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【1996/11 Birthday】
《第5週 火曜日》
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あれは24年前、おれが小学校の4年の頃、冬も近づき塾で受験校別のクラス振り分けが迫っていた頃だった。学校で5時間枠の授業を終えて掃除をして家に帰ると、茶の間に知らない若い男の人がいた。若いというより、大人とは言い切れない幼さが残っていておれには地元の高校生と同じくらいにしか見えなかった。
その人は、1学年下の妹の傍らに座り、本を広げて穏やか且つ冷静な口調で読み聞かせ、話しかけていた。人見知りはしないものの、苦手な人や物事は直ぐ顔に出してしまうタイプのはずの妹もご機嫌で、その人にぺったりとくっついて座り、嬉しそうに脚をぶんぶんと振っていた。そして異様なことに、普段ならそんな振る舞いをしたら母は厳しく叱るのだが、何故かニコニコして見守っているのだった。
なんだか違和感を感じたし、そもそもおれは知らない人と話すのが億劫だったのでこっそり二階の自室に逃れて塾の準備をしてさっさと出てしまおうと思った。しかし、その前にトイレに寄ろうとして通りすがったところをキッチンに何か取りに来た母に見つかってしまった。洗面所やトイレの扉の辺りはキッチンから丸見えなのだ。
「南おかえり、お客さんが持ってきたおやつがあるからみんなで食べましょ、まだ時間あるでしょ?」
仕方なく「塾の準備してから行くから」と答えて、用便を済ませ、二階の自室にランドセルを置いて、塾の鞄を持って下り一旦玄関に置き、約束通り茶の間に向かった。茶の間に入ると、そのお客さんはおれを見るなり、わざわざ子供相手に一旦席を立って「こんにちは、お邪魔してます」と深くお辞儀をした。最初、厚い前髪で目元は見えなかったがその顔を上げるとき、一瞬目元が見えた。
一重ではあるが小さくはなく、美しくて、それでいて冷たさのようなものはない、寧ろ少し哀しげな目をしていた。そして顔全体を見ると、色白で顎は小さく、微笑むと口角がキュッと上がって前歯が覗き口元がまるでウサギかリスのように見えた。その時ふと誰かに似ている気がした。体はひどく痩せていて、手首や手の関節の骨ばった感じとは裏腹に、指先が薄く細かった。
母がいそいそと箱から立派なホールケーキを出し、皿とフォーク、普段は使わない立派なティーセットを取っ手付きの大きな盆に載せて持ってきてテーブルに並べる。
「南ほら見て!持ってきてくださったの、キャラメルバタークリームのケーキですって、きれいでしょう?こうやってクリームでお花盛ったケーキって南初めてでしょ?今はこういうの珍しいのに、どこに売ってるのかしらね?懐かしいわぁ」
浮かれた様子で言い、再び茶器やケーキを切り分けるナイフを取りにキッチンに戻る母を尻目に、妹は目をキラキラさせて手を叩いて喜び、そのお客さんに「すごい、かわいいね、食べちゃうのもったいないなあ、わたし毎年お誕生日に食べたい!」と話しかけ、その人も嬉しそうに微笑んでいた。その時気づいてしまった、この人は、妹と似ているのだ。
妹の優明は、おれが小学校に上がる少し前、この家に来た。全く事前に予告もなく、父にも母にも似ないこの子が突然連れられてきて、「今日からこの子も家族なんだよ、南の妹なんだよ、優しくしてあげられるかな」と言われて、おれは随分戸惑った。幸い妹は気性の激しくおとなしい子で、すぐにおれを甘えて大丈夫な存在と認知したのか、家にあまりいない父よりも早く懐いてくれた。
今、目の前で妹がこの人に甘えている様子はその時の甘え方にとても似ている。
もしかして、という思いが過ぎったが言い出せない。
