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第一章 異世界からきた皇太子編
31.殿下、それは煙草です
しおりを挟む画面に表示された時間を気にしながら帰路を急ぐ。
完全に聞き役に徹してしまったせいか、昼食の時間が長引いてしまい、水族館は足早に通り過ぎるだけになってしまった。「夕方には帰らなければ」と言う私を相手はしきりに引き留めようとしたけれど、プカプカと煙草をふかす男のマシンガントークの相手はもう懲り懲りだったので丁重に断った。
ロイは無事に留守番出来ているだろうか?
彼からしたら、久しぶりの一人時間だ。少しは羽を伸ばすことが出来たなら良いけれど、と思いながら角を曲がると通りの向こうから駆けて来る浴衣を着た子供の姿が目に入った。
(お祭り……?)
どこからか屋台の匂いもする。目を凝らすと近くの公園で小規模な夏祭りが開催されているようだった。ロイに教えてあげたら、きっと喜ぶはず。
薄ら夜を纏った景色の中を走り抜け、見慣れたミントグリーンの扉の前で呼吸を整えた。鞄の中から鍵を取り出してドアノブを捻る。
「ロイさん…?」
部屋の中は真っ暗だった。何かあったのではないかと焦る気持ちで、足を踏み入れる。強盗?私が留守番を頼んだ間にロイの身に何かあったら、そう考えると心臓の奥が冷え込むように怖くなった。それとも、もしかして彼は元の世界に帰ってしまった…?
「何処にいるの!ねえ…!」
必死になって探していたら、暗闇の中でぐにっとしたものを踏ん付けた。そのままバランスを崩して倒れ込むと、思いの外硬い何かの上に転がる。
「……重い」
「ロイさん!」
下敷きになった肉体の持ち主は唸るように呟いた。私は泣きそうになりながら、確かなロイの身体に触れる。良かった、事件でもないし神隠しでもない。私の大切な癒しは今日もまだこの家に居てくれている。
眠っていたのか、ロイは小さな欠伸をした後でスンスンと匂いを嗅いだ。
「煙の匂いがする」
「……あ、」
ごめんなさい、と言いながら自分の服を摘んでいると、強い力で手首を掴まれた。びっくりして息が止まる。明かりがない部屋の中で、顔は見えないけれどロイの機嫌が悪いことは明白だった。
「そんな臭い服着て帰って来るな」
「……煙草の煙です」
「お前にとって俺は何だよ」
「え?」
掠れた声を聞いていると胸が苦しくなる。思ったよりも近くで感じるロイの息遣いに、私は思考が定まらない。
「……なにを言って…」
「ごめん。寝ぼけてた」
「ちょっと、」
伸ばした手を擦り抜けてロイは立ち上がる。どういうわけか、この暗闇の中でスイッチの場所を探り当てた彼は、呆然とする私に向かって何事もなかったように「腹が減った!飯行くぞ」と言い放つ。
普段通りの偉そうな王子と、先ほど垣間見た大人の男のような彼の落差は私を混乱させた。
振り返らずに一目散に玄関へ向かうロイの後を追いながら、問われた質問について考える。私にとってロイは何なのか。愛でるべきペット?定期的に癒しを提供する顔の良いヒモ?
砂山が波に崩されるように、少しずつ、少しずつ。
関係が変化していると感じるのは気のせいだろうか。
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