人形工場

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第参夜

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 肩で切り揃えられた黒い髪は真っ直ぐで、塗られた胡粉は滑らかにその肌を覆って居る。
「御爺さん御爺さん、如何して御爺さんの目はそんなに大きいの?」
「……」
「御爺さん御爺さん、如何して御爺さんの顔はそんなに怖いの?」
「うるせえ」
「御爺さん御爺さん……」
「黙っとけ」
 かくかくと動く頭だけの木偶の口に、手頃なお手玉を突っ込み、職人は材木で組まれただけの着物の下の身体を組み上げる。
 手首と足首と首から先だけが人を模した、ただの絡繰り人形。
 其れが喋り始めたのは、口を動く様に作った所為だろうか。
 死んだ娘が乗り移ったとでも言うのか。
 職人は黙々と手を動かし、木偶がもぐもぐと口を動かして居る。
 やがて、ペッとお手玉を吐き出し「御爺さん御爺さん……」と声を上げる。
 こんなでは文楽なぞさせられやしない。
 ガブの時に文句を言うのが目に見えて居る。
 溜息を吐き、頭を身体に組み上げると、売り物にならぬ小女の木偶を眺めた。
「如何して御爺さんの顔はそんなに怖いの?」
「おめえが……そんなんだからじゃねぇか……」
 木偶の口に手頃な蜜柑を突っ込んだ。


 時刻は三時。
 眼鏡ニイサンが、お茶の支度をし、ネイサン青年を茶菓子を買いに走らせる。
 何時もの光景。
 だが、そのネイサン青年は、玄関から出なかった。
 正確には、出る必要が無くなった。
「お久し振りです。増田です」
 そう、玄関の前に立っていた女性は頭を下げた。
 涙黒子が印象的な小柄な女性。
 手には近所の和菓子屋の銅鑼焼きの包みを下げて居る。
「実は、御相談が……」
 居間に通され、抱えるくらいの大きさの木の箱をネイサン青年に差し出す。
 彼女の手土産の銅鑼焼きをお茶と一緒に出し、眼鏡ニイサンが微笑む。
「人形用の木箱みたいだけれど」
「ええ、そうです。その節はママと辺見さんが大変御迷惑をお掛けしたそうで、すみませんでした」
「いえいえ、喜市ママの事は増田さんが謝る事では無いですよ」
 爽やかにネイサン青年が言う。が。
 えーっと。もしや……彼方の女性は……?
「彼はフレッシュフルーツラブラブと言うお店の店員さんだよ」
 衝立を挟んだ此方で、眼鏡ニイサンがニッコリと笑って銅鑼焼きを進め乍言った。
 ……彼……彼なのですか、あの可憐な女性が、彼なのですか……。
「源氏名はマスカットちゃんだったかな」

「実は相談と言うのは此れで……」
 お客様から頂いたのですけれど、とマスカットちゃんが言う。
 酒の席でマスカットちゃんがぬいぐるみや可愛い人形が好きと言うのと、喜市ママが怖い人形が如何こう言っていたのをうろ覚えに覚えていたらしい常連客が持ち込み、プレゼントと称して置いて云ったのだと。
 衝立の陰から覗いて見ていれば……
「……此れは……だねぇ……」
 ザンバラに広がり長い物は足元まである髪、元は高価な物だろう金糸で刺繍の入った赤い着物、右手首より先は紛失し、足の裏は泥で汚れ、口はパッカリと開け放し、目は半眼になって居る。

「此れはパッと見でもう怖いねぇ」
「着せ替え人形とかは好きなんですけど、此れはちょっと……」
「そうだねぇ」
「お願いします!」
 そう言って早々に退散したマスカットちゃんを見送り、人形を振り返る。
 改めて見ても怖い。
 短い物は肩、長い物は腰までの、正にざんばら髪。前髪と横と後ろの区別もつかない。
 右の手首の中は木材としか言い様の無い角材。
 捲れば、足も見える足首より内側は角材。
 目玉は動く様になって居るのか、半分上を向いており、口の部分はガバッと開いている。
「だいぶん古い子だねぇ」
 眼鏡ニイサンがソッと抱き上げた。
 多分、人形劇用の人形だろうねぇ。と布手袋をした手で丁寧に着物を脱がしながら言う。
 着物を脱がせば、完全に頭部分と手足の見える所意外、着物で隠れる部分は木を組んであるだけ。
「頭が外れるはずなんだけどなぁ」
 留め具の部分をいじり、やがてぽろりと頭が外れた。
 外れた頭を受け止め、羽箒で撫で、ふむと声を上げる。
 真新しい歯ブラシの封を開け、髪を梳かし、再度ふむと声を上げる。
「兄さん、あっちでやってよ。埃が舞うよ」
「うん、そうだねぇ。膠を用意しなきゃいけないし着物も仕立て直さなきゃねぇ……」

 聞いているのか聞いていないのか、人形と箱を持って奥の作業部屋へと向かい、
「ああ、僕の銅鑼焼き残しておいておくれねぇ」
 全く何だと言うのか……残してやるものですか……。
 つい先日帰国してから、飲食が出来る様になり、如何やら美味い不味いも理解出来るので、もう、遠慮無く、遠慮無く銅鑼焼きはわたくしが頂きますとも。
 何処へ消えるのかは何となく額の花だか星だかが関わっている気がしますけれども、気になんぞしませんとも。
 ええ、ええ、ええ、ええ。
 あの眼鏡は好きなだけ新しい人形にかまけていれば宜しいですとも。
 わたくしが美味しく美味しく美味しく銅鑼焼きを頂いてやりますとも。
 あの眼鏡なんぞに一個たりとも残してやりませんとも。

「よお、凄い臭いだな」
 人形が持ち込まれてから数日後、玄関を勝手に開け、禿頭の入道としか言い様の無い大男が入って来た。
 ネイサン青年がスプレーを撒き散らし乍「おじさん」と声を上げた。
 スプレーには業務用超強力消臭剤【 尿臭 便臭 死臭 腐敗臭 】と書かれている。
「どうしたんです、珍しい」
「否、行き付けの飲み屋の女の子にやった人形がこっちに持ち込まれたって聞いたもんで、遊びに来たんだわ」
 ……ほう……この大入道があの人形を。
 と言うか如何見ても仏門に居る身に見えますが、行き付けの飲み屋とは立派な破戒僧という訳なのですね、理解しました。
「なんじゃこりゃ。相変わらず変なモンが色々有るなぁ」
「兄さんのお気に入りですよ。名前はメイベルです」
 『私』を見下ろし、屈託無く笑う大入道。
「ヤギリン、こちらはうちの親戚の叔父さんで修行僧の桑門さん」
「ヤギゾウか成程、宜しく頼むな」
「……宜しくお願いします……」
 山羊なのか象なのかは兎も角、名前を訂正する気力が削がれる明るさである。
「相変わらず当主殿は引き篭もりか」
 誰の所為だと。
「持ち込まれた人形のリペアで夢中みたいです」
 眼鏡ニイサンはあれから数日、食事と寝る時意外奥の部屋に篭って居た。
 時折、届く宅配便を回収しては嬉しそうにして居る。
「手が掛かる物程楽しくて仕方無いみたいですよ」
「其れでこいつが拗ねてるのか」
 肩を竦めて言うネイサン青年に、桑門が豪快に笑う。

