Over Rewrite Living Dead

きさらぎ冬青

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【2020/05 教育】

《第二週 水曜日 授業前》

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先生が心配で気が急いて、いつもより早めに着いてしまった。
先生にメールしたら、なんと「今日はもう来ているから部屋においで」と返信が来た。
慌てて向かい、ノックすると「どうぞ」と声がした。
既に先生は仕事していた。小曽川さんに頼んでた調べ物をもとに、何かの原稿の加筆修正をしているようだった。
「すみません、寝れないって聞いて、ちょっと心配で」
デスク後ろのソファで小さくなっていると、小さく「ふふ」と笑うのが聞こえた。
「それでも今日は少し寝れたほうだよ、あと久々に人間の食事を食べたな」
振り返りながら、まるで自分が人間じゃないような口ぶりで先生は言った。
その時に口元の動きが気になった。
滑舌がちょっといつもより悪い気がする。
あと、初日の授業のときも感じたが、先生は笑ってても喋ってもあまり口角が動いてない感じがした。
あと、今、口腔内に光るものが見えた。
「昨日のことを踏まえて、今日の実習前に訊いておきたいことはない?」
おれの顔をじっと見ている。
「実習関係ないんですけど、一ついいですか」
「ん?何?」
やっぱり口の中、何かある。
「口の中に今何か入ってませんか、邪魔じゃないですか?」
先生は一瞬目を丸くして、それから「あぁ、忘れてた」と呟いた。
そして、舌を出してその正体を見せた。ピアスだった。
その舌を出したときの表情がえらく艶かしく、背中に電流が流れるような刺激が走った。
咄嗟に自分の鞄で下肢を隠し、鞄の中の何か探す素振りをする。
先生はデスクの上のシャーレにピアスを外して入れた。
「まあ、マスクしちゃうと誤魔化せるから着けてても別にいいっちゃいいんだけどね」
首のキスマークも、リストカットの痕も、舌ピアスも、おれには衝撃的且つ刺激的過ぎてどう振る舞っていいかわからない。
心臓が喉の辺りまで迫り上がって喉から出てしまいそうになる。首筋が熱い。
引続き鞄の中を探す振りをしていると手元が翳ったのでふと顔を上げたら、直ぐ目の前に先生の顔があった。
昨日と全く同じ服装をしているのに、全く一昨日とも昨日とも違う匂いを纏って屈んでいる。
「ごめんね、なんか心臓に悪い人間で」
優しく髪の毛を掻き撫でて謝るこの人を、今すぐめちゃくちゃに抱きたい衝動を必死に堪える。
「スクラブとかタオル用意しようか、ロッカーも。解剖室とシャワールームも今のうちに案内するよ。あと、驚かしたお詫びになんか奢るよ、行こう」
細い手が伸びてきて、おれの手を引いた。汗や脂の感触のない、体毛もなく、握力もない、すべすべとした柔らかいきれいな手。
全身の力が抜けて、性器が息づいたまま戻らなくて、うまく動けない。
「ほら、南が来るとうるさいから、早く」

