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第三章 氷の渓谷編
63.表と裏
しおりを挟む「………ノアが死ぬ?」
私の口から出た小さな声が部屋に響いた。
ルネも魔女も何も言葉を発さない。魔女の迷いのない口調に私は怯んだ。ノアが死ぬわけがない、頭ではそう分かっているのに、美しい彼女に予言の如く言われると不安が胸を一杯にする。
「私には未来が見えるの」
「嘘よ…!」
「いいえ。残念ながら本当のことよ」
「貴女が言うことはデタラメだわ、ノアが死ななければいけない理由がない」
魔女は私の言葉を受けて、美しい指を顎に当てて考えるように首を捻った。ルネはその傍に立って目を閉じている。
「理由なんていくらでもあるわ」
「有り得ない、彼はアルカディアの王子よ!?」
「そう。それが最大の理由」
「……何を、」
「アルカディア王国と氷の渓谷は、言わばコインの表と裏。お互いが監視し合って絶妙なバランスを保つ必要がある」
魔女が語るには、アルカディア王国で生きていくことが出来ない立場の弱い者が人里を離れて集まって暮らし始めたことが、ここ氷の渓谷の始まりなのだと言う。
御伽話のようなクリーチャーの名前を聞きながら、私の頭は混乱していた。魔女は絶滅危惧種である妖精や小人といった生物を保護しながら、氷の渓谷の平和を守っていると悲しそうな顔で話す。
「氷の渓谷はアルカディアの裏の世界。発展を推し進める国王には分からないだろうけども、私たちにとっては必要な世界なのよ」
「………、」
「ルネは私の考えに賛同してくれているわ。アルカディアはこれ以上の進化を続けるべきではない。今こそ国王に反旗を翻す時なのよ」
「話し合えば、議論すればきっと解決するわ!」
「ああ…可哀想なリゼッタ、貴女はそんなお人好しだからノアに利用されてしまうの」
憐れむような魔女の視線を受け止め切れず、私は下を向く。
「利用されてなんか…!」
「貴女はいつも誰かの損得の犠牲になってきた。アストロープ家ではいずれ大金に化ける金の卵として、シグノー・ド・ルーシャの元では手に入らない想い人の代わりとして、そしてノアにとっては都合の良い従順な娼婦の役を担った…」
「……そんなこと、」
魔女の言葉が全身に絡み付く。それは針のある有刺鉄線のようなもので、語られるほどに心に刺さった。
アストロープ子爵夫妻から言われた言葉。
シグノーから受けた仕打ち。
それらは決して良いものとは言えない。雨の中をトランクケース一つ下げて王宮から出て行ったあの夜のことを思い出す。ずぶ濡れになって家に戻った私にアストロープ子爵は何と声を掛けたのか。シグノーが娼館で私にどんな態度を取ったのか。今でも忘れられるはずがなかった。
でも、ノアは?
「ノアは、私を損得で側に置いたりしていません!」
「あらあら…そう信じていたいのね」
「メリットデメリットではないと言っていました。ただ生きていてさえいれば良いと…」
「相変わらず口だけは上手いわ。さすが私の子供ね」
「……え?」
高笑いする魔女を見上げる。
黒い髪の隙間から、ルビーのような赤い瞳が覗いた。
「何を…言っているの?ノアは王妃の子供なのよ?」
「いいえ。お馬鹿な貴女に教えてあげるわ。ノアとルネは、長らく子宝に恵まれなかったオリオンとマリソンが体外受精で作った子供よ」
「体外受精は法律で禁止されているはず!聖なる子供を他人に産ませるなんてアルカディアでも有り得ないわ」
カルナボーン王国でも厳しく定められている体外受精に関する法律は、アルカディアでも同様に適用されている。近隣の国でもそのような対応を許している国は聞いたことがない。
「表向きわね。彼らは私に子供を産ませて、国外へ追放するつもりだった。計画を盗み聞きしてしまった時に思いついたわ、それならば私の子供にしてしまおうと」
「そんなの…どうやって、」
「受精卵をすり替えたのよ。オリオンの精子を私の卵子に結合させた。産まれた子供を見て彼らは気付いたでしょうけれど、誰も責められるわけないわよね…?」
魔法もこういう時には上手く働く、と魔女は微笑んだ。
話を聞きながら、ルネが窓の方を気にして寄って行く。地下にあるからか、光が差し込まない氷の渓谷では太陽による時間の変化を知ることはできない。
「ジゼル、もうすぐ朝が来る」
「あら本当?では眠りましょうか」
ジゼルと呼ばれた魔女は私を振り返って「またね」と告げた。部屋を出ていく魔女に寄り添って、ルネは私の元を去って行った。
残された私は先ほど聞かされた話を頭の中で反芻する。ノアとルネ、アルカディア王国の二人の王子を産んだのは魔女。マリソン王妃は本当に異変に気付いたのだろうか。仲睦まじい国王夫妻の様子を思い出す。彼らがノアに向ける愛情は、本当に自分の子供を思いやるものだった。
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