 近所からは幽霊屋敷と呼ばれる広い廃屋。
 元は庄屋の家であった、現在は雑草の生い茂った廃屋。
 其の……長い事放置された村の庄屋の納屋……。
 其の奥の一番奥。
 壁の中に有る隠し部屋の更に地下。
「おじいさん……おじいさん……」と可細い声がすると言う。
 誰も入れない筈の其の地下から御爺さんを呼ぶ声がすると言う。
 入り口には閂が掛けられ、他から入れる所なぞ無いと言うのに、確かに女の声がすると言う。
 若い様な、年老いた様な、幼子の様な、妖艶な様な、女の声がすると言う。
 ある日、お化けの正体を見てやろうと、十代の少年三人が忍び込んだ。
 悪戯盛りと言えば聞こえは良いが、近所でも持て余した悪童3人だ。
 閂は壊した。
 埃が酷く、懐中電灯で照らしながら奥へと進むが、木箱や行李や農具やらに阻まれて、思う様に進めない。
 やや有って、「……おじいさん……」と声が聞こえた。
 少年達は、話に聞いて知っては居たが、其れでも己を奮い立たせる為に「うおお」と大きな声を出した。
 女の声は尚も可細く「……おじいさん……」と続ける。
 少年達の声なぞ聞こえていない様に「……おじいさん……」と続ける。
 少年達は声の方へ声の方へと奥へ奥へ進む。
 そして、足元に入り口を見つけた。
 ただの木の板に取っ手が付いてあるだけの簡単な扉。
 何かの蓋が床に落ちている様にも見えた。
 其れを持ち上げると、地下への穴が有った。
 穴としか言いようが無い。
 人が一人、屈んで入れる程度の横穴。
 懐中電灯で照らして見れば、其の奥に何やら空間が有った。
 格子で仕切られた空間。
 地下牢と言うのか、座敷牢と言うのか。
 少年達はそれを表す言葉も意味も知らなかった。
 穴に入り、格子を押せば、果たしてその入り口は簡単に開いた。
 中には金糸で刺繍の入った赤い正絹の着物がくしゃりと落ちているだけに見えた。
 女の声が、聞こえなくなっていた事に気付いた一人が、気味が悪いと言い出すのに時間は掛からなかった。
 別の一人が帰ろうと言い出す。
 他の一人が、無言で着物を摘み上げた。
 ぼとり。
 何かが着物から落ちる。
 其れを見た少年の一人が叫び声を上げた。
 ……されこうべ……一人が呟く。
 着物の奥から、声が、聞こえた。
「……御爺さん……御爺さん……」

「お爺さんはどこたあああ!!!」
「キャアアアアアア!!!」
 ガバッと掴み掛かって来た桑門に思わず声が出た。
「ヤギリンを揶揄うのも其の辺にしておいてよ」
「あっはっはっはっ!! 良い反応だもんで、ついなぁ」
 興味無さそうにネイサン青年が言い、桑門が豪快に笑う。
「良いなぁ、此れ。俺に譲ってくれんかなぁ?」
「駄目ですよ。兄さんが泣きますよ」
「そりゃあ恐ろしいなぁ。あっはっは」
 無い心臓が口から出るかと思ったではないですか、全く、そんな子供騙しな嘘を……。
「嘘じゃないぞ? 少ーし盛っただけだ」
 にやりとしながら桑門が言う。

 少年達は走って逃げ帰り、その後、揃って高熱を出した。
 譫言で「祟られた」「呪われた」「骨が」と言うので呼び出されたのが拝み屋の桑門だった。
 見に行ってみれば成程、言う通りの場所に言う通りの地下への穴が蓋もせずに開け放して在る。
 身体の大きい桑門では入れない為、弟子に入らせ、着物と骸骨とその中に抱える様に抱いて居た人形を回収させた。

「其れがあの人形よ」
 少年達は揃って破傷風に掛かっており、発見と治療が早かった為、完治済みとの事。
「そうそう簡単に祟られたり呪われたりするもんか。先ず病院で見て貰えって親のケツを引っ叩いたわ」
 大きな掌を見せて、尻を叩く素振りを見せる。
「どれ、話も一段落したし、ちょっくら覗いて来るか」
 桑門が奥の部屋へと向かうと、直ぐに「うぐぁ」と声がして戻って来る。
 片手に眼鏡ニイサンを引き摺って。
「おや、桑門さんお久し振りです」
 居間迄引き摺られて初めて気付いた様子で眼鏡ニイサンが力無く笑った。
「良くあんな臭い所で平気で居られるな。脳味噌融けそうだぞ」
「あはは、相変わらずですね」
「アレはどうだ?」
「やっぱり桑門さんでしたか。何となくそんな気がしていました」
「直るか?」
「直るか如何かと言われれば、直りません。無理です。鯨の髭が手に入りませんし、あの人形と着物にはカビが生えていて、顔の部分に亀裂が入って無いのが不思議な位です。アレに浄瑠璃は出来ません」
「そっか。その辺は良くわからんが」
「なので、いっそ着物を仕立て直して、身体を作り変えようかと」
「成程な。任せるわ」
 桑門はあっけらかんと言い放ち、眼鏡ニイサンが片手に持っていた木彫りの何かを眺める。
「あ、駄目ですよ。素手厳禁です」
「へぇへぇ。んじゃま、こいつは借りて行くぞ」
 ひょいと摘み上げられ…………え?
「え?」
「……あ……」
 桑門が、「また近い内に来るから」と言い乍笑顔で玄関から出る。
 眼鏡ニイサンとネイサン青年が呆然と見送る中、『私』は大入道に拉致されていた。
 玄関前に停めてある黒光りする大きなオートバイの皮の荷物入れに無造作に放り込まれ、蓋を閉められる。
「サドルバッグから! 出たら! 危ないから! 大人しくしてろな!」
 でででっでででででっでででっでででっででででっでででででっと不規則な低音と振動に負けず劣らずの大声で桑門が言うが、否、そんな怖い事できません。この世紀末ランドセルみたいなのの中で大人しくして置きますとも。

