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第二章 シルヴィアの店編

18.王子は思い出す【N side】

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甘い花の匂いがする。

もやがかかったような視界の中で、ぼんやりと浮かび上がる姿には見覚えがあった。ふわりと揺れる茶色い髪、柔らかな笑顔を浮かべた顔。

行かなければいけない、手を伸ばさないと。何を差し出してでも手に入れたかったのだから。人生で一番高価な買い物、生涯を通して尽くそうと決めた女性。

自分がこの世界から消えてしまう最後の瞬間まで、隣で笑っていて欲しいと思えたのは彼女だけ。


「ーーーリゼッタ!」

ガバッと起き上がると、ベッドの上に突っ伏していたカーラは驚いたように目を見開いた。

「リゼッタ様ならまだ戻っていませんよ?」
「……!」
「そんなことより、私たちの将来について考えてくれましたか?カーラは早く答えが知りたいです…」

甘えた口調で腕に触れるカーラの手を見つめる。

ベッド横のサイドテーブルの上には、花瓶に生けられた花と腫れ上がった頬を冷やすための氷嚢ひょうのうがあった。ジンジンと痛む左頬に冷たい氷の塊を押し付けると、意識も少しずつはっきりしてくる。状況を整理しなければいけない。

取り返しのつかない事態が進行していることは確かだ。リゼッタが居ない。彼女は一人きりで宮殿を出て行ったのだ。どうして?自分は彼女に何と言った?どんな態度を取った?

痛む頭を押さえながら記憶を辿る。天気が良かったから、ウィリアムと共に乗馬へ出掛けた。話に気を取られていたら目の前に若い女が飛び出して来て、咄嗟に手綱を引いたせいで馬が暴れた。そして、落馬したと同時に地面に叩き付けられたのだ。我ながら、なんて情けない思い出。

しかし、問題はそこで終わりではなく、むしろここから始まった。

リゼッタのことを忘れていた。おそらく完全に。おぼろげに覚えているのは自分が行った彼女への振る舞い。何か訴え掛けるような目がもどかしくて、その癖、面倒なことに身体は彼女を求めていた。思い出せない気苦しさから逃れるために昼間は彼女の存在を避けた。そして、夜になると婚約者であることを持ち出して、曖昧な態度を良いことに乱暴に抱いた。

愛も恋も一切合切忘れて、ただ甘い蜜だけ吸おうと。


「……どうしよう、これはもう…」

手遅れなのだろうか?何よりも先ず、探し出さなければいけない。謝罪して許されることなのかは微妙なところだが、思い出したことを伝えないと。

「ノア様…?」
「ごめん、カーラ!俺は行かないと、」
「どうして!私のことを置いて行くのですか?私はノア様のためにこの身の純潔を捧げるつもりなのですよ…!?」

責めるような視線を受け止めながら、ぼんやりと考える。そうだ、自分はリゼッタに酷いことを言った。婚約を破棄されて娼館で働くなど、使い捨てられた女だと。絶望したと彼女に伝えたのだ。

あんなに尽くしてくれたのに。
その優しい心を切り裂くような暴言を吐いてしまった。


「……申し訳ない、戻ったら話をしよう」

カーラにそう伝えると、制止しようと伸びて来る腕を振り切って部屋を飛び出した。

どこに行けば良いのか検討も付かなかったが、あのまま部屋に居座るよりは、がむしゃらにでも走り回った方がマシに思えた。立ち止まれば罪悪感で潰されてしまいそうで。

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