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【2020/05 暗転】
《第3週 水曜日 午後》②
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一瞬思考が完全に止まった。
やっと口にできたのは「ウリって…」という一言だけだった。
「ウチ入る前からやってたらしいよ、流石に今はないだろうけど」
うまく言葉が出ない。
「なんで、そんな」
「随分あちこち悪くて病院かかってお金使ってたみたいだし、ウチ入ってからは随分顔もいじってたからそれじゃないかなとは思ってたけど、おれはあんまり訊けてないんだよ。タダでさえバックグラウンドがアレだし」
ああ、事件のことはやっぱり知っているんだ。知っているからこそ余計あれこれ直接は訊きづらいというのはあるだろう。おれもそうだ、だから周りの人に訊いている。
そのとき一旦ノックの音がして話が途切れた。長身で猫背気味で眼鏡のショートボブの女性が入ってきた。彼女は小さな声で「小林と申します」と言い、お辞儀した。この人が同期の方か。
でも先生、女性と当時はどう意思疎通していたんだろう。その頃には女性と話せない、固まってしまうという状態は緩和していたんだろうか。
「可哀想に、こちら藤川くんの餌食になったそうだよ」
なんだか物凄くひどい紹介をされている。事実だけど、いやでも何気に名誉毀損じゃない?これ。いや、まあ、いいですけど別に…。
「あの、藤川先生がウリやってた話がいま出てきて…」
「ああ、そうですねえ、娘さんに仕送りするためとか、母親似の自分の顔を変えないと生活に支障が出るとか、色々理由つけてはずーっとでした。歯牙矯正や顎や鼻周りの術後なんかつらそうでしたね」
ああ、そうか。優明さんのためなのか。いや、それもどうなのか。先生が優明さんの結婚式に出たがらない理由はもしかして、仕送ったお金がそういうことをして稼いだお金だったという後ろめたさがあるからなんだろうか。それとも、自分のせいで優明さんに苦難を負わせたと思っているんだろうか。
あと顔を変えるためって…そうか、お母さんと伯母さんは双子で同じ顔、先生も似ているから変えないと生活に支障が生じるほどの心理的瑕疵があったということか。先生の家に鏡がない理由ももしかして、そこに行き着くのか。
「それは、ずーっとってのは、いつくらいまでのことですか」
「おそらくですが、今もですよ。こないだ久しぶりにメッセンジャーで遣り取りした時に、多分これ以上いじるとこもないし、今度娘が結婚するからやっとやめれるって言ってました」
そんな。先生、実家の医療法人の仕事も、大学の仕事も、モノ書いたり講演したりも、監察医務院の臨時仕事も、売春も、全部は優明さんのため?
じゃあ逆に、先生が自分自身のためにやってることってなんなんだ。
短い時間しか眠れないし、食べられないし、人を弄んでコントロールしてセックスに耽溺することくらいじゃないか?