 結構な振動と隙間風を堪能し、数十分後、取り出された時には、『私』は此の身が人形で良かったと心底自分の身体に感謝していた。
 此れ、人間なら間違いなく吐いてます。間違いなく。
「おおーい。ついたぞー?」
 わかっております。わかっておりますとも。ちょっと反応が出来ないだけでわかておりますとも。
「人形の癖に目を回してるのかぁ。本当に妙ちくりんな人形だなぁ」
 あっはっはと笑う声すら腹の立つ。
 連れ出された先は、山寺としか言い様の無い朽ち果てかけた、寺。
 竹林に囲まれ、入り口のみひっそりと存在するかの様な、寺。
 寺という看板すら出て居ない、廃屋とも思えない事も無い、寺。
「おっしょさーん。帰りましたよー」
 奥へと声を掛け、竹の隙間から引き戸を開け、中に入れば、唐突に巨大な御本尊が現れた。
 玄関らしき物なぞ無く、たたきからいきなり仏壇。桑門より大きな仏像が聳え立っている。
 外陣など無い、内陣のみの異様な造り。
 須弥壇は辛うじて有る物の他の飾りは一切無い、無骨な造りになっていた。
「おっしょさーん」
 再度、桑門が奥に向かって声を掛ける。
「おっしょさーん。可愛子ちゃん連れて来ましたよー」
 そう、桑門が奥へ声を掛けた瞬間、一陣の風が吹いた。
 風に煽られたかと思ったが、見知らぬ身体の小さな老僧に抱えられて居る。
 如何やったものか、一瞬で桑門の腕から掻っ攫われていた。
 豊かな眉の下に目が隠れ、髭は顔の半分どころか胸元まで隠し、髪は無い。
 赤い作務衣姿の老人。
「おっほー! これはかわゆいのお!!」
 両手で抱え上げられ、振り回される。
 ……い、今其れはマズイ……。
「何処で見つけた?」
「甥っ子の家ですよ」
「ほっほっほー。例の甥っ子かのぉ。中々の腕前をしておるのぉ」
 老僧が『私』を抱えたまま本尊と壁の隙間を通って奥へと入る。後からブーツを脱いで、桑門がやはり本尊と壁の隙間を通ってきた。
「ヤギゾウ、師匠は俺の爺さんが生まれた時から爺で年齢不詳の化け物だけど、人形に欲情する弩変態だ。気を付けろ」
「なんじゃい人聞きの悪い」
 気の付け様が無いのと取り合えず落ち着いて会話出来る迄回復する迄放置して置いて下さいませんかね……駄目ですかね……そうですか……。
「さてと」
 老僧は笑顔で……眉と髭で表情は良くわからないが……自分の前の座布団に『私』を座らせ、自分も座布団に座った。
 間には小さな折り畳みの卓がある。
 茶が二人分、人形で在る此の『私』を持て成すかの様に用意されていた。
「いらっしゃいませ」
 茶を運んできた、つるりとした頭とつるりとした顔の目鼻口の無い小坊主がどこからか声を出す。
 ……あれ、何ですか……妖怪の類ですか……?
「ありゃあ俺の弟子の狢で、名前はタヌキチだ」
 桑門の言葉に、名付けのセンスの無さは一族の証拠なのかと変に納得する。
 ていうか、狸って本当に化けるんですね。
「まま、茶でも飲んで御緩りとされてくだされ」
 勧められる儘、茶を頂く。
「飲食も出来るのかのぉ、何で出来て居るのかのぉ、中身を見てみたい物だのぉ」
 無邪気に老僧が言うが、何やら恐ろしい物を感じる。
「あんた、ヤギちゃんだったかの、あんたは付喪神かの? 怨霊かの? 悪い物ではなさそうじゃが」
 ……メイベルって名前が有ったり有ったりするんですけれどもね……。
「わたくしにも良くわかりません」
 理解らない物は判らない。ので、正直に答える。
「ふむ」
「気が付いたら動ける様に成っておりましたし、気が付いたら飲食出来る様に成っておりました。此の身が一介の取るに足りない人形だと云う事も自覚しておりますし、朽ちずに何やら妙な事に色々成って居るのは、主に此の桑門さんの甥っ子兄弟の所為だと思います」
 ええ、そうですとも。あの兄弟の所為ですとも。良く考えたら考えなくてもあの兄弟の所為で燃やされたしあんな事やらこんな事やらああそうだ此の額のがっつり刻まれた此の星だか花だか判らない模様も……。
「無粋な事を聞いたわ。すまんのぉ。歳を取ると気が利かなくてのぉ」
 おっほっほと笑い、茶菓子を持って来る様に奥に声を掛ける。
 恐らくタヌキチだろう「はぁい」と声が返って来る。
 ややあって、先程と同じ顔も毛も無い小坊主が小さな盆に乗せて何やら持って来た。
「こいつはポンイチロウだ」
 ……何匹居るんですかね?
「あと5匹程居て、さっきのと合わせて7匹だな。タヌキチ、タヌタロウ、タヌベエ、タヌエモン、ポンイチロウ、ポンジロウ、ポンサブロウ。此の三匹は兄弟だな。一番年上がタヌエモンで若いのがポン三兄弟」
 ……覚える気は全く有りませんが……何なのですか本当にその名前のセンス……
「ポン・デ・ローです」
 何やら狐色の焼き菓子が出される。突いて見れば中から半熟卵の様な液状の生地がじゅわりと溢れ出た。
 名前から何か嫌な予感がするんですが……肉的な物は入っては居ない様子ですね……。
「南蛮のお菓子じゃよ。まぁまぁ食べなされ」
 訝しがる姿に、老僧が言う。
「パォン・デ・ローと言うのが正式らしいが、ポン兄弟が作れば、ポンde郎じゃ」
 おっほっほっほっほと其れは其れは楽しそうに笑う。
 駄洒落ですかそうですか。
 ぱくりと一口放り込む。
 滅茶苦茶甘いのですが、砂糖で頭を殴られた様な甘さなのですが。
 茶で口の中を洗い流す。
 ああ、成程。此れは確かに茶菓子だ。茶と一緒で初めて成立する。様な気がする。
 あの浄瑠璃人形は、と話を逸らす様に桑門が話し始める。
 あの浄瑠璃人形は、浄瑠璃で実際に使われなかったお蔵入りの人形なのだと。
 人形師が死んだ後、何を如何したのか庄屋の家の娘の手に渡ったのだと。
 勝気で溌剌とした我儘放題な娘だったが、その人形が来てから奇異おかしく成ったと旦那寺だんなでらには文献が残って居た。
 次第に体力が低下し、其の内、「御爺さん」と呟くように成った。
 何か悪い物に取り憑かれて居るのだろうと、お払いや医者に掛かったが、一向に良くならない。
 それどころか、益々ぼんやりとし、「御爺さん御爺さん」と呟く事が増えた。
 気の病だろうと医者は言った。
 狐憑きだと祈祷師は言った。
 多額の金を払って、遠方から高名な僧も呼んだが、無駄に終わった。
 俯き加減で「……御爺さん御爺さん……」と呟くだけになった娘を、庄屋は幽閉した。
 地下牢に。座敷牢に。
 表向き病気で臥せって居る事にし、自らの目の届かぬ所に押し込んだ。
 恐らくは、やがて、其の声が聞こえ無くなるまで。聞こえ無くなっても。その儘。
「で、まぁ、そんな曰く憑きの人形が、見た目完全に女の子な人間に渡ったら如何なるかなと酔った勢いで持って行ったんだがな。あっはっは」
「何があっはっはじゃ。未だ儂とてちゃんと愛でて無かった物を」
 此れは怒られろである。
 もしゃもしゃとポンde郎と茶を交互に口に運びつつ、『私』は心の中で呟いた。
「まぁ、うちの甥っ子に渡る事は想定内です、想定内」
 桑門が、明るく老僧に言うが……疑わしい限りである……。
 もしゃもしゃと、最後の一切れを茶で流し込み、一息吐いた。
「ほっほっ。甘くて美味かろう」
 外から見ただけでは判らぬ奥の部屋から野箆のっぺら小坊主がちょろちょろと出て来る。
 見れば先程の2匹よりやや小振りだ。
「えんろほーしえんろほーし。なにですそのへんなのポン」
「ヤギちゃんと言う。桑門の甥子の人形じゃの」
 ……ポン……?
 慌てて先程の野箆のっぺら小坊主が出て来て小さい方を回収する。
「すみません、円顱方趾えんろほうし。こら、ポンサブロウ、いけない。お客様だよ」
「ちゃんとポンてつけたポン」
「そう云う事じゃあ無いよ」
「嗚於、ポンサブロウ偉いなー。俺の言った事守ってるな」
 桑門が小さい方の顔面を片手で掴むと同時に尻尾が飛び出る。
 全く何をさせているのやら……。
「……えんろほうし……」
 口の中で其の名を転がす。
円顱えんろで良いぞ」
 ほっほっほと笑う。
「ヤギちゃんみたいな可愛子ちゃんを見ていれば解かる。お鈴が桑門の甥子に渡って良かったかも知れん。其れはもう帰って来るのが楽しみになったわい」
 さぞかし別嬪べっぴんに成って帰って来るじゃろうてと、嬉しそうに言った。
 此れから円顱方趾えんろほうしと桑門で件の庄屋の家を見に行き、ついでに少年達の見舞いに出掛けると言う。
 一緒に行くかと誘われた物の、又あの世紀末ランドセルかと思うと、遠慮した。
 二人が出掛けて直ぐ、ひょっこりと恐らくさっきのポンサブロウだろう小振りな野箆のっぺら小坊主が顔を覗かせる。
 其の後ろに、ひょいひょいひょいと他の野箆のっぺら小坊主共が顔を覗かせ、最後にやや大きめの野箆のっぺら小坊主が、他の小坊主達の頭をぺしぺしと軽く叩き、お茶の御代わりを持って来た。

「どうぞ」
「……ありがとうございます……。ええと、何故、野箆坊のっぺらぼうなのです?」
「私達はむじな、アナグマでございます。狢と言えば野箆坊のっぺらぼうと昔から決まっておりますので」
「……はぁ……そう云う物ですか……」
 茶を啜る。
 アナグマにタヌだのポンだの付けているのか、あの怪僧共は。
「名前は相手に自分の本性を知らしめる物。敢えて暈す事に寄って……寄って……」
「化かす相手に正体を悟られない様に用心?」
「用心? 信心がなんとかとか」
「とかとかポン」
「何かそんなの」
 口篭った茶を運んで来た野箆のっぺら小坊主の左右から、好き勝手に口を挟む。
「ちなみに狸はポン兄弟だけです」
「親が車に轢かれて途方に暮れていた所に通り掛って拾ってくれました」
「命の恩人です」
「神様みたいな物ですポン」
「何故かポンサブロウだけ語尾にポンを付ける様に言われてます」
 何故だ。
 綺麗なの見せてあげると言って、一匹の小坊主が手を取って引っ張る。
 見せてあげる見せてあげると他のも囃し立て、一番大きな小坊主……恐らくタヌエモンだろう……が溜息を吐いた。
 引っ張られ囃し立てられる儘に連れて行かれたのは、幾つか襖を過ぎた奥の部屋だった。
 八畳から十二畳程度の部屋を十は過ぎた気がする。
 先の其の部屋に、大衣桁に掛けられて、赤い着物が存在していた。
 地の赤に金の刺繍の、あの人形と同じ、共布だろう振袖。
 恐らく既に専門の業者に寄って綺麗に洗われた後だろう。
 人形を抱えて居た骨が着ていた着物。
「すみませんね、娘が我儘言うもんで連れて来ましてね」
 掠れた男の声が聞こえた気がした。
「ええ、きちんと査定して引き取らせて頂きましょう。葬式代位になれば良いでしょうけどねぇ」
「あたし、此れを貰うわね」
 伽羅伽羅と可愛らしい勝気そうな声がする。
「なんだい、そんな芝居人形なんかよりちゃんとした市松でも何でも買ってやってるじゃないか」
「嫌よ。そんなのみんな持ってるわ。つまんない。此れが良いわ」 
「何でしょうねぇ、年頃ってやつでしょうかねぇ」
 我儘な娘に砂糖の様に甘い父親の。
「あたしが、此れで良いって言っているのよ」
「わかったわかったよ」
「お揃いの着物を仕立てさせて櫛もお揃いにして」
「後で呉服屋と小間物屋を呼ぼうかねぇ」
 父親の声に娘の声が被さる。
「ねぇ、お前の名前は何にしよう。おたき、女中達の名前を教えて」
「なんです薮から棒に。おみつ、おりつ、おうめ、おまつ、おはな、おなつ」
「どれもパッとしないわねぇ」
「辞めてくださいよ、人形なんかと同じ名前にされちゃ、たまりゃしない。其れより此の間貰った子猫はどうするんです? 猫に鈴をつけなきゃ」
「猫の鈴? そんなの知らないわ。そうだ、おすずにしよう!」
 ちりり、と小さな鈴の音が、した。
「お前の名前は、おすずよ」

