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第一章【失楽園】

4 過去の記憶―1

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 薄暗い空間の中で身を守るように膝を抱える。
 その中心にぽつんと座り込んでいる少年は、小さな身体をさらに縮ませて、きつく両目を閉じていた。上着の袖から覗く細い腕には、痛々しい傷があり、周りの音を遮断するためか、耳を塞いでいる。
 彼の周辺には、大小の人影が丸く立ち並び、中心に向けて視線を送っていた。取り囲む影は、どれも異様な圧を放ち、その口許は歪な三日月形をしている。
 影が発する尖った言葉が見えない兇器となり、また一つ、彼の肌に傷をつけた。

「――っ!」

 言葉はときに人を傷つける刃となる。
 肌についた傷は、ほんのかすり程度の浅いものだが、決して消えることはない。彼の身体のいたるところには、数多くの傷が癒えることなく残っている。
 小さな傷を繰り返し受けていると、段々心が擦り減ってくる。その積み重ねがやがて大きな痛みとなり、彼の心に深い傷跡を残していた。

 忘れたくても忘れられないのだ。
 どんなに固く両目を閉じても、奇異なものを見る双眸が、瞼の奥に張り付いて消えない。
 どんなに振り払おうとしても、嘲笑を含んだ言葉が、頭の中で何度も反芻される。
 この影たちは、記憶の産物だ。拭いきれない過去に縛られて、未だに苦しめられている。閉じられた空間から逃げ出すこともできず、止むことのない攻撃にひたすら耐えていた。

「もう――」

――やめてくれ。

 すると、突如、頭上がきらめいた。
 漆黒の中に一点、ぽっかりと浮かび上がっている。
 初めは米粒ほどの大きさだったが、徐々に円を広げていき、満月ほどの大きさになると、光の筋が放たれた。ゆっくりと幅を広めながら、彼へと一直線に伸びていく。
 守られるようにすっぽりと覆い込まれると、少年が重い頭をあげた。
 虚ろな目をわずかに細め、眩い光の柱を見つめる。

『――――』

 光の向こうで声がした。けれど、水中に潜っているときのように、膜がかかってうまく聞き取れない。言っている言葉はわからないが、ふわりと包み込むような安心感のある声音だ。
 自分を傷つけるものとは違う、悪意のない優しげな声に導かれるまま、彼は手を伸ばした。


 
 

 ***



 
 ふうっと意識が浮上する。
 視界に映っているのは、見慣れた自室の天井だ。心に溜まった重りを吐き出すように、飛鳥は小さく息をついた。
「……夢か」
 額に吹き出た汗を手で拭い、生白い掌を眼前に掲げる。相変わらず、不健康そうな細い腕だ。苦笑し、手の甲を額にくっつけた。
 この夢を見るのは随分と久しぶりだ。症状が悪化し始めた頃から見るようになったが、ここしばらく見ていなかった。
 おそらく昨日の出来事が原因だろう。
 驚きで見開かれたアーモンド型の瞳と、特徴的な赤い髪色がはっきりと目に焼き付いている。屋上から立ち去る際、彼の言葉を遮ってしまったが、なにを言うつもりだったんだろうか……。
 ふと、黒い影が彼と重なり、払うように頭を振った。

――東道君はあいつらとは違う……はず。

 少なくとも、自分に対して陥れようとかそういった悪い感情は抱いてないと思う。
 彼は、老若男女問わず誰にでも優しい。見た目や行動は派手だが、いわゆる陰キャと呼ばれる生徒にも、別け隔てなく接していた。

 あのときも――

 ゆったりと上半身を起こし、枕元にあった眼鏡をかけて、布団を剥ぎ取りベッドから降りる。机の上に置いていた鞄を開けて内ポケットの中を探ると、中から出てきたのは、二つに折り畳まれたノートの切れ端だ。
 そこに書かれている文字を目にし、ふわりと口の端を緩める。
 整った外見とは反対の不格好な筆跡だ。完璧な彼にも、そうでないところがあるようだ。抜け目がないので少し近寄りがたかったが、この字を見て親近感が湧いた。

