【完結】それは愛ではありません

おのまとぺ

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 マリーがハワード男爵家出て七日目のこと。

 マイセン・ハワードに対して彼が使い込んだ税金の返済と爵位の剥奪が申し渡された。実際には使った金額を返すことなど不可能であるため、マイセンは農奴として働きながら月々決まった額を納めることになった。

 ハワード男爵家は周囲からの反発を受けて領地から去ることを余儀なくされ、南部のモエリアへと移動したと聞く。皮肉にもそれは、令息の愛人であるジュリアがこよなく愛する海鮮の名産地だった。


「………そう。新天地で落ち着ければ良いけれど」

 マリーは読んでいた本を閉じて顔を上げる。
 領内でネイトが用意してくれた小さな仮住まいにも慣れて、飲み屋のシンシアやあの日一緒に話した女たちのお陰で一人の生活をなんとかこなしている。

 ハワード男爵家で雇われていた使用人たちは散り散りと邸を去り、ゾフィーはガーランド伯爵家での再雇用が決まったらしい。


「上手く暮らしているみたいだね」

 ネイトは部屋の中を見回してそう溢す。

「ええ、お陰様で。貴方には感謝することばかりだわ」

「言っただろう?最後には君が選んだんだよ」

 マリーはこちらを向く青い目を見つめ返した。
 交わした言葉を頭の中で思い浮かべる。

「あの時貴方は……自分なら私が望むものを与えられると言っていたわ。まるでこうなることが分かってたみたい」

「べつに俺が仕組んだわけじゃないさ。マイセンくんの性格についてはバルンガ伯爵からも伺っていた。彼が伯爵から借りた金を踏み倒していたことも含めて」

「………それは初耳ね」

 忘れたい名前を聞いて、また胸の内にさざなみが立つ。

 ネイトはそんなマリーの思いを知ってか知らずか、窓の外を見つめたままで言葉を続けた。マイセンの犯行の影響もあって順調とは言えない領地経営だろうけれど、若い領主の表情は穏やかだ。


「マリー、君と初めて出会った時のことをよく覚えている。俺は領主としての準備に追われていて、少しでも街に溶け込むために必死だった」

 相槌を待つわけでもない横顔をマリーはただ見つめる。

「シンシアは良い人だ。彼女の人柄に惹かれてみんなあの店に集まる。情報を集めたかったから自分の素性は明かしていなかったけど、それでも彼らは俺を歓迎してくれた」

「………貴方の人柄もあるわ」

「そうだと嬉しいね。あの日もいつも通り俺は仕事終わりに店に寄って、見たことのない子が赤い顔で亭主の愚痴を叫んでるのを見た。変な女だと思ったよ」

 ネイトは少し笑ってマリーに視線を投げ掛ける。
 マリーは自分の顔が熱くなるのを感じた。

「女たちと話す様子を見る限り、彼女は何処かから逃げてきたらしくって、その勇気に素直に感心した。自分を取り巻く不条理にノーを突き付けて抵抗することが出来るとは、すごいと思った」

「…………、」

「だけど、二人になって話して分かった。彼女を取り巻くしがらみは簡単に剥がせるものじゃない。現に君はせっかく抜け出した男爵の家へ戻ると言った」

「……そうする以外に道はなかったわ」

「そうだね。僕も地方の出身だから分かるよ。爵位のある男が妻に離縁を言い渡すことはあっても、妻の方から…ましてや平民だった者が邸を去るなど聞いたことがない」

 マリーはまた自分の名前を呼ぶマイセンの声が聞こえるような気がして、思わず頭を押さえた。もう戻る必要などないのに、身体に染み付いた習性は簡単に消えそうにない。

 ネイトはそんなマリーを少しの間見て、伸ばしかけた手を元に戻した。慰めの言葉でも掛けようと思ったのか。


「俺は、君の助けになりたかった」

「………?」

 マリーは顔を上げてネイトを見る。
 青い目は再び窓の外を向いていた。

「少しだけ俺の身の上話をしても良いかい?」

 こくりと頷くと、ネイトは優しく微笑む。

 昼下がりの街はキラキラと太陽の光を受けて黄金色に輝いて見える。ネイトが見つめる先、遥か遠くの方では白いテントがいくつも並んで物売りたちが新鮮な果物や野菜を売り捌く様子が見えた。