 子猫を欲しいと強請ったのはつい三日ほど前だ。
 おりんは、乳母やのおたきの知り合いの子猫の話を聞き、自分で面倒を見ると父と母に約束して貰って来て貰った。
 大店の小間物屋の娘がそれは可愛らしい子猫を手に入れたと自慢していたのを羨ましくも腹立たしく思っていた所に、丁度良く子猫の話が降って沸いた。
 しかし、子猫はおりんが思っていたより懐かず、おりんから逃げ回り、女中達に追い回させたものだから床下に潜り込んで出て来なくなってしまった。
 思い通りにならない物なぞ要らぬと、腹を立てて居た所に、長屋の人間が死んだので荷を買い取って欲しいと頭の薄い大家が言って来た。
 既に髷を結うのが哀しい位の量の半白髪の大家は、いつも父にぺこぺこしているので嫌いだ。
 それに気を良くしている父もあまり好きでは無い。
 やはり、人気の花形役者の姿絵の様な男が良い。
 一度、会わせて貰う手筈だが、未だ果たされぬ約束を思い出し、頬を膨らませる。
 忙しいのだとか御偉いさんとの約束が入っているのだとか、のらりくらりと翻されているのは子供扱いされている様で腹が立つ。
 来月にはもう十に成ると言うのに。
 十に成ればもう立派な大人だろうと言えば、おたきは笑うし父と母は困った顔をする。
「お嫁に行くのはもう少し待っておくれ」と言うが、自分が美しい部類に入るのは良く良く理解っている。
 狒々爺なぞでは無く、どうせなら役者絵の様な美男子と心中物や駆け落ち物の様な芝居の様な恋をしたい。
 そんな事を思いつつ、市松と芝居の真似事をしていると、件の大家の「長屋の死んだ人間」と言うのは浄瑠璃人形を造る人形師であると、おりんの耳に飛び込んで来た。
 そんな人形ならあの大店の小間物屋の娘も持って無いだろう。
 市松は人気が有り過ぎて、持っていなければ恥ずかしい程にみんなが持っている。
「お父様、あたしも一緒に行く」
 言い出したら聞かないのが、おりんの良い所で、悪い所だった。
 襤褸家。そう口に出すと、父が軽く嗜めて来たが、聞こえない振りをした。
「葬式代位は……」
 何やら大家と父が話しているけれど、襤褸家は襤褸家だ。
 案内された長屋の一室は、狭く、納屋の様で、こんな所に人が住めるのかと本気で疑った。
 作業をする所だと思ったのだもの。
 行李を開ければ雑巾の様な着物しか入って無いし、木箱には変な形の刃物が何種類か入ってるだけ。
 何にも無いのね。
 そう呟いてふと、長持が布団の下に有るのに気付く。
 布団を避けて開けて見れば中に人形が寝かされて居た。
 緑なす黒髪、輝く様な白い肌、涼やかな目元、御樗蒲口おちょぼぐち、幼さの残る眉。
 おりんは、息を呑んだ。
 身体は申し訳程度に材木を組んで有るだけだと言うのに、そのかしらは完璧だった。
「あたし、此れを貰うわね」
「なんだいそんなの……」
 抱き上げて言うと父が文句を言って来たが、聞く耳なぞ持たない。
「お前の名前は、おすずよ」
 呉服屋を呼び、おすずに御揃いの赤い振袖を作らせた。
 大店の小間物屋を呼び付け、人形と御揃いの流行の赤い玉簪を付けて見せた。
 小間物屋の娘は羨ましがっていたけれど、こんな珍しい人形、中々手に入る物でも無いでしょうね。
 子猫より珍しいし、子猫より思い通りに着せ替えも出来るし、子猫より全然優越感が有る。
 子猫は偶に何処かから鈴の音と鳴き声が聞こえるけれど、相変わらず姿を見せないし、特に興味も無い。
 おたきか誰かが猫に鈴を付けて餌をやってるんだと思う。
「…御爺さん…御爺さん…」
 誰かが夜中に、御爺さんを呼んでいる声がしたの。
「……御爺さん…御爺さん……」
 誰かの寝言だと思ったの。
「……御爺さん御爺さん……」
 でも、部屋には、あたし一人で。
「……御爺さん御爺さん……」
 其の声が、自分の口から出てると気付いた時には、もう、叫ぶ事も出来なくなっていたの。
「御爺さん御爺さん」
 勝手に口から出て来る言葉。
「御爺さん御爺さん」
 夢の中の様に身体が動かせない。
「御爺さん御爺さん」
 違うの、こんな事言いたくないのに。
「御爺さん御爺さん」
 もっとしたい事あるのに。
「御爺さん御爺さん」
 お父様! お母様! おたき!
「御爺さん御爺さん」
 助けて! 何で! こんな! 助けて!!
「御爺さん御爺さん」
 旦那寺の和尚さんがお経を上げたけれど。
「御爺さん御爺さん」
 山の神社の神主さんが祈祷を上げたけれど。
「御爺さん御爺さん」
 払い屋に塩を掛けられたけれど。
「御爺さん御爺さん」
 占い師が壷を置いて行ったけれど。
「御爺さん御爺さん」
 猫が鈴を鳴らしながら寄ってきたけれど。
「御爺さん御爺さん」
 お母様が泣き乍縋って来たけれど。
「御爺さん御爺さん」
 おたきが泣いて髪を梳いてくれたけれど。
「御爺さん御爺さん」
 お父様が顔を見て溜息を吐いて行ってしまったけれど。
「御爺さん御爺さん」
 もう
「御爺さん御爺さん」
 どうしようもなくて
「御爺さん御爺さん」
 やがて
「御爺さん御爺さん」
 納屋の奥の
「御爺さん御爺さん」
 格子の中に
「御爺さん御爺さん」
 閉じ込められた。

