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第二章 傾城傾国
第五十一話 温泉です
しおりを挟む風のようにふわふわと先を歩く御影に付いて歩くこと数分。
私たちはまた先ほどの温泉の前まで戻って来た。
どういうわけか閻魔は道中ずっと私の手を引いてくれて、握られた指先は痛いぐらいだ。彼の話では極楽に長く居過ぎると帰るべき場所のことを忘れるようだから、それを警戒してだろう。
繋がれた手は不思議と私の心を落ち着かせた。
今では冷静に考えることが出来る。
ここまで来た目的、伝えなければいけないこと。
「………閻魔様、」
「どうした?」
「私、ここに来るときにおばあちゃんの声を聞きました」
頭の奥に蘇るのは、井戸から落ちる時に聞いた言葉。
「帰らなければいけない」と声は私に言っていた。それはきっと助言のようなもので、何処かから見ていた祖母は孫の行く末を心配していたのだろう。
もしかすると、のこのこと極楽に来て帰り道を見失うことへの警告だったのかもしれない。
「帰らなきゃって言ってたんです」
「…………、」
「だから、連れて帰ってください。私が迷わないように、閻魔様がしっかり手を握っていてください」
勇気を出して見上げると、冥王は少し驚いたように目を見開く。
返事の代わりに、繋がれた手を強く握り返された。
「入るの?入らないの?」
御影が私たちを急かすように言う。
その後ろにはムンと熱気を発する温泉の入り口が広がる。
この先に与作が居るはずなのだ。
傾国の美女が想いを寄せた男が、待っている。
何十年という時を超えて、彼は約束を果たせなかった女のことを思い出してくれるだろうか?共に逃げると誓った黒両のことを覚えていたとして、恨んではいないか。
分からないから、会ってみるしかない。
「入ります。行きましょう、閻魔様」
「………俺の嫁は、お人好しが過ぎるな」
びっくりして顔を上げるも、手を引いて先を歩き出す閻魔の表情までは見えない。
私の記憶が正しければ、我が冥王が私のことを嫁なんて呼称するのは初めてのこと。気まぐれで結んだ婚姻だと思っていたから、彼の中にそんな意識があることに驚いた。
しかし、気を取られていたのは一瞬の話。
門を潜るとすぐに周囲の雰囲気が変わった。頭が割れそうなぐらいに空気が重いのだ。脳を直接鷲掴みにされているような、呼吸すら苦しくなる圧力。
それに加えて、何処かから音楽が聞こえる。
繰り返し繰り返し、同じフレーズを掻き鳴らすのは琵琶だろうか。やけに音が大きく感じる。気分が悪くなって、思わず口元に手を当てた。
「幸福は、洗脳なんだよ」
立ち止まった御影がくるりと振り返る。
両手を広げると白い鶴のようで。
「人は死んで四十九日が経てば極楽浄土へ行けるなんて信じてるけれど、実際問題そんなの遅すぎる。脱衣婆が拾った魂は閻魔が裁いてすぐに極楽へ来るんだ」
「すぐに……?」
「うん。だけどね、何層にも分かれる地獄と違って極楽は面積に限りがある。しかも居座ったところで平和しかないし、あるのは温泉とか花ばっかり」
つまらないよね、と御影は溜め息を吐いた。
「要は飽和状態なんだよ、魂が」
「………?」
「だから、こうして手を尽くして手っ取り早く成仏させてるの。温泉の中は特殊な結界が張ってあってね、長く居れば頭が多幸感で一杯になる。麻薬みたいだよねぇ」
「麻薬って……」
「脳みそトロットロにしてくれるんだよ。試してみる?」
伸びて来た手は私の額に触れる前にパシッと掴み取られた。
見ると明らかに不機嫌な閻魔が御影を睨んでいる。
「その説明、何回聞いても気色悪い。止めろ」
「あはっ!ごめんごめん」
詫びる様子もなく舌を出すと、御影は「巻きで案内するね」と言って再び歩き出す。私は自分の身体が耐え切れるのか心配になりながら、歩みを進めた。
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