いたずらっぽく笑って強引に誘導するのをフラフラと覚束ない足取りでついていき、まだ人も疎らな朝のキャンパスを歩く。
新緑が眩しい。都心とは思えないゆったりした時間が流れている。
その爽やかさとは裏腹に、心臓が喉の中にあるように激しく拍動し、体温が上がって、息が荒くなり、喉が渇いて仕方がない。
「ねえ、先生、離してください、昨日から、おれのこと、からかってるでしょ」
先生の手を引いて引き止める。
「ん?なんで?」
立ち止まって振り返った先生は、そのまま徐ろにおれに抱きついた。
屹立したものが先生の鳩尾のあたりに当たり、それを感じ取った先生がおれの顔を見上げて薄っすら微笑んでいる。
「ダメですよ、小曽川さんに叱られますよ」
「なんで?」
なんでって、そんなの。小曽川さんに言われていたのに、二人きりにならないようにって。
その意味がやっと解り始めたけど、とっくに手遅れだ。
でも、先生だけのせいにするわけにもいかない。
細い方をできるだけそっと掴んで、身体を引き離す。
「先生、おれ、ゲイなんですよ」
「そんなことカムアウトしなくたっていいのに、きみ、素直だなあ」
「それ言ったら、初日からあんな痕わざわざ見せなくたっていいじゃないですか」
恨みがましく言うと先生が振り返った。
「だってさ、長谷くん、すっごい目で見てくんだもの。リスカ痕も、ピアスも。あんな目で追われたら意地悪したくもなるよ」
声のトーンを下げて淡々と言うと、再び背を向けて歩き出した。
「先生は、ゲイなんですか?」
「長谷くんはどう思う?」
うまく答えられない。
「それと、こんな痕つけるのってどういうヤツだと思う?」
痕だけじゃ独占欲が強そうな事しか想像できない。独占欲の強さに男女なんて関係ないし、性的指向までは読めない。
「よくわかんないです。でも、その人は先生が自分のものだって主張したいというか、独占したいとかそういう気持ちはあるのかなって思いますよ。先生もその人にそういうこと許す程度は、その人を愛してるんですよね?おれの入る余地無さそうだから必死にセーブしてるんですよ、おれ」
自分なりに思ったことを一気に吐き出した。
「そっか、本当に素直だなあ」
本当に悪意なく、自分の若く幼い素直さを微笑ましく思っているのがわかる。
徐々に体の熱が治まって、歩く速度が上がる。
追いついて横に並んだことに気づいた先生がこちらを見上げた。
「おれ、好かれても何にも返してあげれないんだよね。逆に好意を盾にして搾取したり意地悪したり怒らせたりさ。歪んでるんだよ」
きれいにラインの整った横顔が、少し困ったような表情で笑っている。
「長谷くんさ、おれに発情してもいいけど、好きになったらダメだよ。きっとズタボロになるまで傷付けちゃうし、泣かせちゃうから」
それは多分無理だ。おれは、欲情とときめきの区別がつかないバカなんですよ先生。
なんて、この歳でそんなこと言ってしまったら引かれるに決まってる。
「気をつけます、でも、先生もおれを刺激すんのやめてくださいね」
精いっぱい愛想笑いを作って念を押す。
「はいはい」
目線を合わせずに生返事で返しながら、先生は道すがら落ちている小石を蹴って歩いた。時々気まぐれにパスしてくるのを受け止めて蹴り返す。
先生なりに運動やってたおれに気遣ってくれてるんだろうか。
「あ、」
当たり場所が悪かったのか、石がどこかに飛んで行ってしまった。
「あーあ、終わっちゃった」
そのとき多分、初めて、おれは先生が無邪気に歯を見せて笑っているのを見た。
目尻に少しシワが寄って、きれいに揃った小さな上の前歯がちらりと見える。
今まで好きになったことのないほどの年上の人。
好みとは違う全然タイプの顔。体型。
それなのにどうしてこんなに、欲情と胸騒ぎが止まないんだろう。
そもそも『短髪、髭、筋肉と脂肪、体毛』がモテの基準になるゲイの世界では需要が少ない、スタンダードではない嗜好だ。
先生のように40代で、小柄で華奢で、色白ですべすべしてて、小奇麗な恰好をしているタイプはレア中のレアだ。
スリム嗜好のコミュニティもあることはあるが、30代までが限度で、それ以上は『枯れ』扱いで除外とされていることも多いので見つけにくく、出会う場が少ない。
そしてこの年代になると性的欲求からそういう場に出入りすることも減り、所謂ゲイコミュニティに染まりきった人というのも少なくなる。
社会的にも婚期を過ぎるため、パートナーの有無やゲイであることに過剰にこだわらず、周囲と折り合いをつけて暮らせている人も少なくない。
にも拘らず、先生ときたら。

実習に備え、先生に案内されて各所を回り、ロッカールームでロッカーの暗証番号を設定してもらった。
併せてスクラブやサンダルもサンプルを借りて体に合わせて、概ね合いそうなものを上下で選び、新しいのをおろしてもらった。
仕事は仕事というスタンスなのか、からかうようなことや意地の悪いことをされたりということはその後特になかった。
約束通り、戻る前にカフェテリアではモーニングを奢ってくれた。
先生はミルクティーにめちゃくちゃ砂糖を入れて、トーストを浸して柔らかくして食べて目玉焼きと食べ、ベーコンやらウインナーやらはおれにくれた。
「小曽川さんから、先生は食べないって聞いてたのでちょっと安心しました。」
率直に伝えると「まあ、食べることは食べるんだけどね」と言って下を向いた。
一瞬の間があって「おれ、先に戻っててもいいかな。もうちょいさっきの仕事進めておきたいんだよね」と言うと先生は席を立った。
「勿論です、お忙しいのにありがとうございました」
こちらも立ってお辞儀すると照れたように笑って手を振って去っていった。
神経質で、仕事や教え方が丁寧で、でも、プライベートは乱れてそうで、ちょっと人を食ったような意地が悪いとこもあって、でも優しかったりして、なんだか底が知れないというか、イマイチ掴めない。
只、おれ個人としてはあの華奢な体型と、雰囲気や仕草とか、表情や声や話し方が、あとやっぱり、触られると弱い。
小曽川さんや大石先生には悪いけど、おれは先生のことが知りたいし、話したい。見学が終わった後も、先生と会えるような口実がほしい。
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