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第二章 アルカディア王国編

32.夜の散歩

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「嫌な思いをさせてごめん」

ノアが小さな声で呟く。なんとか最後まで食事を食べ終えてお開きになったので、私たちは宮殿の中庭に出て外の空気を吸っていた。郊外ほど雪は積もっていないものの、ところどころに白くこんもりした山が出来ている。

高く並んだ木々は迷路のような道を形作っていた。

「全然平気です。国王陛下や王妃様が反対される気持ちは分かりますし……」

言いながら噴水の水を覗き込む。
手を浸けると凍えるような冷たさが指先を刺した。安定した経済に支えられた文化的な街、広大な宮殿、我が子のことを心配してくれる愛ある両親。それらすべてを持っているのが、ノア・イーゼンハイムなのだ。

普通に生きていれば出会わなかったような相手。シグノーに婚約を破棄されて、義両親にも見放されたからこそ娼館に行き着いた。どのみち私たちは娼婦と客という設定以外で出会う方法はなかった。そう思えば、悲しいけれど納得できた。

「私はもしかしたら、二ヶ月を待たずにナターシャの元へ帰った方が良いかもしれません」
「……そんなこと言わないで」

泉の中にはいつの間にか後ろに立ったノアが映っていた。水面が揺れてその表情までは見えない。

「私はきっと貴方の足を引っ張ります。一緒に居たらあまり良い思いをしないでしょうし、迷惑を…」
「だめだ、返さないよ」
「……ノア、」
「ごめん…本当は君の治療なんて聞こえの良い言い訳で、ただ俺が二ヶ月もの間、リゼッタに会えないことが辛かった」

ノアは優しい。深く柔らかい夜のようだ。
その穏やかさで私を包み込んでくれる。べつに生きる理由なんてどうでもいい、価値なんてなくてもいい、そんな風に思わせてくれる。難しいことは考えず、ただゆらゆら揺れていたいと思ってしまう。

でも私は知っているのだ。
それは、単なる甘え。

「ありがとうございます、嘘でも嬉しいです」

笑い掛けると、ノアは少し傷付いた顔をした。

「どうして嘘だなんて言うの?」
「だって……」
「リゼッタ、君はアルカディアに来てから少し様子がおかしい。僕はもっと普段の君と話したいんだ」
「……ごめんなさい」
「謝ってほしいわけじゃない、」

ノアは珍しく少し苛立ったような素振りを見せて、私の隣に屈み込んだ。コートを羽織っていても三月の風はまだ冷たい。もしも二ヶ月、本当にアルカディアに居ることができれば、私はこの国の春を目にすることが出来るのだろうか。

「子供の時から…こうして夜散歩をするのが好きでした」
「……?」
「誰も居ない道や静かな川を見ていたら、なんだか心が落ち着いて、空を見上げたら小さな星が輝いているから私も頑張ろうって思えたんです」

昼間友達と遊べなかった自分の唯一の楽しみ。
頑張ろう、頑張ろう、そう思って自分なりに一生懸命取り組んできた。だけれど、現実は私の期待していたほど夢を見せてはくれず、私は婚約者と、義理とはいえ両親を失った。本当はもうアストローペ姓を名乗る資格もない。

何故いつも、神様は私に優しくないのだろう。
どうして、ノアは王族なのだろう。

べつに王族でなければ結ばれることが出来たのかと言われるとそれは確信が持てないが、彼がただ王室事情に詳しい貿易商人ぐらいだったなら、まだ望みはあったかもしれない。

優しくしてもらっても素直に嬉しい顔を出来ないのは、この場所に来てノアと自分を隔てる溝の深さを思い知ったから。娼館だったらまだ、手を伸ばせば娼婦として客である彼に触れることができた。しかし、一歩娼館を出ればノアはアルカディア王国の王子、私は婚約破棄された身寄りのない娼婦。

(……どうして、いつも手に入らないの?)

分かっていても心は欲しくてたまらない。求める相手を間違えていると頭では理解していても、シンデレラストーリーを期待してしまう。王子様がどんな顔をして要らなくなった相手を突き放すのか、私は経験上知っているはずなのに。

また、同じ過ちを繰り返したい?

「貴方と居ると辛いです…」
「リゼッタ、ごめん」

困らせている。ノアに当たっても仕方がないことなのに、私は八つ当たりのような子供じみた真似をしている。

「恋人なんて、どうして偽るんですか?」
「うん。悪いと思ってるよ」
「ノアは私のお客様なんです…恋人じゃない」
「そうだね」

娼館の中では強くあろうと維持していた気持ちも、アルカディアに来てからは、どうしたら良いか分からなくてブレブレだ。ノアの良き友人を演じるべきか、娼館から来たセクシーな女を演じるべきか、婚約を破棄された可哀想な隣国の令嬢を演じるべきか、私は決めかねていた。

冷え切った頬に、同じく氷のようなノアの手が触れる。

「でも…この国に居る間、君は俺の恋人の振りをする必要がある。だからどうか拒まないで」

凍てつく寒さの中でノアは私の心を溶かすようにキスをする。誰も幸せになれないと分かっているのに、少しでも満たされたくて偽りの恋人は目を閉じた。


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