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聡明たるレイフォード

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「来たか」
「お早う御座います、お父様」
「……ふん、お前は本当に可愛げの無い……」

 傍に控える侍女もなく、レイフォードはずんずんと廊下を進み、広々としたダイニングに入る。彼女は父親のエドモンドと顔を合わせると、にこりともせずカーテシーをした。弱冠四歳ながら貴族の所作が身に付いているところも、表情に子供らしい柔らかさが見えないところも、何よりその黒髪も、全てがエドモンドにとっては可愛くないのだろう。父親でありながらすっと彼女から目をそらし、面白くなさそうに悪態をついた。彼女は頭を下げたまま、内心下らないと悪態をついて謝罪の言葉を口にする。

「申し訳ありません」
 (じゃあなんだ、もう無理です耐えられませんとでも泣きついてやればいいのか?)

 当然違うだろうが、とレイフォードはまたも呆れて目を伏せる。既に家族の仲は冷え切っていた。レイフォードほどに聡明でなければ諦めをつけることも難しく、今生に絶望してその命を絶つなり無謀にも夜逃げを敢行するなりしていただろう。否、レイフォードも既に絶望しているのだ。ただ静観することが最良であると幼くして気がついてしまっただけで。

「ふん……」
「……お母様は」
「オーエンのところへ。お前と違ってオーエンには将来が約束されているのだよ。私もお前さえいなければ、オーエンの世話に向かっていたものを」
「……失礼しました」
 (聞いてもないことをべらべらと。貴族のくせに品の無い)

 散々悪態をついてやらないと気が済まないとばかりに内心で大きくため息を付く。むしろ口に出さないだけ、年齢不相応な落ち着きを見せていると言えるだろう。レイフォードが伏せた目を手元に持っていくと、青々としたサラダボウルとどう見ても大人用のカトラリーセットが並べられている。なるほど今日も嫌がらせに精を出すのかと彼女はまたまた呆れ、そして手に余る大きなフォークを手に取りサラダボウルへ突き刺した。その瞬間、父親の低い声が彼女に向かって飛んでくる。

「品が無い」
「……すみません、子供用のカトラリーを……」
「公爵家の令嬢ともあろう人間が、そんな我儘を通せるとでも?」
「……すみません」
 (はァ……思わず舌打ちするところだった)

 あまりにも理不尽な言動に苛立ちが募るが、彼女はそれを出来る限り包み隠してフォークを取り直す。苛々。まだ顔も見ていない弟にすら苛立ちが湧いてくる。

 (どうせオーエンには大量に用意してやるのだろう)

 カトラリーも服も絵本も。レイフォードには与えようと露ほども考えなかった物たちを、湯水のように。そう考える度に、呆れを通り越して頭痛すら訴えかけてくる眉間を押さえないように、彼女は必死に目の前のサラダボウルを崩すのだった。

「次までには、もう少しまともにカトラリーを使えるようになるんだな」
「申し訳ありません」
 (次までには、もう少しまともに使えるカトラリーを用意することだ)

 結局、彼女はサラダもスープもパンも、ほんの少しもクロスに落とすことなく朝食を食べ終えた。そうしてまた表情一つ変えずに、嫌味に対して誠実に謝罪する。内心で意趣返しすることも忘れずに。そのまま父親は二の句を継いでくる。

「次の予定は_」
「昼食まで家庭教師のアンバー先生がついてくださります」
「そうか。くれぐれもお前の悪癖で迷惑をかけることの無いように」
「承知しております。それでは失礼致します」

 父親の刺々しい物言いは、外面のために、わざわざお前のようなやつに家庭教師をつけてやっているのだから、と言外に伝えてくる。ヒステリーも我儘も、全てはお前達の被害妄想だろうに、とレイフォードは目を細めるが、しかし幸いなことに父親はそれに気が付かなかった。そのまままた表情一つ変えずに彼女は一礼し、ダイニングを去っていった。


「レイフォードお嬢様、本日は……」
「古エゲリア皇国から新エゲリア皇国までの文化比較の続きです。昨日は絵画でしたから、本日は詩からだったと記憶しておりますが」
「……そのとおりです。予習は」
「書庫から数冊、原語の詩集をお借りしました。目は通してありますが……」
「音読なさい」
「はい」

 レイフォードは公爵令嬢であるため、当然ながら不本意であろうがあるまいが家庭教師をつけなければならない。ゴール家の長女として大々的に宣伝した以上、もはや社交界にデビューさせないという選択肢は無いからだ。もしサロンに寄越した娘がまともな教養一つ持ち合わせていなかったとなれば、貴族の面汚しと呼ばれても仕方が無いだろう。故に、あれほど彼女を忌む父親の割に、レイフォードにも家庭教師を寄越している。しかしその点でも嫌がらせは抜かりない。レイフォードは未だ4歳である。そのくせつけている教師は、王立学院でも教鞭を執るアンバー・サイラス伯爵夫人である。まともな子供ならばあまりの難解さに喚き散らして庭まで走り出しているだろう。かつてあった古大国の言語など、大人でも読める人間はそう居ない。しかしながら、彼女は恐ろしく聡明なのである。

