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第四章 蛇と狼と鼠
65.マリアンヌ・プジョー
しおりを挟む父が入院する病院へ向かうため、騒々しい建物の側を離れて、大通りへ向かっている途中だった。暗闇の中からルシウスの名前を呼ぶ高い声が聞こえた。
私の手を握ったまま、ルシウスは後ろを振り返る。
「……マリアンヌ、」
ウエストを絞った白いドレスを風に靡かせて、若い女が立っていた。それは、あの夜に植物園でロカルドと身体を重ねていたマリアンヌ本人。ルシウスの話によると、彼女は依頼を受けただけということだから、ある意味で被害者とも言える。
「汚れ仕事を与えておいて、貴方は他所の令嬢と結婚のお披露目に来たんですって?」
「……すまない。君には本当に、」
「貴方のこと責めないわ。分かっていて受けたことだし、私だって受け取るものは受け取ったもの」
暗闇の中でマリアンヌの赤い唇が僅かに上がる。
口元は笑っていても、目は氷のように冷たい。
「振り回された可哀想な女の子に教えてあげる」
「?」
「ロカルドは捨てて正解よ、彼って早漏だから」
「……なっ…!」
取り乱す私の脇を通り過ぎて、マリアンヌはルシウスの前に立った。言葉もなく見つめ合う二人を私はオロオロと見守る。ビンタでも飛んで来るのだろうか。
しばらくの間沈黙が流れて、マリアンヌは息を吐いた。
「私って良い女なのよ。貴方は見る目がないわ」
「そうだね。隣国の貴族はきっと真価を見抜く目があるに違いない」
「ええ、本当に。さようなら…ルシウス、」
そう言ってマリアンヌは右手を振り上げた。
透明なグラスの中身がルシウスに降り掛かる。咄嗟に伸ばした私の手も虚しく、ルシウスはその液体をもろに被った。
「安心して、ただの水よ」
それだけ言い残すと、登場と同じく颯爽と踵を返してマリアンヌは姿を消した。私は呆気に取られたまま妖艶なその後ろ姿を見送る。
ポタポタと頭から水を垂らしながら俯いていたルシウスは小さく吹き出すと、着ていたジャケットを脱ぎ出す。私は訳が分からなくて、ただただ流れる水滴をハンカチで拭くことに集中した。
「……彼女、すごく怒ってたわ」
「うん。今までで一番、良い顔してたね」
「冗談じゃないの。もう他人を巻き込まないで」
「そうだね…悪いことしたと思ってる」
本当だろうか、と内心訝しみながら、ルシウスの呼び止めたタクシーに乗り込んだ。
厄介な男と結婚してしまったと後悔しても、もう遅い。親友もろとも目の敵となっていたミュンヘンの罪を暴き、巻き込んだ令嬢から冷水を浴びせられても笑顔を見せるこのルシウス・エバートンという男が、実のところ一番の曲者なのではないかという疑念は確信に近い。
私は本日何度目かの溜め息を吐きながら、目を閉じた。
病院へ向かう車の中、静かに震える手はやはり握られたままで。
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