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【2020/05 不時着】
《第3週 日曜日 夜》②
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「もういやだ、こんなの」
耳元で先輩に「どないしたん、何よ、誰に怒ってるん」と問われておれは自分が何か言葉を発していたことに気づいた。
背中に自分以外の人間の重みが重なる。動かない指で手繰るようにしてベッドスプレッドを握りしめたおれの左手に先輩が手を添える。結婚指輪の硬く冷たい感触が邪魔だ。
「自分のこと可愛がってくれた人が死んで、悲しいんと違うの」
わからない。怒ってるのとも違う。悲しいとかじゃなくて悔しいに近い。でもそんな簡単に言語化できない。単純な形容詞で言い表せない。
「なあ、復讐とか考えなや、もう関わる必要ないで、わかるやろ」
動かない指ごとおれの手を握りしめて言い聞かす。わかってる、それが誰かは知らないし、どうやって為されるかはわからないけど、おれがやらなくたって多分誰かがやる。
伏していた顔を上げて、振り返ると肩越しの先輩と目が合った。唇が近づいてこめかみに触れる。それが頬に項にと移りゆくと、どちらからともなく、何を言うわけでもなく腕を絡めて抱き合って顔を寄せた。
「先輩、おれは」
「先輩、じゃないやろ」
目近に差し迫る先輩の顔はやはりお父さんのそれに嫌になるほど似ていて、抗う術もない。その顔で、声で呼びかけられると忘れ去ったはずの自分に心身が侵食されてしまう。全てを覆い、塗りつぶして作り上げた今此処に在るはずの自分が剥ぎ取られてなくなってしまう。
「…お父さん、なんで」
「ん?」
視界が水の中に沈んで歪む。脇腹を指先でやさしく叩いていた手が頬を包み、親指で目元を拭った。
「なんで、みんないなくなっちゃうの、そもそも」
震える手で涙を拭う手を掴む。指輪の感触が食い込んで痛い。
「そもそも、お父さんが最初に居なくなっちゃったじゃない、あの日」
旅のあと、いつも玄関先まで見送りに出ていたのに、それをやめた。あの日の朝も、意識しないように息を殺して部屋に閉じこもっていた。仕切りの障子の前でいってくるよと声を掛けてくれたのに返事もしないで。それが最後の言葉になるなんて思ってもいなかった。
近代的で落ち着いた設えのホテルの客室にいるはずなのに、あの頃暮らしていた団地の部屋が目の前に蘇る。
コンクリ打ちっぱなしの三和土、玄関入って直ぐの靴箱、その上に置かれた黒電話。その直ぐ側の扉がお父さんの書斎、その向かいがタイル張り空間に浴槽と便座が付けられただけの簡素な風呂場。茶の間に入ると狭いのに台所の前に八角形のテーブルがあって、障子で区切られた向こうが僕とお母さんの部屋。
出ていったお父さんの後を追って玄関を出て、通路から下を見下ろしたとき、駅に向かって歩いていく後ろ姿を見た。それが本当に最後だった。
お母さんは、ぼくが遠足から帰ってきたら、お風呂場で血に塗れて目を剥いて横たわっていた。助けなきゃと思って、電話をかけに玄関に戻ったら人が居て、その人が黒い電話機を振り上げて、それから、次に目が覚めたら、お母さんももう居なくて。
「ほんなら、連れて逃げたら良かったんか」
違う。そうじゃなくて。きつく目を閉じて首を振る。
消えて、誰にも見えない、触れない状態で、あの場所に存在できる方法が欲しかった。
それが叶わないなら、あんなことになるなら、どうせ一緒に居られなくなるなら、僕のことは差し出してくれたら良かったのに。この気持ちごと捨ててくれたほうが良かったのに。
「帰ってきてよ、帰ってきて、捨ててよ」
目を開き、お父さんと同じ顔に呼びかけた。
