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31 ネロ・マッキンリー
しおりを挟む部屋の中ではキャンドルの灯りが静かに揺れる。
気持ちを明るくしてもらおうと提案したことだったけれど、甘いバニラの香りはあまりにもこの場に不釣り合いだ。我ながらミスチョイスを恥じた。
ベッドに腰掛けてからというもの、ネロは何も言葉を発さない。どういう話を振れば良いか分からずに、オリヴィアもまた沈黙を貫いていた。
今しがた目にしたこと。
怒り狂う皇太后ルイーダと、そんな彼女をただ見つめるネロの姿。慌てふためくメイドたち、走って来た白衣の医者。きっとこれらは私の知らない日常なのだろう。
「あの人は……心の病気なんだ」
ポツリ呟くネロの声に耳を傾ける。
あの人、という言葉は皇太后を意味する。
「父が亡くなってからというもの、俺と彼女の間には塞がらない溝が出来た。共に戦いに出て、戻った者が俺だけだと知ったときの顔が忘れられない」
「…………、」
「あの人は何も言わなかった。ただ、涙を流して俺に下がるように伝えた。それからだ……調子が良いときには普通に接してくれるが、ほとんどの時間は暗い部屋の中で閉じこもっている」
ネロの瞳は部屋の扉をぼんやりと見つめている。
「時折発作が出て、あんな風に取り乱す。彼女にとって俺は……皇帝や息子なんかじゃなく人殺しなんだ」
「貴方のせいでは、」
「どうだかな。だけど、皇太后はそうは思わない。父が座っていた玉座に俺が座ることが、きっと身も捩れるぐらい憎いんだろう。生きていることさえ許せないかもな」
話を聞いただけで軽はずみな意見は出来ない。
オリヴィアは黙って話し続けるネロを見ていた。
若くして皇帝となった彼は、何もかも手にしていて、些細な悩みなど持たないのだと思っていた。この国も、民も、すべてを好きに出来る特権を持つ最高権力者。そんなネロが、唯一の家族に拒否されていたなんて。
「悪いな……自分語りが過ぎた。今日はもう帰って良い」
「あ、あのっ!」
咄嗟に言葉が口から飛び出す。
不思議そうにこちらを見遣る青い目にドギマギした。
「もう少し、お話しても大丈夫です。えっと、明日は私は午前休を取っていますし、時間の心配もないので」
「オリヴィア、」
「聞くことしか出来ないですけど、誰かに話して陛下がちょっとでも救われるなら、良いなと……」
最後の方はモニョモニョと早口になってしまったが、なんとか言い切ってオリヴィアは目を閉じる。布が擦れる小さな音がして、膝がズンッと重くなるのを感じた。
「わっ……!?」
目を遣るとオリヴィアの膝の上に皇帝の頭が載っている。
こうして見下ろすネロの顔は新鮮で、その長いまつ毛や腿の上に広がった短い髪なんかが緊張を煽った。瞼を閉じてくれているから良いものの、青い双眼がこちらを見たらまともに会話出来そうにない。
「不思議なことだが、お前と居ると気が安らぐ」
「………そうですか?」
「ああ。色々なしがらみから解放されて、許されたような気持ちになるんだ。さっきまで沈んでいた心も、今では少し前向きになっている」
「ふふっ、私は万能な飯炊き女ですから」
イタズラっぽく笑って見せると、口元に当てた手をネロが引いた。珍しく真剣な顔をするから思考が止まる。
「オリヴィア、キスを」
甘く低い声にそう懇願されれば、断ることは出来ない。オリヴィアは落ちて来る髪を耳に掛けて頭を下げた。
唇が重なったのは短い間。
挨拶のような控えめな口付け。
「なんだか照れますね!私たちはもう恥ずかしがるような関係でも無いのに」
赤くなる頬を誤魔化すようにそう言うと、ネロはオリヴィアを見つめたままで暫し黙った。
「陛下?どうしましたか?」
「今日は朝まで一緒に居てくれないか?」
「え?」
「何もしなくて良い。ただそばに居てくれるだけで良いから、どうか……頼む」
真剣な顔でお願いされて心が揺れた。
普段は隠された彼の弱さが見えた気がして。
「分かりました。陛下のそばに居ます。だから、安心してお眠りください。貴方は大切な君主様ですので」
オリヴィアの言葉にネロは少し頬を緩める。
それからは、皇帝が寝付くまで他愛もないことを話して聞かせた。最近の厨房のお仕事事情であったり、先輩であるイーサムに訪れた小さな春の話、友人のジャスミンの恋愛武勇伝などなど。
初めは適宜相槌を打っていたネロもだんだんと反応が減って行き、一時間が経つ頃には静かな寝息が聞こえるようになっていた。
白く美しい髪を優しく撫でてみる。
くすぐったいのか、目を閉じたままネロが身動いだ。
「…………どうか、幸せになって」
祈りを込めてもう一度だけ唇を重ねる。
そしてこれは、王宮でオリヴィアがネロと交わした最後のキスになった。
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