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III◆23歳・穀雨 ー反対色ー
1.マンションオーナーとの約束
しおりを挟むーーー…
学校の職務を終えた夕人は、電車で帰宅する。
夕人が今住むのは、駅から歩いて5分もかからない場所に位置するメゾネットタイプの賃貸マンションだった。
エントランスでオートロックキーを差し込み、エレベーターを上がる。
ーーピッ、ガチャ……
カードキーで解錠して部屋に入った夕人は、1階の洗面所で手を洗い、荷物をリビングに置くとすぐに階段を上がり2階へと向かった。
独り身の夕人にそぐわない広すぎる間取りの、築浅で都心部の駅近物件。
そこは本来ならば高所得者でなければ住めないほどの賃料であったが、オーナーが夕人の父の親類で、尚且つ絵画コレクターということもあって、数々のコンクールを受賞する前途有望な夕人になら…と格安の家賃で住むことを了承してくれたのだった。
ただし、一つだけ条件があった。
それは……
「今月は…………何にしよう。」
夕人は小さくつぶやいた。
そして、木製の椅子の上に掛けられた厚手のエプロンにワイシャツのまま腕を通す。
そのベージュ色の厚手な綿エプロンは、胸元から下の生地に色とりどりの油絵具が付き乾くのを繰り返したため、まるでカラフルなペイントタッチの柄のようにも見えた。
毎月1枚。
どんなものでも良いから、夕人が描いた油彩画をプレゼントして欲しいという、オーナーからの要望。
ーーー俺の描いた絵を月イチで欲しいなんて、ほんと、物好きだなーー。
自分の創り出したものに、そこまで価値があるかはわからない。
評価をしてもらえるのはとても嬉しくありがたいが、果たしてこの高級マンションに住まわせてもらえるのに値するほどのものをオーナーに贈れているのかは謎だった。
ーーー今回は、模写にしよう。少し原点に返ってーー…
画集を開き、悩む。
本来ならば、キッチンと水回りのある1階をリビングに、2階を寝室や書斎などとくつろぐスペースとして使うのが一般的なこのメゾネットのマンション。
この広いマンションにひとりだけで淡々と生活を続けている夕人は、2階の一室フロアのほぼすべてを絵画製作のアトリエとして使用していた。
カンバスの立てかけられた三脚の下には床一面にビニールシートが広げられ、画材を纏めて置いていた。
これまでに描いた没作品や、まだ乾かし途中のコンクール出品予定の絵を、壁紙を汚さないよう張り巡らしたシートに立てかけている。
一度作業を始めたら、時間が経つのも忘れて没頭する。
食事を摂るのも忘れて、ただ一人だけの空間でひたすら集中し、筆を動かし続けた。
『♪~~♪~』
ーーーーーはっ
静まり返った部屋の中ーーー1階に置きっぱなしにした携帯から、メッセージ着信の音が聞こえてきて、夕人は我に返った。
腕時計に目をやる。
アナログ時計の針は午後9時過ぎを指していて、帰宅してからすでに3時間以上が経っていることに驚いた。
空腹も感じず、飲まず食わずで没頭するーー…そんなことを繰り返す毎日。
ーーー最近、時間経つの忘れてること、多いな………。
高校での教職を全うした後、帰宅してからはこうして画の製作に取り掛かる。
そんな生活を毎日、変わらず1年続けてきた。
ただ流れに身を任せて、ただ目の前のやらなければいけないことを、ひたすらこなしていく。
余計なことなど何もなく、
ただ、ひとりだけでーーー。
そうやって生きていけることが、何よりも有り難かった。
考える暇など与えない。
孤独とは向き合わない。
元々、こういった環境が性に合っている。
そう言い聞かして。
それでも、ふとしたとき。
頭の中をちらつく。
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