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第二章 傾城傾国
第三十六話 正義感です
しおりを挟む規則正しく上下する胸元を眺める。
頭の中では鈴白に聞いた話を反芻していた。
黒両は生前、吉原の最高傑作と呼ばれるほどの遊女だったらしい。親の顔も忘れるほどの幼さで遊郭に売り飛ばされ、持ち前の明るさと器量の良さで花魁にまで上り詰めた。
金と地位のある男たちからは身請けの話も数多くあったが、なかなか首を縦に振らず、彼女の心を手に入れたいがために将軍すら莫大な金銭を投じたことから、ついたあだ名は「傾国の遊女」。
しかし、崇められた花魁はある日過ちを犯す。
一介の花売りと組んで遊郭を抜け出そうとしたのだ。
足抜けの難しさは牢獄と違わないと言われるほどの遊郭で、黒両もまた、呆気なく捕まった。揉み合いになった最中、門番が持っていた短刀で首を掻っ切り逃走するも、数には勝てずに連れ戻され、折檻の末に衰弱死。
(………黒両さんが、手に入れたかったのは…)
何度も呼んでいた男の名前。
現実と妄想の区別が付かなくなるぐらい、深く深く求めていたのに、叶えることは出来なかったというのだろうか。与作という男の名は、黒両の脱出を手助けしようとした花売りの名前なのだろう。
ふわふわと雲のように漂って、こちらを揶揄って笑う掴みどころのない黒両が見せた必死の顔は、私の脳裏に焼き付いて忘れられそうもない。
「何を考えてんのか知らないが、」
こちらを見ずに閻魔が口を開いた。
閻魔は八角からの報告を受けて部屋に来たが、黒両の様子を聞くなり「またか」と呟いていた。冥殿に住まう彼らにとって、元遊女のご乱心は見慣れたことのようだ。
「お前がどうこう出来る問題じゃない」
「………まだ、何も言っていません」
「顔を見れば考えていそうなことは分かる。どうせ黒両の悲願を叶えてやりたいとか思ってんだろ?」
「───っ!」
それはまさに図星で、私は自分を見下ろす鋭い目を直視出来ずに、心許なく着物の袖を見つめた。あまり役立ちそうにはない二本の手が覗いている。
冥王は私の心の中までお見通しのようで。
私は馬鹿みたいに単純だから、黒両が気が狂うほど逢瀬を約束した男のことを気に掛けているのなら、一目で良いからその男と会えれば良いのに、なんて考えていた。
しかし、少し考えれば分かることだけど、自由を掴むためとはいえ殺人は殺人。地獄に落とされている黒両が彼女の想い人を見つけ出すことなんて簡単ではない。鈴白の話では、相手の男はおそらく極楽へ引き渡されたようだし、花魁がいくら踠こうとも二極化された世界を行き来することは出来ないらしい。
「でも……事故かもしれません。悪意があって故意に傷付けたんじゃなくて、咄嗟のことで…」
「お前の理屈で言うと、冤罪を主張したら誰でも極楽へ行けるみたいだな。俺の仕事も減りそうで名案だ」
皮肉るような物言いをする閻魔に私は顔を上げる。
「そういうことを言ってるわけじゃ……!ただ、情状酌量の余地があるんじゃないかと思っただけです」
見上げた先で冥王は赤い瞳を細める。
彼が苛立ちを感じていることは明白だった。
「小春、お前の安っぽい正義感で語るな」
「…………、」
「黒両が何年この世界に居ると思ってんだ?アイツだって分かってる。可哀想だの何だの言う中途半端な同情でどうにかなる問題じゃない」
ぐうの音も出ず、黙り込む私の隣で閻魔が立ち上がる。
「色恋は人を破滅に導くらしい」
「破滅……?」
「自分が狂っちまったら世話ねぇ話だ。黒両が我を忘れて過去に傾倒すればするほど、朧になる日も近付く。周りにはどうにも出来ないことなんだ」
赤い羽織を翻して、冥界の王は部屋を去った。
取り残された私はそれでも考えてしまう。吉原一の花魁と謳われた女が、死して尚会いたいと願う男に、束の間でも会わせることは出来ないのだろうかと。
本当に地獄に仏様なんてものが居るならば、十分に苦しみ抜いた末に心まで蝕まれた彼女を、どうかもう赦してほしいと。
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