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第一章 女王とその奴隷

07.喫煙者とハンカチ

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 ミュンヘン邸で働き始めて一週間が経った頃、私はついに自分の手の震えの原因を突き止めました。

 これはおそらく、鞭を振るうことによる腱鞘炎です。
 私は夜の館メゾンノワールで女王として働いていますから、それなりに鞭を使います。後処理が面倒なので敬遠されがちな蝋燭と違って、鞭は楽です。奴隷たちにも人気がある道具なので、女王と鞭は切っても切れない関係にあります。

 さて、この腱鞘炎がなぜロカルド・ミュンヘンの前でだけ発症するのかは謎ですが、私の推測によると「安心状態にあるから」ではないかと思います。

 ミュンヘン男爵家での仕事は、こう言ってはよろしくないですが、かなり楽でした。今までのようにメイド長の厳しい監視があるわけでもないですし、私よりもサボり癖のあるオデットの目さえ欺けば、少しぐらい気を抜いても誰も気付きません。もちろん、やるべきことは日々こなしています。


「アンナ……あんた、タバコを吸ったね?」

 ある昼下がりのことでした。
 私はドキッとしてオデットの方を振り向きます。

 私はこの屋敷の中でタバコを吸ったりしたことはありません。朝だってタバコを吸ってから出勤などしていません。しかし、確信的な目をしたオデットの視線を受けて、心臓が高鳴るのを感じました。

「いいえ、私はそのような真似をしていません」

「いいや。これはお前のハンカチだろう?タバコの匂いが染み付いているよ。あたしは喘息があるんだ!」

 オデットは手に持ったハンカチをヒラヒラと降ります。
 それは確かに、私のハンカチでした。愚鈍なことに、私は今朝急いでいたので、昨日店に出勤した時に鞄に突っ込んでいたハンカチをそのまま持って来たのです。

 思わず舌打ちしたくなりました。
 ここまで馬鹿だと救いようがありません。

 誤魔化すのも変なので、私は正直に「自分が喫煙者であること」「屋敷の中では吸ったことがないこと」を彼女に告白しようと思いました。変に嘘を吐く方が疲れますから。

 しかし、私が口を開く前に、ロカルドが厨房に入って来ました。


「どうかしたのか?」

 憤るオデットと向き合う私を交互に見て主人は尋ねます。
 説明しようとする私を遮るようにオデットがロカルドに歩み寄りました。毎日愚痴っぽく言っている腰痛など微塵も感じられない、俊敏な動きでした。

「アンナが!タバコを吸っていたんです!」

「タバコ?」

 しまった、と思った時にはもう時すでに遅しで、オデットは水を得た魚のように私が害悪な喫煙者であると雇用主に話して聞かせました。自分は喘息持ちなのに、と大袈裟に嘆いて見せるオデットを一瞥し、ロカルドは私に目を遣りました。

 私はただ黙って目を逸らします。
 オデットの語り方は意地悪ですが、嘘ではないからです。

 しばらくの間、沈黙が流れました。憤るオデットの荒い鼻息だけが厨房の冷たい空気を揺らします。私が謝罪の言葉を述べるべきか悩んでいると、ロカルドはやっと口を開きました。

「それは俺のハンカチだ」

「え……なんですって?」

 オデットは驚いたように固まっています。
 私も同様に、目を大きく見開きました。

 だって、その白いハンカチはどう見ても女ものです。私の記憶力がいかに悪いとは言っても、自分が何年も使ってきたものを見間違えるはずはありません。水色のレースが縁についたハンカチは、今はもう連絡が取れない弟が、私の誕生日に贈ってくれたものでした。

「君たちには話していないが、たまにタバコを吸うことがある。強いストレスを紛らわせるには、手軽で良い」

「あ…え……?でも、これはアンナの通った後に、」

「俺が彼女に洗濯するよう頼んだんだ。まだ洗ってなかったなら、もう良い。明日の分と一緒に洗ってくれ」

「え、しかし、旦那様……!!」

 呼び止める声も聞かずに、ロカルドはそのまま部屋を出て行ってしまいました。私は恨めしそうにこちらを睨み付けるオデットに向き合う勇気が湧かず、とりあえず元の場所に戻ってシンクをピカピカに磨くことだけに集中しました。

 ロカルドはどうして私を庇ったのでしょう?
 私はまた震え始めた両手に意識が向かないように、ただただ一生懸命にスポンジを動かしました。


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