本来の研究内容自体が辛うじて自分自身のためなのかもしれないけど、でも、「そのまま続けたら死んでしまう」と二度も言わしめるような苛烈な執着での追究なんて自傷と同じだ。それは本当に自分自身のためと言っていいものなのか。
「そもそも、売春してるだなんてこと、どうやって知ったんですか」
「わたし、藤川くんとは一緒に学んだり研究もさせてもらったんですが、あの方女性とは話せなかったので、わたしも直接音声で会話はしたことがなかったんですが、わたし機械好きで結構早くからインターネット取り入れていたのと、話すより文字でのやり取りに慣れていたので、藤川くんとはメールやメッセンジャーでずっと遣り取りしてました。色々話すうちに、ここだけの話にしてくれって言われて、いろいろと打ち明けられたんです」
「でも結局、昔からのあれこれを知ってるやつがいて、割とそれ自体も知れちゃってたんだよね。正直居心地は悪かったと思うよ」
そういう、悪い噂もある中で、違う専攻から移ってきて解剖室での業務や、緒方先生の小僧さんしながら研究自体を続けて、傍らで色々やって、肩書のつく身分になって自由がある程度利く状態になっても尚、先生は辞めずにいるということか。
先生は強い。悲しすぎるほどに。
やっと口にできたのは「ウリって…」という一言だけだった。
「ウチ入る前からやってたらしいよ、流石に今はないだろうけど」
うまく言葉が出ない。
「なんで、そんな」
「随分あちこち悪くて病院かかってお金使ってたみたいだし、ウチ入ってからは随分顔もいじってたからそれじゃないかなとは思ってたけど、おれはあんまり訊けてないんだよ。タダでさえバックグラウンドがアレだし」
ああ、事件のことはやっぱり知っているんだ。知っているからこそ余計あれこれ直接は訊きづらいというのはあるだろう。おれもそうだ、だから周りの人に訊いている。
そのとき一旦ノックの音がして話が途切れた。長身で猫背気味で眼鏡のショートボブの女性が入ってきた。彼女は小さな声で「小林と申します」と言い、お辞儀した。この人が同期の方か。
でも先生、女性と当時はどう意思疎通していたんだろう。その頃には女性と話せない、固まってしまうという状態は緩和していたんだろうか。
「可哀想に、こちら藤川くんの餌食になったそうだよ」
なんだか物凄くひどい紹介をされている。事実だけど、いやでも何気に名誉毀損じゃない?これ。いや、まあ、いいですけど別に…。
「あの、藤川先生がウリやってた話がいま出てきて…」
「ああ、そうですねえ、娘さんに仕送りするためとか、母親似の自分の顔を変えないと生活に支障が出るとか、色々理由つけてはずーっとでした。歯牙矯正や顎や鼻周りの術後なんかつらそうでしたね」
ああ、そうか。優明さんのためなのか。いや、それもどうなのか。先生が優明さんの結婚式に出たがらない理由はもしかして、仕送ったお金がそういうことをして稼いだお金だったという後ろめたさがあるからなんだろうか。それとも、自分のせいで優明さんに苦難を負わせたと思っているんだろうか。
あと顔を変えるためって…そうか、お母さんと伯母さんは双子で同じ顔、先生も似ているから変えないと生活に支障が生じるほどの心理的瑕疵があったということか。先生の家に鏡がない理由ももしかして、そこに行き着くのか。
「それは、ずーっとってのは、いつくらいまでのことですか」
「おそらくですが、今もですよ。こないだ久しぶりにメッセンジャーで遣り取りした時に、多分これ以上いじるとこもないし、今度娘が結婚するからやっとやめれるって言ってました」
そんな。先生、実家の医療法人の仕事も、大学の仕事も、モノ書いたり講演したりも、監察医務院の臨時仕事も、売春も、全部は優明さんのため?
じゃあ逆に、先生が自分自身のためにやってることってなんなんだ。
短い時間しか眠れないし、食べられないし、人を弄んでコントロールしてセックスに耽溺することくらいじゃないか?
本来の研究内容自体が辛うじて自分自身のためなのかもしれないけど、でも、「そのまま続けたら死んでしまう」と二度も言わしめるような苛烈な執着での追究なんて自傷と同じだ。それは本当に自分自身のためと言っていいものなのか。
「そもそも、売春してるだなんてこと、どうやって知ったんですか」
「わたし、藤川くんとは一緒に学んだり研究もさせてもらったんですが、あの方女性とは話せなかったので、わたしも直接音声で会話はしたことがなかったんですが、わたし機械好きで結構早くからインターネット取り入れていたのと、話すより文字でのやり取りに慣れていたので、藤川くんとはメールやメッセンジャーでずっと遣り取りしてました。色々話すうちに、ここだけの話にしてくれって言われて、いろいろと打ち明けられたんです」
「でも結局、昔からのあれこれを知ってるやつがいて、割とそれ自体も知れちゃってたんだよね。正直居心地は悪かったと思うよ」
そういう、悪い噂もある中で、違う専攻から移ってきて解剖室での業務や、緒方先生の小僧さんしながら研究自体を続けて、傍らで色々やって、肩書のつく身分になって自由がある程度利く状態になっても尚、先生は辞めずにいるということか。
先生は強い。悲しすぎるほどに。
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