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第二章 エバートン家の別荘
21.雷と嵐
しおりを挟むその日は、朝から雨が降っていた。
シーツを変えに来た使用人の女も「嵐が来そうだ」と心配そうに窓の外を眺めるので、私も大きく揺れる木々を同じように目に入れながら今日の過ごし方を考えた。
散歩はおそらく無理だろう。靴の中に雨が入ったまま歩き続けることほど、気持ちの悪いことはない。
料理でもしてみようか。
クッキーぐらいなら何度か作ったことがあるから、材料さえあれば焼けるかもしれない。そう考えると、チョコチップクッキーが無性に食べたくなった。ルシウスも甘いものは好きなのだろうか。
(……いいえ、彼の好みは関係ないわ)
頭をブンブン振って、私は部屋を出た。昨日あんな別れ方をしたからか、今朝はルシウスも気を遣って部屋へ来なかった。朝食や着替えは部屋の前に置かれていたので、何も問題はなかったのだけれど。
「……おはよう」
リビングのソファに座る姿を認めて、声を掛ける。
「おはよう、シーア。眠れた?」
「ええ。料理をしたいんだけど…」
「料理?」
不思議そうに繰り返して、ルシウスは立ち上がる。
私はこんな天気なのでやることもないし、甘いものでも焼こうと思っていることを伝えた。決して難しいレシピではないし、危険ではないことも念のため添えて。
「いいよ。ここに座ってても良い?」
「もちろんよ」
「シーアが料理する音を聞きながら本が読めるなんて夢みたいだな。君と一緒に居ると俺の夢がどんどん叶うよ」
「……貴方って変わってるわね」
そうかな?と笑う顔を見て心臓が小さく跳ねる。ルシウスを意識するにつれて、彼の些細な動作すら私の心を震わす原因になっていた。そんなこと口が裂けても言えない。
「それ、いつも読んでるわね。何て本?」
緊張を紛らわせるためにルシウスが手に持っている本について問い掛けた。随分と古そうなその本は余程読み込まれているのか、本のタイトルが擦れて消えかけている。
「なんてことないミステリー小説だよ」
「何度も読んでるみたい。気に入ってるの?」
「そうだね、思い入れがある」
それっきり黙り込むルシウスに私はドキドキしながら、小麦粉や砂糖、バターなどといった材料があるかの確認に入った。この家に来てからというもの、まともに料理をしていないにも関わらず、冷蔵庫にはほとんど必要なものが揃っている。
分量を間違えないことだけに集中して、私は暫くの間、お菓子作りに没頭することにした。
「良い匂いがする」
オーブンに入れて20分が経過した頃、キッチンに入って来たルシウスは嬉しそうに目を細める。
今のところ順調に進んでいるし、生地が膨らむ様子からして上手くいっているのだろう。砂糖と塩を間違えるような大失敗をしていない限り、食べられるものは焼き上がるはず。
「貴方も甘いものを食べるのね」
「シーアが作ってくれるなら何でも食べるよ」
「あら、ゴミのような失敗作でも?」
「君が作ったなら喜んで」
冗談が通じないというか、なんというか。私はこれ見よがしに溜め息を吐いて「貴方って甘いのね」と溢す。当の本人に意味するところが伝わっているかは謎だけれど。
オーブンを開くとふわっと香ばしい匂いがした。
バターと小麦の匂い。私の大好きな香りだ。
「とても熱いから、火傷しないで」
一枚拾い上げて手渡そうとすると、ルシウスは私の手を掴んで口元まで持って行った。パクンと閉じた口がすぐに弧を描く。どうやら気に入ってくれたようだ。
「おいしい…ありがとう、シーア」
「お口に合って良かったわ」
その時、ゴロゴロという大きな音が外で響いて、いきなり部屋中の電気が消えた。
私はびっくりして隣に立つルシウスを見上げる。オーブンを使ったことでブレーカーが落ちたのかと一瞬思ったけれど、窓の外で光る稲妻を見て、雷の影響だと分かった。
「君のクッキーが焼き上がった後で良かったよ」
悪天候など気にしない素振りで二枚目のクッキーに手を伸ばすルシウスの様子にホッとしながら、私は洗い物に取り掛かる。震える手が、見えないようにシンクの中に隠した。
実を言うと雷はすごく苦手。
だけれど、自分の弱さを人に知られるのはもっと苦手。
特にこの、ルシウス・エバートンという謎の多い同居人の前では、私は出来るだけ「強くしたたかな女」であることを意識して体現したいと思っていた。
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