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30 皇太后

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 オリヴィアが王宮に来て、もうすぐ一年半が経とうとしていた。

 デニスと開発した季節のメニューは他の料理人からの評判も良く、ネロや皇太后も気に入ってくれているらしい。デニスは料理長としての仕事以外にも、外部からの取材や料理本の出版など、色々と追われることが多く忙しそうだ。

 オリヴィアはすっかり馴染んだ白いエプロンを解いて、手に取って眺めた。何度も洗濯を繰り返したエプロンは最初の頃よりもくったりしたように見える。洗っても落ちない赤ワインのシミや、何かの油が跳ねた跡。それらがすべて愛しいと思えるし、懐かしくも感じる。

 最高の職場で、憧れの人と働いている。
 きっとそれだけで十分。

 最後に部屋の明かりを消して厨房を出た。今日は昼間に廊下で会った際にネロから声が掛かっていて、仕事終わりに彼の私室を訪問する約束をしている。誰かに出会した時のために、デザートとしてババロアを持って来たけれど、こんな時間にネロが食すのかは謎だ。


 人気のない外廊下を進み、何度か曲がったところで、何やら大きな物音が聞こえた。音は皇帝の部屋の方面から発せられている。

 パタパタと駆け寄った先に、オリヴィアはネロと、向き合うように立つ皇太后の姿を見た。皇太后ルイーダは、その両腕をメイドたちに掴まれている。

 オリヴィアは立ち尽くすネロと目が合った。
 青い瞳が見開かれ、わずかに揺れる。

 ルイーダはメイドたちの制止を振り切って、ネロのシャツを握り締めた。

「お前が……!どうしてお前が!!」

「奥様、どうかお鎮まりください!今は心が不安定なのです。陛下を責めてはいけません!」

「黙りなさいっ!この男が殺したのよ……!あの人は、この男を庇って死んだ!!人殺しが居るの!ここに居るのは人殺しなんだから……!」

 鬼の形相で掴み掛かるルイーダに揺さぶられながら、ネロはどこか悲しそうな顔をしていた。オリヴィアは状況が理解出来ずに、ただ茫然と動けない。

「お前が死ねば良かったのに……っ!どうして、どうしてお前が帰って来たの…!?あの人が死んで、何故お前が生きているの……!!」

「母上、あまり大きな声を出さない方が良い。お身体に障ってはいけません、今日はこのあたりで……」

「殺しなさいっ!私も、あの人と同じように殺せば良いわ!私はお前の母親ではないもの、お前の実母はとうの昔に死んだんだから……!母を犠牲にして生まれた悪魔の子…… ネロ、お前は悪魔の子よっ!!」

「申し訳ありません、皇太后様……!」

 走り寄って来た医者が、ルイーダの細い腕を掴んでその皮膚に注射器を押し当てる。

 ルイーダは目玉をぐるりと回してその場に倒れ込んだ。地面に落ちる直前にネロの手が身体を支える。静かになった皇太后はどうやら、眠っているようだった。

 ネロは慣れた様子で医者と話を交わして、待機していたメイドたちに向き直った。やがて担架のようなものが用意されて、眠り続ける身体が運ばれて行く。


「…………嫌なものを見せたな、」

 独り言のようにネロはそう言った。
 オリヴィアはただ黙って、立ち尽くす皇帝の手を取る。

 どうしたら良いか分からなかった。嵐のように怒り狂うルイーダの姿を見て、オリヴィアは驚いた。だけれど同時に感じたのは、深い悲しみ。

 若くして一国の王となったネロ・マッキンリー
 知ったような気になっていたけれど、私は何も知らない。


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