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第一章 合縁奇縁
第二十四話 さよならです
しおりを挟む静かな部屋の中で病人と二人。
かつては人間だったという冥界の王は、数回乾いた咳をして苦しそうに目を閉じた。いつもは鬼上司で鬼たちを駒のように使っているくせに、最後の最後に弱った姿を見せるなんて狡いと思う。私の心臓はこういうギャップを勘違いしてしまう節があるので、気を付けなければ。
「閻魔様、お会いできるのは今日が最後です」
「…………そうだったな」
分かっているのか、興味がないのか、私の方は見ずに閻魔は窓の外へと顔を向けている。鈴白の部屋を広くしたような作りの室内には、閻魔が眠る布団といくつかの収納用の箪笥以外には何もない。
そういえば、以前契約について問い合わせた際に訪れた部屋は別の場所にあったから、ここは単に彼が睡眠を取るためだけの部屋なのだろうか。
冥殿に何度か入るうちに、なんとなく知った気になっていたけれど、この建物には私が未だに足を踏み入れていない場所がたくさんある。彼が囲う愛人という女たちの顔も全員は知らないし、あの日聞いた本名についても詳しくは知らない。
いくつもの謎が残ったままに冥界を去るのは少し寂しいことではあるけれど、もともと突然始まった労働契約だったので、これまた突然終わるのも仕方がないこと。
生きている私の時間は残酷なまでに速く進む。
住む世界が違うのだから、当たり前だ。
「あの、これ…渡しておきますね」
そっと枕元に置いた御守りを閻魔は不思議そうな顔で手に取る。書かれた文字を読んで少しだけ目を丸くした彼は、すぐに不機嫌そうに私を睨んだ。
「余計なことをしなくても、引き留めたりしない」
「すみません。死後に地獄行きは避けたいので……」
運良く天寿をまっとうしても、三途の川で鬼たちや閻魔に呼ばれて引っ張られては堪ったもんじゃない。
自慢ではないけれど二十九年間の人生は真人間として過ごして来たので、このまま行けばおそらく順当に極楽へ流れるはずなのだ。死後は安らかに祖父母にでも会ってお茶でもしたい。間違っても、地獄のどこかの階層なんかではなく。
「小春、真っ当に生きろよ」
珍しく真剣な顔で言うから私は大きく頷く。
「もちろんです。私は正直な善人ですので」
「どうだかな。人間は簡単に間違う」
「閻魔様は、」
「?」
「閻魔様は…どんな過ちを犯したのですか?」
遠くを見ていた双眼が勢いよく振り返って私を見た。
揺れる赤い目は、動揺しているようでもあったし、何かに怯えているようにも見えた。思い返すのは宴会で会った閻魔の母の言葉。「人殺し」なんて物騒なことを言うから、私の中ではずっと引っ掛かっていた。
しかし、最後の最後に聞いてしまったのは私の不注意。何も寝込んでいる彼を相手にこんな話を振らなくても良いものを。慌てて謝ろうとした矢先、閻魔が口を開いた。
「………父親を手に掛けた」
「え?」
感情のない顔で淡々と言葉は綴られる。
まるで独り言のように静かな声音だった。
「年越しで会った女は父の再婚相手で、俺にとっては継母にあたる人間だ。まだ俺のことを憎んでるんだろうな」
「なん…で、どうして……」
「お前には関係ないことだ。知って楽しい話ではない」
そう言って閻魔はまた小さく咳き込んだ。
もう遅くなるから帰れ、と促されれば私は部屋を去るより他になく、口だけの別れの言葉を伝えて頭を下げた。今日も今日とてやっぱり笏で叩かれて、痛みに音を上げた瞬間に少しだけ閻魔の笑い声が聞こえた気がしたけれど、真偽のほどを確かめたくてもそこには冷えた仏間が広がるだけ。
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