そうこうしている間に母は「お父さんにもちょびっとくらいは残しときましょうね」と熱湯をナイフにかけてから切り分けて一部をとって、再び熱湯をナイフにかけながら「みんなどこをどのくらい食べたい?一回で食べ切れるぶんずつ取りましょ」と言った。妹は普段食べるケーキの倍食べたいと言い、お客さんは市販のカットケーキの半分もあればいいと言った。おれと母は普通のカットケーキ相当の大きさでとった。
そのケーキは、ふかふかのスポンジにコテッとしたクリームが薄くバランス良く塗りつけてあり、中は桃といちごのスライスがふんだんに挟まっていてみずみずしく、熱い紅茶をそこに流し込むとコクがある分ほんのりした甘さのバタークリームは速やかに融けていった。ふわりと残るキャラメルの風味が後を引く美味しさだった。こんなケーキは初めてで、おれも倍の大きさでもらえばよかったなと思った。
話をするうちにこのお客さんが現役東大生であることや、お父さんの知り合いの家の子だというのはわかった。母は図々しく「勉強のコツ教えてもらったら?受験近くなったら家庭教師お願いしちゃおうかしら」と言い、その人は「大したことはしてませんから」と照れて謙遜していた。なんとも居心地悪く感じて、おれは実際には自分の受講枠までは時間があったけど、その人にケーキのお礼を言って塾に行くことを告げて家を出た。
でも心の中では母に「この人、ゆめの本当のお父さんでしょ?ゆめは知ってるの?だとしたらなんでおれには言わないの?」と思っていたし、直接訊きたかった。しかしそれを言ったらまずいような気がした。
その後、年が明け、厳寒極まる真冬のある日の土曜日、塾が終わって普段ならもう夕餉もとっくに終えた頃、おそらくおれの不在中あのときと同じく妹に会いに来た帰りだったのだろうか、あの人を駅前の人混みの中で見かけた。
おれはそのとき初めて大人の男の人が嗚咽をあげて涙を零し泣いているのを見た。おれは、大人になったらヒトは泣かなくなるのかと思っていた。脳内にある電球を叩き割られたような衝撃を受けて、おれは目を逸らして立ち去るしかできなかった。心臓がただ早鐘のように激しく鳴って苦しかった。
あれ以降、彼が家に来ている様子はなかったが、必ず毎年欠かさず、妹の誕生日になるとうちの食卓にはキャラメルバタークリームの美しいデコレーションケーキが上がっている。
その人は、1学年下の妹の傍らに座り、本を広げて穏やか且つ冷静な口調で読み聞かせ、話しかけていた。人見知りはしないものの、苦手な人や物事は直ぐ顔に出してしまうタイプのはずの妹もご機嫌で、その人にぺったりとくっついて座り、嬉しそうに脚をぶんぶんと振っていた。そして異様なことに、普段ならそんな振る舞いをしたら母は厳しく叱るのだが、何故かニコニコして見守っているのだった。
なんだか違和感を感じたし、そもそもおれは知らない人と話すのが億劫だったのでこっそり二階の自室に逃れて塾の準備をしてさっさと出てしまおうと思った。しかし、その前にトイレに寄ろうとして通りすがったところをキッチンに何か取りに来た母に見つかってしまった。洗面所やトイレの扉の辺りはキッチンから丸見えなのだ。
「南おかえり、お客さんが持ってきたおやつがあるからみんなで食べましょ、まだ時間あるでしょ?」
仕方なく「塾の準備してから行くから」と答えて、用便を済ませ、二階の自室にランドセルを置いて、塾の鞄を持って下り一旦玄関に置き、約束通り茶の間に向かった。茶の間に入ると、そのお客さんはおれを見るなり、わざわざ子供相手に一旦席を立って「こんにちは、お邪魔してます」と深くお辞儀をした。最初、厚い前髪で目元は見えなかったがその顔を上げるとき、一瞬目元が見えた。
一重ではあるが小さくはなく、美しくて、それでいて冷たさのようなものはない、寧ろ少し哀しげな目をしていた。そして顔全体を見ると、色白で顎は小さく、微笑むと口角がキュッと上がって前歯が覗き口元がまるでウサギかリスのように見えた。その時ふと誰かに似ている気がした。体はひどく痩せていて、手首や手の関節の骨ばった感じとは裏腹に、指先が薄く細かった。