「其処迄!」
 パンと軽い音がして、気が付けば円顱方趾えんろほうしと桑門が目の前に膝を付いて居た。
「おお、ヤギちゃんや、気が付いたかの」
 拍手を打った円顱方趾えんろほうしが、其の手で頭を撫でて来る。
「うちの弟子共がすまなかったな。帰って来たらタヌポン共が慌てふためいてるから驚いた」
 桑門が両手にもふもふした物をぶら下げて見せる。
 良く見れば片手に3匹か4匹かずつ尻尾をまとめて持たれたアナグマだか狸だかだろう、可哀想なので放してやって欲しいものだ。
「此の着物は庄屋の娘の無念やら何やら心が残って居ってのぅ」
「燃やしちまえば良いんだろうが、お七みたいにならんとも限らねぇからな」
「成るべく心安らかに眠って欲しいんじゃよ」
 此処でゆっくり時間を過ごして少しずつ成仏して逝く様に安置しているのだと言う。
 確かに炎が付いた端切れが風に煽られ大火事に発展したら目も当てられない。
 尚且つ此処は山の中。山火事なんぞになったら消火に何日掛かる事やら。
 其れが妖しの火なら尚更。
 見た物、聞いた物を教えて欲しいと、円顱方趾えんろほうしは言った。
 老僧程に成れば知っていそうな物だが、どんなに修行を積んでも得を積んでも、他人の心の中迄は読めぬと、推測しか出来ぬと、寂しげに笑った。
 見た儘聞いた儘を円顱方趾えんろほうしと桑門に語る。
 其れは事前に聞いていた勝気で溌剌とした我儘放題な娘が、奇異おかしく成り「御爺さん」と呟くように成って座敷牢に入れられた、其の話と全く違わないのだが。
 それでも、円顱方趾えんろほうしは頷き乍大人しく聞いて居た。
 話し終えると、墓参りに行こうと立ち上がる。
 部屋を出て直ぐ左手の庭に面した縁側を通り、桑門が裏口の戸を開けると、其処には墓地が広がっていた。
「こいつは迷い家での、何処にでも在るし何処にも無いのじゃ。便利で困るわい」
 ほっほと円顱方趾えんろほうしが言う。
 裏口から出て振り返れば、其処には如何見ても別の寺が建っている。
 正面玄関側にぐるりと回ればやはり別の、普通の寺で在る。
 勝手知ったるとばかりに円顱方趾えんろほうしが玄関を開ける。
緇衣しえ和尚は居るかの」
「はぁい」
 奥から若い女性の声がする。
「あら、円顱法師えんろほうし
 パタパタとスリッパの音を響かせて出て来たのは、エプロンを付けた極普通の若い女性だった。
「いらっしゃいませ。どうぞ上がって下さい」
 2人分のスリッパを出し、笑顔で招き入れる。
「良い良い。今日は墓参りに来たんじゃよ」
「そうですか? お父さん、円顱法師えんろほうしがいらっしゃいましたよ」
「おや、珍しい」
 玄関すぐ横の襖を開け、禿頭の目の白濁した老僧が顔を出した。
「直ぐに出て来んか。理解っとったくせに」
「其いじゃ詰まらんじゃろうが。おんし、面白いもん連れて来おって」
 緇衣しえ和尚は身軽な動きで長丹前ながたんぜんを羽織って出て来ると、伽羅伽羅と禿爺二人でじゃれ合う。
「お久し振りです、緇衣しえ和尚」
「なんじゃい。おんしも居ったのか、桑門」
 恐らく見えていないのだろう白濁した目を其方へ向ける。
「相変わらずおんしらは獣臭いのぉ。おお臭い臭い。この獣臭で大事な物が誤魔化されそうじゃい」
「相変わらず、緇衣しえ和尚も口の悪い爺ですね」
緇衣しえの口が上品に成ってたら其ん時にはもう死んどるわな」
 何とも楽しそうである。
「墓参りとか抜かしおったな。何を連れて来た? 水子か。否、違う? 男? 怨霊? ごちゃごちゃしとるのぉ。本当に何じゃ、此れ?」
 何じゃ此れって何じゃ。
 顔を此方に近付けて、顔を顰め、良く見えないとでも言う様にその白濁した目で覗き込んで来る。
「ヤギちゃんはなー、可愛子ちゃんじゃよ。良い子なんじゃよ」
「人形か、此の妙なの」
 ……随分な御挨拶ですね……。
「喋ったぞ! 喋りおったぞ!!」
「可愛ゆかろ! 茶も嗜むのじゃぞ!」
「何じゃ此れ! 此れ譲ってくれ!!」
「俺の甥っ子のだから駄目です」
 子供の様にはしゃぐ老僧二人に、嗜める様に桑門が言う。
「つまらんのぉ」
「本当に我が弟子乍つまらん男よのぉ」
「良いから。墓に行きますよ、おっしょさん。和尚、案内頼みます」
 ひょいと円顱方趾えんろほうしを摘み上げると、緇衣しえ和尚を急き立てた。
 寺の裏手、最初に出た墓地へと回る。
 本当は見えて居るのでは無いかと思う程のしっかりとした慣れた足取りで、墓と墓の間を進む。
「此れじゃ」
 そう言って手で古い卒塔婆を叩く。
 後ろには大きな石が転がっており、墓地の終点を示すかの様だ。
「あの時代のあの長屋の者は大抵此処に眠っとる」
 特に身寄りの無い者はと付け加える。
 長屋の大家が、墓の無い住民に死後も住居を提供しているので、過去帳にも名前が全員乗って居る。
 土葬の時代から火葬になった時に、骨のみになった人間を骨壷に移して埋め直したと。
 良く見れば、卒塔婆の付け根部分に蝶番の様な物が見える。
 音を立てて卒塔婆を動かせば、重厚な金属音と何やら機械音が聞こえた。
 地響きを立てて、卒塔婆の後ろの石が縦に割れた。
 中に下へと降りる階段が現れる。
「フェイクじゃ」
 緇衣しえ和尚が、にやりと笑う。
 緇衣しえ和尚に導かれる儘、地下に降りれば、中はコンクリートで出来た部屋になっており、ずらりと並んだ棚には骨壷がやはりずらりと並んでいた。
 何と言うか、何と言うか、仕掛けと言い中身と言い、悪の秘密組織の様ですが……。
「面白いじゃろう。ただ掘り返すのじゃつまらんけぇ」
 緇衣しえ和尚と円顱方趾えんろほうしが子供の様に笑った。
「おお、有った有った。こいつじゃこいつ」
「じゃあすまんのぉ、借りて行くぞ」
「駄目に決まっとるじゃろうが」
 そう言って伸ばす円顱方趾えんろほうしの手を緇衣しえ和尚がペシリと叩く。
「うちは寺じゃ。遺骨レンタルはしとらんのじゃわい」
「そう言うな。うら若い少年達の命が掛かっとるんじゃ」
「儂が人で無しみたいに思われるじゃろうが。辞めんかい」
 うら若い? うちの眼鏡ニイサンとネイサン青年の事なら、少年と言うにはやや年嵩な気がしますが。
「呪いを掛けられたか? 祟られたか? その両方か?」
 ふむりと口の中で小さく言うと、緇衣しえ和尚が言う。
「うちの本殿を使え」
「ほっほ、悪いのぉ」
「流石、爺共は話が早くて助かる」
「寺から持ち出すつもりじゃったろうが。持ち出されでもしたらうちの看板に関わるけぇの」
 何やら何かをしようとする事しか解らず、ついでに言うなら此処に居る意味も解らず。
 目当てらしい骨壷を持って石室から出ると、卒塔婆を逆に倒し、再び岩が閉まる。
 単純な作りに成って居るらしく、卒塔婆を倒す速度に開閉の速度が比例している。
 ……まぁ、こう云うの、造りたくなるのも解らないでは無いですがね。無いですがね。
 無いですが、不謹慎とか檀家の反対とか無かったんですかね?
 てか、誰か止める人は居なかったのですかね?
 招かれる儘だだっ広い本殿へと案内される。
「儂は経を上げるけぇ、おんしらは好きなようにせぇ」
 綺麗に磨き上げられた木目に照りが出て居る御本尊の前にどっかりと座り込みと、やおら、朗々と経を読み始める緇衣しえ和尚。
 骨壷は今は円顱方趾えんろほうしの手の中に有った。
 桑門と向かい合い、身体で隠すかの様に、膝を開き、覆い被さる。
 その桑門の膝の上にはわたくしが居るもので……。
 自ずと一緒になって骨壷を覗き込む様な形に成った。
 円顱方趾えんろほうしが口の中で経を唱える。緇衣しえ和尚と同じ経を。
 円顱方趾えんろほうしの手が骨壷の蓋に掛かり、開けた。

「駄目だ駄目だ駄目だ!」
 男の声がする。
「駄目だ駄目だ、こんなの……駄目だ……作れ無く成っちまった」
「あんたの作るかしらは評判が良いんだよ。あんたの作る女形かしらは丸で自分で動いてるかの様に艶めかしいって」
「……駄目だ……駄目なんだ……」
 何かを投げ捨てた様な音。
「やっぱり駄目だ」
 ひそひそと囁く声がする。
「娘を亡くしてから仕事に手が付かないらしいよ」
「部屋中造り掛けのかしらばっかり転がってて気持ち悪いったら」
「いくら人気の人形師っつったってねぇ」
「また酒に逃げてるよ」
「……さん、あんた、いい加減ツケ払っとくれよ。うちの酒代以外にもツケ溜めてるんだろう?」
「無ぇよ、金なんざ」
「馬鹿をお言いで無いよ! そこいらに転がってる人形の頭を仕上げて売りゃ良いじゃないか!」
「こいつは、駄目だ。おすヾに似過ぎてやがる」
「おすヾちゃんが亡くなってからもう何年経つと思ってんだい! 何時までもおすヾちゃんに甘えてんじゃないよ!」
「兎に角、駄目なんだ。デコを造ると、どうしてもおすヾに似ちまう」
「ああもう、若男でも何でも造って金を作りゃいいだろ!」
「……立役か……そうだな……」

