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第二章 アルカディア王国編

45.亡霊の影

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どれぐらい時間が経ったのか。

すべてのキャベツを切り終えて、酢や砂糖、塩などで味付けを済ませた。あとは時間が経てば味が染み込んでくれると思うので、保存容器に詰めて様子を見ることにする。

昼食は宮殿から保存が利く食べ物をランチボックスに詰めて持って来ていた。狩猟に出掛けた男たちもそれを携帯しているので、まだ帰って来ないということは向こうで食べているのだろう。少し前に様子を見に来たアリスも、皿に取り分けて部屋へ戻ったようだった。

ランチボックスの中を覗くと、焼いた肉や卵からは良い匂いがしている。少しだけ皿の上に盛って食べると時間が経っていてもそれらは美味しかった。

(……もう休憩しても良いのかしら?)

千切りに集中していたので物音に気付かなかったが、耳を澄ませば鳥の鳴き声が聞こえる。ボーッとしていると入り口の扉が開いて、目を向けた先にはウィリアムが立っていた。

「あ、お帰りなさい。お疲れ様でした…ノアは?」
「ノアと陛下はまだ外だ。水を借りて良いか?」

慌てて道を譲ると、彼はどうやら肘を擦り剥いているようだった。捲り上げたシャツの下には血が滲んでいる。

「大丈夫ですか?少し見せてください、」
「君よりは知識がある。大丈夫だ」
「……分かりました」

ピシャリと言われて伸ばしかけた手を引っ込める。
黙々と傷口を手当てするウィリアムの後ろで棒立ちしているのも気不味いので、休憩を取るために部屋に戻ることにした。昨日は狩猟の前勉強に気合を入れてしまい、私も少し眠気を感じている。

階段を登りながら窓の外を見たが、まだ帰ってくるノアたちの姿は見えない。正午を過ぎたからかコテージの中は少し冷たい空気が漂っていて、差し込む光の量も朝方よりは減ったようだった。

部屋の前に立ってドアノブを捻る。
目に入って来たのは驚愕の景色だった。


「………っ、あ…」

木製の壁に大きく赤いスプレーで書かれたのは『シグノー・ド・ルーシャを忘れるな』という文字。仄暗い部屋の中でぼんやりと浮かび上がるその色は、生々しい血のようにも見えた。

喉に手を当てる。大きく息を吸って吐いてを繰り返して意識的に気持ちを落ち着けようとしたが、どういうわけか上手く出来ない。焦る気持ちでベッドに手を着く。床を見つめて冷静さを取り戻そうとしていると、閉じたはずの部屋の扉がゆっくりと開いた。

「……なんで、」

そこには亡霊が立っていた。

死んだ筈のシグノー・ド・ルーシャが、暗い廊下の中でこちらを向いている。窪んだ目は真っ黒で青白い顔には生気がない。だけれどその顔は自分の記憶の中にあるシグノーで、娼館にまで追い掛けて来て乱暴をされた日のことを思い出すには十分だった。

呼吸が速くなり、吸った息が正しく吐かれているのか分からない。酸素が足りていないような気もする。短い呼吸を繰り返しながら、息苦しさは徐々に増してくる。

「ごめんなさい……シグノー様、許して…」

後ろに下がるとベッドサイドのテーブルに脚が当たって、テーブルの上に置かれたランプが落ちて砕けた。焦って拾い上げようとした手が破片で切れる。流れ出た血を見て、どうしようもなく怖くなった。

シグノーが死を選んだのは私のせい?

いわくつきの女、という王妃の声が蘇る。そうだ、彼は死ぬ前に寄りを戻そうと言っていた。婚約破棄を取り止めると言いに来たのだ。その彼を拒絶して追い返したのは自分自身。

受け入れていれば乱暴されなかった?
寄りを戻せば彼は死ななかった…?

「………っう、」

喉が締まったように苦しい。
バチが当たったのかもしれない。仮にも元婚約者が死んだというのに、私は娼館の客とカルナボーン王国を逃げ出して、恋人ごっこなんかに時間を割いていたから。花の一つも手向けずに、ただ忘れるためにノアの優しさに甘えていたから。本当は下劣な下心を持って彼の恋人の振りをしていたから。だから、だからきっと、神様が忘れてはいけないとーー


「リゼッタ!」

朦朧とする意識の中で、誰かが部屋に飛び込んで来るのが見えた。

ノアじゃない。あの綺麗な銀髪ではない。カラスのようなこの黒い髪はウィリアム・クロウだ。喉を抑えて短く息を吐く私を見て、ウィリアムは一瞬の迷いを見せた後、口付けた。

びっくりしたけれど酸素が回っていない頭は上手く伝達を実行できず、私はただ目だけを大きく見開いていた。ようやく冷静さを取り戻して、正しい速度で息を吐く私を見てウィリアムは唇を離す。

「過呼吸だ」

口元を拭って無表情でそう告げられた。申し訳なさと自分の弱さを見せてしまった情けなさで、御礼を伝える声が震える。ウィリアムは相変わらず気持ちの見えない顔のままで、安心させるように私の肩を少し叩いた。

「大丈夫、君は頑張ってるよ」
「………っ」
「ノアの恋人なんて損な役回りを、文句も言わずに務めているんだ。それだけで表彰ものだ」

不器用な彼なりに励まそうとしてくれているようで、少しだけ笑ってしまった。分かりにくい優しさは固く張っていた心の隙間に染み込むようで、もうすっかり暗くなった部屋の中で、私はウィリアムの胸を借りて泣いた。


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