眼鏡を引き抜いて折り畳み、腕を伸ばして背後にあるサイドテーブルに投げ置くのが聞こえた。それと同時に近づいた柔らかい大きな唇で唇を塞がれ、再び目を閉じた。
耳元で先輩に「どないしたん、何よ、誰に怒ってるん」と問われておれは自分が何か言葉を発していたことに気づいた。
背中に自分以外の人間の重みが重なる。動かない指で手繰るようにしてベッドスプレッドを握りしめたおれの左手に先輩が手を添える。結婚指輪の硬く冷たい感触が邪魔だ。
「自分のこと可愛がってくれた人が死んで、悲しいんと違うの」
わからない。怒ってるのとも違う。悲しいとかじゃなくて悔しいに近い。でもそんな簡単に言語化できない。単純な形容詞で言い表せない。
「なあ、復讐とか考えなや、もう関わる必要ないで、わかるやろ」
動かない指ごとおれの手を握りしめて言い聞かす。わかってる、それが誰かは知らないし、どうやって為されるかはわからないけど、おれがやらなくたって多分誰かがやる。
伏していた顔を上げて、振り返ると肩越しの先輩と目が合った。唇が近づいてこめかみに触れる。それが頬に項にと移りゆくと、どちらからともなく、何を言うわけでもなく腕を絡めて抱き合って顔を寄せた。
「先輩、おれは」
「先輩、じゃないやろ」
目近に差し迫る先輩の顔はやはりお父さんのそれに嫌になるほど似ていて、抗う術もない。その顔で、声で呼びかけられると忘れ去ったはずの自分に心身が侵食されてしまう。全てを覆い、塗りつぶして作り上げた今此処に在るはずの自分が剥ぎ取られてなくなってしまう。
「…お父さん、なんで」
「ん?」
視界が水の中に沈んで歪む。脇腹を指先でやさしく叩いていた手が頬を包み、親指で目元を拭った。
「なんで、みんないなくなっちゃうの、そもそも」
震える手で涙を拭う手を掴む。指輪の感触が食い込んで痛い。
「そもそも、お父さんが最初に居なくなっちゃったじゃない、あの日」
旅のあと、いつも玄関先まで見送りに出ていたのに、それをやめた。あの日の朝も、意識しないように息を殺して部屋に閉じこもっていた。仕切りの障子の前でいってくるよと声を掛けてくれたのに返事もしないで。それが最後の言葉になるなんて思ってもいなかった。
近代的で落ち着いた設えのホテルの客室にいるはずなのに、あの頃暮らしていた団地の部屋が目の前に蘇る。
コンクリ打ちっぱなしの三和土、玄関入って直ぐの靴箱、その上に置かれた黒電話。その直ぐ側の扉がお父さんの書斎、その向かいがタイル張り空間に浴槽と便座が付けられただけの簡素な風呂場。茶の間に入ると狭いのに台所の前に八角形のテーブルがあって、障子で区切られた向こうが僕とお母さんの部屋。
出ていったお父さんの後を追って玄関を出て、通路から下を見下ろしたとき、駅に向かって歩いていく後ろ姿を見た。それが本当に最後だった。
お母さんは、ぼくが遠足から帰ってきたら、お風呂場で血に塗れて目を剥いて横たわっていた。助けなきゃと思って、電話をかけに玄関に戻ったら人が居て、その人が黒い電話機を振り上げて、それから、次に目が覚めたら、お母さんももう居なくて。
「ほんなら、連れて逃げたら良かったんか」
違う。そうじゃなくて。きつく目を閉じて首を振る。
消えて、誰にも見えない、触れない状態で、あの場所に存在できる方法が欲しかった。
それが叶わないなら、あんなことになるなら、どうせ一緒に居られなくなるなら、僕のことは差し出してくれたら良かったのに。この気持ちごと捨ててくれたほうが良かったのに。
「帰ってきてよ、帰ってきて、捨ててよ」
目を開き、お父さんと同じ顔に呼びかけた。
眼鏡を引き抜いて折り畳み、腕を伸ばして背後にあるサイドテーブルに投げ置くのが聞こえた。それと同時に近づいた柔らかい大きな唇で唇を塞がれ、再び目を閉じた。
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