「あんたの作るかしらは何処か物憂げで喋り出しそうだって評判だよ。女共がきゃーきゃー言いやがる」
「……そうかい……」
「人が変わったみたいに立役ばっかり作る様になって如何云う風の吹き回しかと思ったが、宗旨替えも悪かねぇなぁ。最近人気の土蜘蛛なんかも造ってみねぇか?」
「……ああ……気が向いたらな……」
「なんでぇ、つれねぇ。何十年前だかのあんたの女子役、久々にこの間見たけど、やっぱ女形造らねぇの勿体無ぇと思うけどな」

「……おすヾ……今なら……」
 今なら、心穏やかに娘の成仏を願って女形のデコを造れる気がする。
 たった三つで幼くして亡くした娘。
 おすヾを産んだ母親は産後の肥立ちが悪くて寝たきりになって直ぐに儚くなった。
 悲しむ間も無く男手一つでおすヾを育てた。
 泣き声が弱弱しく子猫の様だったから「おねこ」と付けようとしたら、とこの中から恋女房が不満の声を上げた。
「おねこ」は人の名前じゃない。せめて、猫の鈴の方にしてやってくれと。
 だから「おすヾ」と付けた。
 恋女房は日に日に衰え、何時の間にか眠る様に息を引き取っていた。
 空しさとか哀しさとか、感じる暇をおすヾは与えてくれなかった。
 人形師としての仕事も軌道に乗って来た。
 自分の造った人形のかしらが、文楽で使われ、人気が出始めていた。
 目が回るような毎日の中、気付けばおすヾは数えで三つになっていた。
 無事に三つを迎えられた事を神社に感謝しに行かなければと思った矢先、流行病で呆気無く散った。
 何も手に付かない、何も出来ない、何も感じない日々が続いた。
 気が付けば、朝が来て、夜になり、また朝が来た。
 眠気も空腹も感じ無かった。
 長屋の住人が差し入れをしてくれるが、どうもこうも、口が受け付けなかった。
 すっ飛んで来た兄弟子は泣いて泣いて抱き付いて来たし、師匠は頷くだけだった。
 やや有って、腹が減ったのを思い出したので、長屋の住民の差し入れてくれた握り飯を喰った。
 味はしなかった。けど、温かかった。
 腹が膨れたら、涙が出た。
 現金なものだ。
 泣いて泣いて涙が枯れたら、人形を造る事にした。
 他に俺に何が出来るって云うのか。
 何も出来やしない。
 なのに。
 造り始めたデコが、おすヾにしか見えない。
 手が止まる。玄翁を取り落とす。
 どうしようも無くて、酒を煽った。
 何度も何度も造ろうとした。
 だけど、其の度に、おすヾにしか見えなくなった。
 其の度に手が止まった。
 其の度に酒を煽った。
 如何したら、忘れられると言うのか。
 如何したら、忘れずに済むと言うのか。
 如何したら……其れでも生きろと言えるのか……。

 おすヾが亡くなってから十五の年月が過ぎていた。
 二十一だった自分も、三十六になり、孫が居てもおかしくない年齢になっていた。
 若い頃とは違い、男のかしらばかり造って、なんとか糊口を凌いでいた。
 今なら、心穏やかに小女のかしらを造れる気がする。
 おすヾに似たら、似ちまったら、其れは其れで。其れでも最後まで仕上げよう。
 そう決心する。
 端材を求めて材木問屋へ行った。良い木を探す。中に人形の顔が見える木を。
 職人は造るのでは無く、元々埋まって居る物を掘り出すだけの作業。
 自分の好きな顔に彫るのでは無く、元々居わすその存在を誰にでも見える形にするだけの作業。
 やがて、一つの材木を、手に入れた。
 良い檜が手に入った。木曽の檜と言うが眉唾物だろう。しかし本当に良い檜が手に入った。
 こんなに良い木ならさぞ高かろうと思ったが、曰く付らしく随分と負けてくれた。
 但し、どんな祟りが有っても自分は関与せぬと材木問屋は言う。
 此れが手放せるなら寧ろと土産まで付けてくれた。
 ある意味持参金だと酒と米と塩まで持たせた。
 返品だけはしてくれるなと、重ねて言う。
 まるで材木の嫁入りじゃねぇかと笑ったが、材木問屋の面々は面白くも無かったのだろう、引き攣った笑いを浮かべただけだった。
 しかし、本当に良い木が手に入った。
 材木の中に彫り出すべき顔が見える。
 この通りに削り出し掘り出し彫れば良い。
 それは間違い無く、自分の作品の中でも一番の器量良しであるに違い無かった。

「おめぇはよぉ、俺の作った中じゃいっちゃんの器量良しだ」
「御爺さん御爺さん、如何してそんなに笑ってるの?」
「それだってのに、ちぃとの間も黙っちゃいられねぇ。もったいねぇなぁ」
「御爺さん御爺さん、如何してそんなに泣いているの?」
「いっちゃんの花形になれるってぇのによぉ。そしたら、みんながおめぇを見にやって来るんでぇ」
「御爺さん御爺さん、如何して笑っても泣いても怖い顔なの?」
「……まぁ……、こうやって相手をしてくれるのもおめぇくれぇのもんだけどな」
「御爺さん御爺さん」
「なんだってまぁ、ほんとうによぉ」
「御爺さん御爺さん」
「なんだって喋るようになっちまったかなぁ?」
 彫り上がったかしらは、おすヾに似ていた。似過ぎて居た。
 でも、未だ其の時には普通の人形のかしらだった。
 髪結いに出し、坊主頭じゃ無くなって戻って来た其の晩、かしらは口を開いて声を出した。
「御爺さん」と。
 造る時に、木を削りながら「孫が居ても可笑しくない歳」だの「おすヾが生きてりゃ娘婿と孫娘が居て」だの「俺の作った人形は俺の子供同然」だの語り掛けていたのが悪かったのかと反省する。
 其れとも、此れが材木屋の言った“曰く”だろうか?
 だとしたら何と賑やかしい“曰く”だろうか。
 だが、哀しいかな。
 此れでは売れぬ。人前に出せぬ。
「御爺さん御爺さん、如何してそんなに怖い顔なの?」
「ったく。おめぇがそんなんだからだろうよ」
 身体が必要だなと独りごちた。

「見込み違いかのぉ」
 円顱方趾えんろほうしの声に夢から覚めた気がして、『私』は顔を上げた。
 否、夢から覚めたのだろう。何時の間にか緇衣しえ和尚の経も終わり、骨壷に蓋がされる所だった。
「その、うら若い少年と言うのは?」
 手を上げて聞く自分に、桑門が肩を竦める。
「ほら、話したろう? 庄屋のとこに潜り込んだ悪餓鬼三人。今日見舞いに行って来たんだがな」
 ……破傷風と言ってらっしゃいませんでしたかね……?
「破傷風も、だな。いやぁ、あの三人、三人共ががっつり呪われてやがった。あっはっは」
 それ笑い事なんですか?
「師匠と経を上げても清めてもびくともし無ぇもんだから、此れは怨念絡みかと思ったんだが、庄屋の娘のもんはそうでも無いし、死後に人形を盗られて怒った人形師の方かと思ったんだがなぁ」
 困ったなぁと言う桑門に頷く円顱方趾えんろほうし緇衣しえ和尚がにやりと笑う。
「歳じゃな、円顱えんろ
「人如きの怨霊に遅れを取る様な無様な真似はせんよ」
 骨壷を再度、あの石室へ戻し、「何か有れば、何も無くても又遊びに来い。茶と茶菓子くらい用意させる」と緇衣しえ和尚が言う。
 見送りを断り、「次はおぬしが来る番じゃ」と円顱方趾えんろほうしが笑って手を振った。
 桑門と一緒に頭を下げ、来た場所を戻る。

「お帰りなさいませ」
 裏口から入ると小坊主のタヌだかポンだかが出迎えた。
 襖を開けると最初に通された部屋へと出る。
 一体この寺は如何云う造りに成って居るのか、あの着物の有る部屋迄のあの部屋数は何だったのか。
 桑門は家屋敷が生きて在ると言っては居なかったか?
 円顱方趾えんろほうしの言う迷い家とは其れ自体が妖怪の様な物では無かっただろうか。
 考えるだけ無駄な気もしないでも無い。
「解らぬのぉ、疲れたのぉ」
「さて、暗くなっちまったな。送るか」
 畳みに転がり、じたばたとする円顱方趾えんろほうしを見下ろし、桑門が玄関へと向かう。
 御本尊の横の隙間を通り、再度、世紀末ランドセルへと放り込まれた。
「おっしょさん!?」
「儂も行くぞ」
 何時の間にやらオートバイ後部に座る円顱方趾えんろほうし
 落っこちないで下さいねと言ってエンジンを掛け、我が家まで再度数十分、振動と隙間風を堪能する。
 ええ、大丈夫ですよ。大丈夫ですとも。
 ちっとも馴れやしませんとも。
 懐かしの我が家の前に停め、片手に『私』を持って桑門が我が家の玄関を開ける。すぐ後ろを
 円顱方趾えんろほうしが付いて入る。