「爵位をもらう前に俺が騎士だったことは伝えたよね?」

「ええ……」

「自分で言うのもなんだけど、若い頃から駆り出されていたから結構戦には慣れていてね。前線で闘うことが多くて、特攻隊のリーダーを任されていたんだ」

「そうなの…すごいわね、」

「これだけ話すとね。だけど実際は、人間を何人も殺めた人殺しだ。切っては倒し、撃っては蹴り飛ばした。そういう仕事だから仕方ないんだけど」

 マリーが返答に困っていると、ネイトは顔を翳らせて俯いた。短い沈黙が二人の間に横たわる。


「そんなある日、捕まって敵国の捕虜になった」

「………!」

「自分がやってきたことの惨さを、初めて身をもって知った。爪を剥がれる痛み、従うしかない屈辱。飯が腐ってるのなんて日常茶飯事だし、野良犬の方が幸せだと何度も思ったよ」

 その口調から彼がどんなに辛い時間を過ごす過ごしたのかは十分に伝わった。安易な言葉は掛けられず、マリーは静かに話し手の様子を窺う。

「戦争が終わって自国に帰ってからも、日常に戻れる状態ではなかった。情けない話だけど少しの間は心を病んでしまってね、自分がこれから何のために生きれば良いか分からなくなっていた」

「無理もないわ……」

「王様は理解を示して、通常であれば騎士が貰えない伯爵という地位を与えてくれたよ。ちょうど王都へ移動したバルンガ伯爵の代わりに、西の小さな領地の経営に携わらないかという話まで持ってきた」

 お節介な人だよな、とネイトは乾いた声で笑う。

 その様子から彼が本当は国王に感謝を示していることは伝わった。王としてもきっと、優秀な人材を無駄にするのではなく再生する必要があると考えたのだろう。若いネイトが心を病んで生涯を廃人のように過ごすのは勿体無いと。


「あとは君も知っての通りだ。俺は越して来て一ヶ月ほど領内を探るために雲隠れして、先月ついに領主として挨拶をする運びとなった。正体を知って驚いたろう?」

「そうね……知っていたら嘔吐はしなかったわ」

「あれは止められるもんじゃない」

 ケラケラと軽く笑うとネイトは手を差し出す。
 首を傾げるマリーの片手を取って強く握り締めた。

「君が安心すると言った手は血濡れてる」

「………騎士は胸を張るべき仕事よ」

「初めてだったんだ。俺の手に触れて、あんなことを言う人は。この人のことを知りたいと思ったし、事情を知ってからは助けたいと考えた」

「貴方には…本当に感謝してる」

 ネイトは何も言わずにただ微笑んだ。
 目尻が下がった優しい顔を静かに見つめる。


「これからどうするの?」

「田舎の両親の元へ帰ろうと思う。二人に報告することもたくさんあるし、貴方のお陰で私は何の罪も受けなかったから」

「そうか…… 手紙を書くよ。俺も自分なりに領地のことに向き合って、もう少し頑張ってみようと思う」

「貴方はきっと良い領主になれるわ」

 本心からそう言うと、ネイトは黙ってマリーを抱き寄せた。驚きつつもその温かな抱擁を受け入れる。彼がどんな過去を抱えていようと、やはりその腕の中はマリーを穏やかな気持ちにした。


「マリー、おめでとう。君はもう自由だ」

 ほろほろと絡まった糸が解けていく。
 若い領主の胸を借りてマリーは三年分の涙を流した。

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