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第一章 失われた記憶編
02.王子は落馬する
しおりを挟むーーーノアが馬から落ちた。
その知らせを受けたのは昼食を食べている時だった。
マリソン王妃とヴィラと共にハイビスカスの紅茶を飲みながら、そろそろ各々の部屋に戻ろうと立ち上がった矢先、慌てた様子の使用人が部屋に飛び込んで来た。
「王妃殿下…ノア様が……!」
只事ではない彼の様子から私とヴィラも息を呑んで事の成り行きを見守る。固まる私たちの前で使用人は、ノアがウィリアムと乗馬をしている最中に落馬したと語った。幸い外傷はなかったが、軽い脳震盪を起こして病院で様子を見ているという話を、マリソンは頷きながら聞いている。
ノアの様子を案じながら、落馬なんて彼らしくないと思った。ノアの運動神経の良さはそれはもう羨ましい程で、馬から落ちて頭をぶつけるなんて考え難かったのだ。
「リゼッタ、私は今からノアの様子を見に行くわ」
「……私も行かせてください!」
「そう言うと思った。車を玄関に用意して待っているから、すぐに支度してもらえる?」
「承知いたしました」
私が言い終わらないうちに、準備のためマリソンはツカツカと自室に向かって歩き出した。
「大丈夫かしら…?」
心配そうにヴィラが私の方を見る。
とにかく、病院へ行ってノアの顔を見ないことには安心できない。ノアの口から直接「問題ない」という言葉を聞かない限りは、やはり不安だった。
「たぶん…何事もないと思うけれど」
「ノアだものね。魔女に刺されても死なない男だし」
「うん。また帰って来たら話しましょう」
「了解!ウィリアムにもよろしく伝えてね」
「もちろんよ」
ヴィラの口から彼女の想い人であるウィリアムの名前が出ることを嬉しく思いながら、急ぎ足でその場を去った。
◇◇◇
「まあ、なんてことないわよね。ノアのことよ、様子を見に来た私たちを見てケラケラ笑うはず」
「そうですよね。きっと大丈夫です」
自分に言い聞かせるように自論を展開するマリソンに並んで病院の中を歩く。なんてことない、という言葉と裏腹に随分と足早にノアの病室へ向かう彼女の様子を見て、王妃が自分の息子のことをどれだけ心配しているのかが伝わった。
真っ白な廊下の両側に規則的に並んだ白い扉を抜けて、エレベーターでさらに上階へ登ると、一際大きな扉の前でマリソンは立ち止まった。王族故に配慮されているのか、その階にはノアの病室だけしかない。
ノックの後ですぐに姿を現したウィリアムが、王妃に挨拶を述べて私の方を向き直った。何か言いたそうに口を開きかけて、またすぐに閉じる。彼らしくないその素振りを不思議に思った。
「………ノア!」
ひと足先に病室へ入ったマリソンが感極まった様子で叫ぶ。その先には、頭に包帯を巻いて白い病院着を着たノアがベッドに横たわっていた。
しかし、私が気になったのはノアのベッドに肘を突いてこちらを見上げるブロンドでショートヘアの若い女。
「ノア様!お母様がいらっしゃいましたよ!」
女がツンツンとノアの腕をつつくと、ノアはぼんやりした様子で王妃に視線を合わせる。その親しげな姿から「彼女は誰だろう」という自然な疑問と共に、なんとも言えない不安が湧き上がって来た。
「ウィリアムが連絡をくれたの。元気そうでよかったわ、ところで彼女は…?」
「カーラです、はじめまして殿下。実は私のせいで今回ノア様は落馬してしまったんです…すみませんっ!」
「なんですって?」
「殿下、僕の口から説明させていただきます」
驚いたマリソンにウィリアムが慌てて口を開く。
「ノアと僕が走っていた道の上に突然こちらの女性が飛び出して来ました。ノアは避け切れず、手綱を引かれた馬が興奮して落馬するに至りました。僕が一緒に居ながら、大変申し訳ありません……」
頭を下げるウィリアムと申し訳なさそうな顔をするカーラをマリソンは交互に見る。やがて諦めたように大きく息を吐いて、眉間に手を当てた。
「無事だったから今回は良いわ。ウィリアム、貴方を責めるつもりはない。顔を上げなさい」
「……ありがとうございます、王妃殿下」
「それと、カーラ…だったかしら?」
「はい!王妃様!」
「貴女はどうしてそんな場所に居たの?」
皆の視線が集まる中、カーラは緊張した面持ちでモジモジと手を合わせる。
「えっと…実は近くで薬草を摘んでいたんですが、道に迷ってしまったんです。足を挫いて上手く歩けなくて、転んだ先にノア様が……」
「そうなのね。車を出すから家へ帰りなさい」
「マリソン王妃、」
それまで黙っていたノアの強い声がした。
マリソンをはじめ、ウィリアムや私も驚いた顔でそちらを見て言葉の続きを待つ。何故だかカーラだけは、期待をするように両手を組んだままでノアの顔を見つめていた。
「カーラは怪我をしています。足が治るまでは宮殿で過ごさせてあげたい」
「……何を言っているの、ノア?」
「避けたから良かったものの、馬が彼女を蹴っていたら大事でした。責任を感じています」
「自分の言葉が分かっているの?貴方にはリゼッタという婚約者が居るのよ!?」
他の女性を宮殿で匿うなんて、と取り乱す王妃の向こうからノアが私を一瞥した。それはいつもの愛に満ちた穏やかな目ではなく、他人もしくはそれ以下の人間に向けられるような冷めたもので私は息を呑む。
少しの間だけ絡まった視線はすぐに外された。
「……婚約者?なんの事ですか?」
表情を変えずに発せられたノアの言葉が、その場の静かな空気を震わせた。
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