「あ、おじさん、危ない」
 ネイサン青年の声がのんびりと飛んだ。

 ブーツを脱いで居た桑門が、咄嗟に飛んで来た何かに手近な物を投げ付けた。
 『 私 』 を 。
 投げられ、何かにぶつかって、落ちる。
 と言うかですよ、此の身が人形だから未だ良かったような物の、此れ、人の身なら吐いてます。人の子なら吐いてますけど。人間だったら吐いてますけれども。人形の『私』でも吐きそうですけれども。
 一寸、人道にも仏道にも反して居るのでは無いですかね?
「当たり、じゃの」
「その様ですね」
 円顱方趾えんろほうしがほっほと笑った。
 桑門が同意する。
「ごっめーん、おじさん。“ソイツ”突然暴れ出してさぁ」
 ネイサン青年が駆け寄って来る。
 ネイサン青年の向こうに、眼鏡ニイサンが大の字で転がって居る。
「其方の兄の方は如何したのじゃ?」
「ああ、ただの寝不足でぶっ倒れただけ。何時もの事だから気にしないで。円顱えんろ爺ちゃん、久し振り」
 事も無げにネイサン青年が言う。
 衝撃から立ち直って身体を起こすと視界に、関節が逆に曲がった儘四つん這いで立つあの浄瑠璃人形が、居た。
 腹と顎を天井に向け、頭と背を床に向け、ぎょろぎょろと目玉を動かし、口を開く。
「……御爺さん……」
 人形が、四足動物の様に、手を一歩前に出す。カコッと音を立てて、首がゆっくり傾く。
 ちりり、と小さな鈴の音が、した。
 カッカッカコッカギッガギッゲガッゴゴッガガッガギッと音を立てて浄瑠璃人形の首が半回転し、正面から、此方を見た。
 がっちりと目が合う。
「……御爺さん……」
 誰が爺か! この可愛い良い子のお友達な人形に向かって爺とは何事か!
 と、文句を言いたい気持は十二分に有ったのですけれども。一寸……怖くて。言えない。
 きゃひょん、と音を立てて浄瑠璃人形の足が一歩前に出る。
 絶対何処か壊れている音じゃないですか此れ。
「……御爺さん……」
 きゃひょん、と音を立ててもう片方の足も前に出る。
 これは。
 危険だと判断する前に、浄瑠璃人形が跳躍した。
 成す術も無く体当たりを喰らい、押し倒される。
 床に叩きつけられ……
「御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん……」
 ごりごりと頬を頬に擦り付けられた。
「御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん……」
 ドスドスと顔面に頭突きを喰らう。
「御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん……」
 頬をガブガブ食まれる。
「御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん……」
 食まれていた頬をペッと吐き出し、鼻に鼻を擦り付ける。
「何を……!」
「御爺にゃああああああ」
 顔面を掴み、引き剥がそうとすると、浄瑠璃人形が一声、鳴いた。

 御爺さん御爺さん
「おめぇはよぉ、俺の作った中じゃいっちゃんの器量良しだ」
 御爺さん御爺さん
「それだってのに、ちぃとの間も黙っちゃいられねぇ」
 如何してそんなに笑ってるの?
「もったいねぇなぁ」
 御爺さん御爺さん
「いっちゃんの花形になれるってぇのによぉ」
 如何してそんなに泣いているの?
「そしたら、みんながおめぇを見にやって来るんでぇ」
 御爺さん御爺さん
「ちっちぇえ童から小面までおめえなら、おめぇくらいの器量良しのデコならよぉ」
 如何して笑っても泣いても怖い顔なの?
「……まぁ……、こうやって相手をしてくれるのもおめぇくれぇのもんだけどな」
 御爺さん御爺さん
「なんだってまぁ、ほんとうによぉ」
 御爺さん御爺さん
「なんだって喋るようになっちまったかなぁ?」
 如何して私を人形にしたの?
 御爺さん御爺さん
 如何して私を人間にしてくれなかったの?
 御爺さん御爺さん
 御爺さん御爺さん
 私
 御爺さんの子供になりたい
 御爺さんの子供になりたいのよ
 御爺さん御爺さん
 御爺さん御爺さん
 ねぇ
 私
 人間になって
 御爺さんの子供になりたいの
 だから
 起きて
 ねぇ
 起きて
 ねぇ
 ねぇ
 御爺さん御爺さん
 何処に居るの?
 御爺さん御爺さん
 ねぇ 何処に居るの?
 御爺さん御爺さん
 私
 人間になったのよ
 御爺さん御爺さん
 ねぇ
 会いたいのよ
 御爺さんに会いたいの

 私

 人間になったのよ



 何年も何十年も山から村を見下ろしていた。
「神様神様、おはようございます」
 人間は優しくて
「神様神様、今日もありがとーござんした」
 人間は温かくて
「神様神様、今日も村を見守ってくださいまし」
 人間は私に手を合わせ
「神様神様、明日もおねげぇしますだ」
 人間は私に報告をし
「神様神様、あの人をきなしにいぼつらせてまった。謝るから助けてくんろ」
 人間は私に助けを求め
「神様神様、子供産まれたずら。見てやってくんろ」
 人間は私に子を見せに来
「神様ちょっくら根っこ貸しておくんなまし」
 人間は私に木陰を求めた。

 あの時まで。

 竜神が荒れ狂い、雷が私に落ちた。
「ああ、おどけた」
 山は半分崩れ、私も根が浮いた。
「酷ぇもんずら」
 竜神が何に怒り暴れたのか解らないけれど
「こないだのお神だっつぁまでこんだ事」
 もう、私は、立っているのもやっとだった。
「いくら御神木ったってめたいけねーわい。見ぐさい」
 だから、恨むまい。
「傾がる前に切るべ」
 そう決めた人間を恨むまい。
「そんな事出来るかっちゃ」
 私は、此処で終わる運命なのだ。
「そんだおちょんきな」
 竜神の神鳴で身を焼かれたのだから。
「やんか木だで。儂ゃあ、おっかなくておっかなくて」
 でも。
「あの材木屋はしわいずら。此いつ、さっつけるか」
 出来れば、今度は人間に成りたい。

「こいつは、良い木だ。良い材木だ」
 切り刻まれたけれど、まだ、私は私だった。
「焼けた部分を取り除けば充分使える」
 根を切り離され、枝を落とされ、身を縦に横にと切られて尚、私は私の儘だった。
「何十年だっけ、百年以上って噂も頷けるね。見なよ、この年輪」
 表面を削り落とされ、最初は大きな屋敷の大黒柱にされた。
 また人間を見守っていけるのが嬉しかった。
 でも、其処の家の人間は、良い人では無かった。
 偉ぶり、下の者を苛め、叩くのを見た。
 女中を怒鳴り、蹴り、無体を働くのを見た。
 私に声を掛ける者は居らず、私は哀しかった。
 私は、夜な夜な溜息を吐いた。
 山に居た頃と同じ様に、溜息を吐いた。
 でも、山に居た頃と違って、大きく息を吸っても、あの清浄な空気は身体に入って来なかった。
 家人が何度か私を見に来る様になった。
 良い人では無いけれど、私に声を掛けるのかと、何か話が有るのかと待った。
 何も言わず、暫くすると部屋に戻って行く。
 そんな日が続いた。