「……『金色の風は地を駆け、戦乱の火を鎮める。鈍色の雨は地を満たし、軍靴の音が止まる。赤色の国旗が掲げられ、ここにエゲリア皇国は誕生した』」
「古エゲリアの叙事詩ですね」
「はい。エゲリア語の押韻が句切れに必ずある様式であり、この点からも吟遊詩人が語り継いだ戦記物であることが分かります」
「新エゲリア皇国の詩と比較なさい」
「はい。まず主題から比較しますと、古エゲリアでは戦記や英雄譚がほとんどを占めています。これは古エゲリアの戦争により統一を成し遂げた歴史が深く関わっていることが推察されます。対し新エゲリアでは市井の日常や貴族の恋愛、滑稽噺などが多く見られ、新エゲリアが対外的にも内部的にもほとんど戦争が無く、文化的な発達が大きかったと考えられます」
「表現においてはどうでしょう」
「はい。古エゲリアの詩では特に押韻が大切になっており、また口伝されていく詩であったため連音変化が多く見られます。新エゲリアでは押韻はあまり重要視されておらず、言葉遊びが重要視されています。これは貴族が嗜む文学作品として広まっていったことが背景にあるからと思われます」
「……良いでしょう」

 ふん、とつまらなそうに家庭教師は嘆息する。1年前、家庭教師についたばかりの頃はまだ初歩的な文学を教えていたが、次第にレイフォードの父エドモンドに言われるがままレッスン難易度は釣り上がっていった。「どうしようもない我儘娘でひどいヒステリー」「銀髪でないからとしょっちゅう泣きわめく仕様のない子」と耳が痛くなるほど言い聞かされた家庭教師は、ならば是非ともその小娘を失脚させてやりましょうと1年間精を出してきたのだ。しかし蓋を開けてみればどうだ、恨み言の一つも言わず素直に課題をこなし、そのくせ少しもその無表情の鉄仮面を崩さない。想定とは別の意味で可愛げの無い少女、否幼女に、家庭教師は苦虫を噛み潰すほか無かった。

「……今日はここまで。明日は音楽史の授業です」
「はい。ありがとうございました」

 可愛げの無いカーテシーを返し、レイフォードは部屋を優雅に立ち去る。もう昼食の時間だ。彼女は足を淀み無くダイニングへ進めながら、午後は何をしようかとぼんやり考えていた。

 (まずは教科書にした古書を書庫へ返却しなければ。そうしたら……明日は音楽史だから、新しくそれについての本を借りよう。その後は、どうせ午後のティータイムには呼ばれないだろうから、部屋で大人しくしておくか)

 はぁ、と誰にも聞こえないほどの小さなため息をついて、レイフォードはダイニングの扉を開けた。


 (もはや慣れたが、ああも重苦しい食卓では食事の味もわからなくなるな)

 昼食は恙無く終わった。母親はまだオーエンに付きっ切りであったし、父親は書類仕事に掛かりっきりであったからだ。どうせ後で3人で摂るだろうからどうでもいい、と言わんばかりにレイフォードは広々としたダイニングで一人、皿を空にした。

 (まあ良い、やっと一人で読書が出来る……)

 長い長い午前の勤めを終え、大した休息にもならない食卓から離れ、彼女は一人古臭い書庫で息をしていた。

 (……あの父親は実学にしか興味が無いから、この古ぼけた書庫などどうでもいいと思っているようだが)

 父親の執務室にある整然とした本棚には、経営論や政治学の本ばかりが所狭しと並べられている。いくら社交界における必要な教養が“ジョークが通じる”程度のものであっても、些か極端と言うか短絡的と言うか。

 (呆れたな。だから絵画の良し悪しも決められず、流行りの画家の作品ばかり買う)

 彼女は適当な本を取り、パラパラとページをめくる。最近の彼女の気に入りは、古エゲリアの壮大な叙事詩だ。覇者が並び立つ戦乱の時代を駆け抜け、一つの壮大な皇国を作り上げた英雄の、波乱万丈の人生。

 (この『金色の風』というのが良い……。一体どんな見た目の英雄だったのだろう)

 幼子らしく胸を躍らせ、何度もその単語を指でなぞる。流麗な筆記体の古語を空に書き、一目見ることももう叶わない古の英雄に、彼女はうっとりと思いを馳せた。

 (……こんな代わり映えのしないつまらないところへ生まれてきて、最初は自死でも選んでやろうかと思ったが)

 彼女は本についた埃を慎重に手で払い、古いインクと茶色くしみた紙の香りを嗅いで、ぱたんと閉じて本棚に戻す。背が伸びればもっと高いところにも、とほんの少し悔しさを滲ませて、上に向かって手を伸ばし……そしてはぁ、とため息をつき、書庫を出た。


 そしてレイフォードはまた一人きりで夕食を取り、侍女もなく入浴を済ませ、一人きりで布団に潜る。

 (……何か、少しで良い……誰か、この死にたくなるほどどうでもいい生活を、少しだけ良くしてくれないだろうか)

 何度目かもわからない祈りを捧げ、彼女はゆっくりと眠りに落ちて行くのだった。
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