂糖が混じって甘さの中に少しほろ苦い味がした。


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