母がいそいそと箱から立派なホールケーキを出し、皿とフォーク、普段は使わない立派なティーセットを取っ手付きの大きな盆に載せて持ってきてテーブルに並べる。
「南ほら見て!持ってきてくださったの、キャラメルバタークリームのケーキですって、きれいでしょう?こうやってクリームでお花盛ったケーキって南初めてでしょ?今はこういうの珍しいのに、どこに売ってるのかしらね?懐かしいわぁ」
浮かれた様子で言い、再び茶器やケーキを切り分けるナイフを取りにキッチンに戻る母を尻目に、妹は目をキラキラさせて手を叩いて喜び、そのお客さんに「すごい、かわいいね、食べちゃうのもったいないなあ、わたし毎年お誕生日に食べたい!」と話しかけ、その人も嬉しそうに微笑んでいた。その時気づいてしまった、この人は、妹と似ているのだ。
妹の優明は、おれが小学校に上がる少し前、この家に来た。全く事前に予告もなく、父にも母にも似ないこの子が突然連れられてきて、「今日からこの子も家族なんだよ、南の妹なんだよ、優しくしてあげられるかな」と言われて、おれは随分戸惑った。幸い妹は気性の激しくおとなしい子で、すぐにおれを甘えて大丈夫な存在と認知したのか、家にあまりいない父よりも早く懐いてくれた。
今、目の前で妹がこの人に甘えている様子はその時の甘え方にとても似ている。
もしかして、という思いが過ぎったが言い出せない。
そうこうしている間に母は「お父さんにもちょびっとくらいは残しときましょうね」と熱湯をナイフにかけてから切り分けて一部をとって、再び熱湯をナイフにかけながら「みんなどこをどのくらい食べたい?一回で食べ切れるぶんずつ取りましょ」と言った。妹は普段食べるケーキの倍食べたいと言い、お客さんは市販のカットケーキの半分もあればいいと言った。おれと母は普通のカットケーキ相当の大きさでとった。
そのケーキは、ふかふかのスポンジにコテッとしたクリームが薄くバランス良く塗りつけてあり、中は桃といちごのスライスがふんだんに挟まっていてみずみずしく、熱い紅茶をそこに流し込むとコクがある分ほんのりした甘さのバタークリームは速やかに融けていった。ふわりと残るキャラメルの風味が後を引く美味しさだった。こんなケーキは初めてで、おれも倍の大きさでもらえばよかったなと思った。
話をするうちにこのお客さんが現役東大生であることや、お父さんの知り合いの家の子だというのはわかった。母は図々しく「勉強のコツ教えてもらったら?受験近くなったら家庭教師お願いしちゃおうかしら」と言い、その人は「大したことはしてませんから」と照れて謙遜していた。なんとも居心地悪く感じて、おれは実際には自分の受講枠までは時間があったけど、その人にケーキのお礼を言って塾に行くことを告げて家を出た。
でも心の中では母に「この人、ゆめの本当のお父さんでしょ?ゆめは知ってるの?だとしたらなんでおれには言わないの?」と思っていたし、直接訊きたかった。しかしそれを言ったらまずいような気がした。
その後、年が明け、厳寒極まる真冬のある日の土曜日、塾が終わって普段ならもう夕餉もとっくに終えた頃、おそらくおれの不在中あのときと同じく妹に会いに来た帰りだったのだろうか、あの人を駅前の人混みの中で見かけた。
おれはそのとき初めて大人の男の人が嗚咽をあげて涙を零し泣いているのを見た。おれは、大人になったらヒトは泣かなくなるのかと思っていた。脳内にある電球を叩き割られたような衝撃を受けて、おれは目を逸らして立ち去るしかできなかった。心臓がただ早鐘のように激しく鳴って苦しかった。
あれ以降、彼が家に来ている様子はなかったが、必ず毎年欠かさず、妹の誕生日になるとうちの食卓にはキャラメルバタークリームの美しいデコレーションケーキが上がっている。
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