 飛鳥は、彰以外に友達と呼べる人はいないに等しい。もし、悠介が自分の友達になってくれたら……なんて幻想を一瞬考えたが、すぐさま消え去った。ありえない話だ。人気者の彼と自分が肩を並べる日なんて、この先来ることはないだろう。
 それに、あの場面を見られてしまった。いくら性格が良い悠介でも、言いふらさない確証はない。教師の前ではいい顔をして、裏では卑劣なことをしてきた者を何人も見てきた。
 それでも……彼はそんな人ではないと信じたい。
 確固たる理由はないが、何故か本能的に感じる。

 そういえば、悠介は時々、寂しげな瞳をしていた。口許はきれいな三日月を描いているのに、目だけが冷めた様子で、周りの生徒は彼の変化に気づいていなかった。多分気づいているのは、自分だけだ。日頃から他人の顔色をうかがって過ごしてきたためか、些細な感情の変化を読み取れるようなってしまった。

――なんで、寂しそうな目をしてるんだろう。

 気になるが、どうすることもできない。歯がゆい思いを抱きつつ、いつも輪の外側から眺めていた。

 赤髪の彼に思いを馳せていると、軽快なギターの音色が鼓膜をついてきた。発信元であるベッドボードに手を伸ばし、スマホを操作する。見慣れた星のアイコンが表示されると、飛鳥は怪訝そうに眉をひそめた。
 会話が苦手な飛鳥を気遣い、日頃から連絡事項などはメッセージアプリでやり取りしていたので、彰から電話がかかってくることはほとんどなかった。よっぽどのことがない限り、直接連絡することはないと彰自身も言っていた。
 もしや緊急事態でも起こったのかと、飛鳥は焦りながら通話ボタンを押す。
「も、もしもし?」
『よう、飛鳥。おはよう』
 予想とは裏腹に、彰はのんびりとした調子で応じる。起きたばかりなのか、声がかすれており、普段よりも二割増しで色っぽさがあった。朝一で、この色気マシマシな声を耳元で受けるのは、少し刺激が強い。
 なにかあったのではという緊張も相まって、戸惑いながら尋ねる。
「お、おはよう。こっ……こんな朝早くから、どうしたの?」
『朝っぱらからわりぃな。いやあ、ちょっとお前の声が聞きたくてな』
「な、なに言ってるの、彰君……そういうのは女の子に言ってよ」
 いつも通りの茶化しに、ほっと胸をなでおろしてベッドサイドに腰を据えると、画面の向こうでくぐもった笑い声が聞こえた。
『そうだな。……なあ、飛鳥。大丈夫か?』
「えっ……と、なにが?」
『昨日、あんなことがあっただろ? 無理そうなら休んでもいいんだぜ』
 視線を手元に落とし、不揃いな文字を見つめつつ答える。
「……いや、大丈夫」
『本当に大丈夫か? 無理してねえ?』
「無理してないよ。それに一回休んだら、休み癖つきそうだし……」
『そうか……わかった。……布団に包まって引き籠もってる泣き虫飛鳥ちゃんは卒業か』
「なっ……ひ、人をミノムシみたいに……!」
 くつくつと笑いながら、彰が続ける。
『だってお前、嫌なことがあるたびに、俺の布団占領してただろ?』
「確かによくお邪魔してたけど。さ、最近はしてないし……」
『あーあ、もう見れないのか。ミノムシ飛鳥ちゃん可愛かったのに』
「かっ可愛くなんかないよ……! もう、彰君、面白がってるでしょ……」
『ハハッ、バレたか……んで、今日は行くんだな?』
「うん。行くよ」 
 悠介に見られたことが引き金となり、記憶の奥底に刺さっていた棘が、再びじくじくと痛み出している。
 正直、また心ない言葉の刃を受けるのでは……という怖さはあるが、それと同時に、彼は今まで出会った人とは違うと期待している自分もいた。
「了解。じゃあ、いつも通り駅前で待ってるからな」
 本当の本当に大丈夫なんだな、と念を押す彰に、苦笑しつつ「本当に平気だから」と返し、通話を切った。

「……きっと、大丈夫」

 飛鳥は、恐怖と期待が入り混じった面持ちで、再度不格好な文章を眺め、自分を鼓舞するように呟いたのだった。




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