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19 秘密の客人
しおりを挟む「マリー、今日も池へ行くの?」
「ええ、お母さん。魚たちに餌をあげなきゃ」
パンくずの入った袋を手に持ってマリーは母の方を振り返る。暗くならないうちに帰りなよ、と心配そうに言い添えて母はマリーを送り出した。
嫁ぎ先の領地から生まれ育った田舎町に戻って、もうすぐ一年が経つ。忙しければ時間というものは速く過ぎ行くもので、決して裕福ではない実家を支えるためにマリーはパン屋と飲み屋を掛け持ちして働いていた。
マイセンとの離縁について説明を受けた両親は、呆れるでもなく、激怒するわけでもなく、ただ静かに「おかえり」と言ってくれた。きっと思うところはあるだろうけれど、二人の反応はマリーの気持ちを安心させた。
慌ただしい毎日だけれど、楽しみもある。
何もない田舎町なだけはあって空気も水も綺麗なので、少し離れた場所にある小さな池で泳ぐ魚たちに餌遣りをすることがマリーの日課になっていた。
空の青さ、澄んだ水の冷たさ。
子供の頃は当たり前過ぎて気付かなかったこと。
そうしたものを有難く感じるようになったのは、きっと苦しかった三年間があったから。ひんやりとした水の中に指先を浸けながら、マリーはガーランド伯爵邸で目にした魚たちを思い出す。
(………元気にしているかしら?)
ネイトとの文通は月に一度ほどのペースで行われていたが、二ヶ月ほど前から途絶えていた。
もしかすると、妙齢の彼のことだから良い相手でも出来たのかもしれない。色々と助けてもらった手前、感謝はしてもし切れないけれど、今となっては身分も大きく違う彼の恋愛事情を詮索することは流石に出来ない。
静かな空間で水の音に耳を澄ませていたら、後ろからキャイキャイと子供の声が聞こえてきた。この場所で人に出会うことは稀なので、声のした方を振り返る。
「あ…!ごめんなさい、お邪魔でしたか?」
麦わらで編まれた帽子を目深に被った女が、申し訳なさそうにこちらを見る。その両手には彼女の腰ほどの背丈の小さな男女が連れられていた。
「いいえ……」
知り合いではないけれど、見たことがある。
マリーは眉間に手を当てて記憶を探る。
餌に集まった魚たちがパクパクと口を開ける様子を子供たちは一生懸命見つめていた。珍しい赤い双眼が好奇心に満ちて輝いている。
「子供って素直ですよね」
マリーの視線に気付いてか、女が口を開いた。
「自分の気持ちに一直線で、好きも嫌いも回り道することなく伝えてくれる。もちろん大人を困らせる場合もありますけど、たまに羨ましくなります」
「………そうですね、」
「この辺りはとても空気が綺麗なので、夏になると避暑も兼ねて遊びに来るんです。王都では経験できない豊かな自然に囲まれて、私も気分が落ち着きます」
「王都からいらっしゃったんですか?」
女が頷いた拍子に、帽子が風に舞い上がった。
細い腕が伸びるより先に近付いて来た男がそれを取る。
「あら、もう用事は終わったの?」
「うん。涼しくなって来たし宿に戻ろうか」
「お話の途中でごめんなさい。私たちはそろそろ失礼しますね。素敵なお魚さんたちを見せてくれてありがとう」
「リゼッタ、彼女は?」
リゼッタと呼ばれた女が子供たちの手をハンカチで拭きながらマリーのことを説明する間に、眠っていた脳は急速に回転していた。赤い双眼に銀色の髪、そして優しい物腰の中に潜む確かな威厳。
「………国王陛下…?」
ポロッと溢れた声に男は笑顔を見せる。
隣で王妃が困ったように眉を寄せた。
マリーの秘密の池に現れた客人たちは、驚くことにこのアルカディア王国を統べる国王とその妻、そして将来の王国を担う王子と王女だったのだ。
先代の国王が現在の国王に交代したのはほんの数年前のこと。破天荒とは聞いていたけど、ネイトに伯爵という爵位を授与し、領地経営を勧めたのもこの国王だというから感慨深い。
「……っ、失礼いたしました。陛下と王妃殿下とは知らずにこのようなご無礼を、」
ペコペコと頭を下げるマリーに王妃は声を掛ける。
「構わないですよ。こちらがお邪魔していたので」
「しかし……!」
「貴女の悩み、解決すると良いですね」
「え?」
驚くマリーに柔らかく微笑むと、王妃は国王の腕を取ってゆったりとした速度で歩き出す。その後ろを可愛らしい子供たちが蝶のように追い掛けるのを見届けた。
初夏の風がもう一度、背中を押す。
マリーは決意を胸に家への道を踏み出した。
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