 ある日、大工が家の主人とやって来て、私を切る話を始めた。
 また、切られるのか。
 此の家に続く不幸が私の所為だと話す主人を恨むまい。

 出来れば、次は人間に成りたい。


 材木屋の材木置き場で、私は、夜な夜な溜息を吐いた。
 山に居た頃と同じ様に、溜息を吐いた。
 でも、山に居た頃と違って、大きく息を吸っても、あの清浄な空気は身体に入って来なかった。
 やがて、四つに切られ、私は小さくなった。
 人間を見る事が少なくなった。
 人間は私を閉じ込めた。
 使われない小屋の奥に、私を閉じ込めた。
 恨むまい。
 私は、夜な夜な溜息を吐いた。
 山に居た頃と同じ様に、溜息を吐いた。
 でも、山に居た頃と違って、大きく息を吸っても、あの清浄な空気は身体に入って来なかった。
 暗い小屋の中、何年かをそうやって過ごした。
 あの日。
 久し振りに人間が私に会いに来た。
「良い木だ。此れは良い木だ」
 そう言って、私を持ち帰ったのは小さな部屋だった。
「ああ、本当に良い木だ」
 人間は私に話しかけた。
「俺にはおめぇの中に器量良しが見える」
 人間は私に触れた。
「おめぇは此処いらでいっちゃんの花形に成れるに違ぇ無ぇ」
 人間は私に鑿を入れ、一心不乱に彫り始めた。
「俺には娘が居てよ。生きてりゃ子供が居ても奇異しく無ぇ。そしたら俺の孫だ」
 合間に、彫り掛けの私に酒を飲み乍話し掛ける。
「御爺さん御爺さんってよ、そしたらさぞや可愛いだろうなぁ」
 飲み乍、話し乍、遠い目で、溜息を吐く。
 私も、山に居た頃と同じ様に、溜息を吐いた。
 大きく息を吸っても、清浄な空気は身体に入って来ないけれど、何やら満たされて行く気がした。
 毎日毎日、御爺さんの見た“器量良し”が彫り上がって行くにつれ、私は、私が人間に成れるのだと思っていた。
 人に近い姿に成って行くにつれ、人間に成れるのだと、嬉しく思っていた。
 御爺さんの孫に成るのだと。
 否、御爺さんが私を人間にするのだから、御爺さんの子供に成れるのだと。
 信じて疑わなかった。
 毎日毎日、御爺さんは私に声を掛けた。
 毎日毎日私は其れに応えたくて、人間に成れたら応えられるのが待ち遠しくて、早く早くと気が急いた。
 楽しみで、楽しくて、髪結いに出された時には驚いたけれど、完成した姿を鏡で見て納得した。
 御爺さんの元に戻り、顔を合わせ、嬉しそうに笑う御爺さんに、私も嬉しくて仕方無かった。
「……御爺さん……」
 其の時、初めて声を発した。
 御爺さんが私を取り落としそうになった。
「御爺さん御爺さん」
 やっと応えられる。やっと応えられる。
「御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん」
 やっと人間に成れる。やっと御爺さんの子供になれる。
「……呑み過ぎたか……?」
「御爺さん御爺さん」
「……おめぇ……」
「御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん」
「ちょ、待て。おめぇ……おすヾか……?」
「御爺さん御爺さん御爺さん」
「や、違うな。すヾなら爺さんとは呼ばねぇやな」
「御爺さん御爺さん」
「……おめぇ……おめぇ……」
「御爺さん?」
「……まぁ、なんだってまぁ……」
「御爺さん御爺さん、如何してそんなに笑ってるの?」
「おめぇがそんなんだからだろうよ」

 御爺さんは言う。

「おめぇは人形だ。人形ってのは自分で喋るもんじゃねぇ。役者が丸で人形が喋ってるかの様に演じるもんだ。人形が喋っちゃなん無ぇ」
「如何して?」
「おめぇそりゃ、人形ってのはそう云うもんだからよ」
「如何して?」
「おめぇそりゃ、喋る人形が居たら大騒動だからよ」
「如何して?」
「おめぇそりゃ浄瑠璃にしたって文楽にしたって役者が居るからよ」
「如何して?」
「おめぇそりゃ……」
「如何して?」
「ええい、如何しても、だ」
「如何して?」

 如何して、人形なの?
 如何して、人間じゃないの?
 如何して?
 如何して?
 如何して?
 如何して、人間にしてくれなかったの?

「おめぇ、こんなんじゃ何処にも出せやしねぇじゃねぇか」
「如何して?」
「良いんだけどよ。俺の話し相手で」
「如何して?」
「おう、呼んで見ろ」
「如何して?」
「御爺さんだよ、御爺さん」
「御爺さん御爺さん、如何して?」
「ああもう。おすヾも何で何で言ってたっけなぁ」
「御爺さん御爺さん、如何してそんなに泣いてるの?」
「おめぇが可愛くてだよ」
「御爺さん御爺さん、如何してそんなに笑ってるの?」
「おめぇが居てくれるからだよ」
「御爺さん御爺さん……」
「ええい、ちったぁ感傷に浸らせろってんだ」
「如何して?」
「如何してもだ」
「如何して?」
「ああ、もう、ちぃとも黙っちゃいねぇ」
「御爺さん御爺さん」
「おめぇに身体が必要だよなぁ」

 あの日、御爺さんは起きて来なかった。
 あの日、人が訪ねて来て、何やら慌しくして居た。
 あの日、私は箱に閉じ込められた。

 私は、人形は喋る物では無いと言われていたので、御爺さん以外の前では口を噤んでいた。

 何日も何日も経ったある日、箱が開けられた。
 御爺さんでは無かった。
 勝気そうな子供が私を取り上げた。
 連れ出され、子供の家に連れ帰られた。
 御爺さんの着せた着物を脱がせ、自分と揃いだと言う着物を着せた。
 子供は女の子で、おりん、と言った。
 おりんは、人間だった。
 おりんは、あの家の、私が大黒柱だったあの家の子供だった。
 私は、またあの家に戻った。
 おりんは、虫の居所が悪いと私を投げた。
 如何して?
 おりんは、猫を叩いて追っ払った。
 如何して?
 おりんは、女中達に怒鳴り散らした。
 如何して?
 如何して? 如何して? 如何して?

 御爺さん

 如何して

 迎えに来てくれないの?

 恨むまい。
 恨むまい。恨むまい。
 御爺さん御爺さん。
 何処に居るの?
 御爺さん御爺さん。
 如何して私は此処に居るの?
 御爺さん御爺さん御爺さん御爺さん。

 気が付けば、御爺さんを呼ぶ私の言葉は、おりんの口から溢れ出ていた。
 私は、夜な夜な溜息を吐いた。
 山に居た頃と同じ様に、溜息を吐いた。
 大きく息を吸うと、おりんの身体に入った様な気がした。
 私は、おりんに成っていた。
 私が、おりんに成っていた。

 この身体はおりんではない、私になっていた。

 御爺さん、と嬉しくて御爺さんを呼んだ。
 御爺さん御爺さんと。
 人間に成れた。
 人間に成れたのよ。
 御爺さん御爺さん。
 何処に居るの?
 如何して迎えに来てくれないの?

 人間達は私を閉じ込めた。
 また、閉じ込めた。
 人間に成ったのに、御爺さんに会いに行きたいのに。
 また閉じ込められた。
 地下に。格子の中に。
 寂しかろうと御為ごかしを言い、猫と一緒に閉じ込められた。
 身体はどう動かせば良いのか良く解らなかった。
 だから、御爺さんを呼んだ。
 御爺さんに会いたくて。
 御爺さんを呼んだ。
 気が付けば、最初に見た頃より手が細く枯れ枝の様に成って居た。
 気が付けば、声が出せなく成って居た。
 もう、人間の此の身体は木だった私の様に成って。
 あの山に居た頃の様に声も出せ無く成って。
 手も身体も、あの頃の私から出ていた枝の様に成って居て。
 此れでは、此れでは御爺さんに届かない。
 此れでは御爺さんに気付いて貰えない。
 此れでは御爺さんに迎えに来て貰えない。
 必死で、声を上げ様とした。
 必死で、呼ぼうとした。
 御爺さん。
 御爺さん。
「……御爺さん……」
 出せた。
 ちりりと鈴の音がした。
 其れは私の口から零れた。
 見れば目の前でおりんが枯れ木の様に成って居た。
 赤い、揃いの着物を着た人形、御爺さんが造ってくれた私を抱いて、おりんが居た。
 私は、一声、鳴いた。
「御爺さん」と。



「御爺にゃああああああ」
「よっと。ヤギゾウ、大丈夫か?」
 桑門が人形を引き剥がした。
 一瞬。
 ほんの一瞬だったのだろう。
 何年も何十年も時間が過ぎている気がする。
 桑門に片手で顔面を掴まれ、空中でじたばたする浄瑠璃人形。
 此方へ向け手を伸ばし、御爺さんを呼ぶ。
 幼子が親を求める様に。
「ヤギリン? 魂抜かれちゃった?」
 仰向けの儘のわたくしを覗き込み、ネイサン青年が爽やかに言う。
「走馬灯を……見ました……」
 否、走馬灯と言うのは違うかも知れない。
 自分の其れでは無いのだから。
「ほんっとヤギリンは泣き虫だなぁ」
「ヤギちゃん、何を見た? 教えてくれんか」
 円顱方趾えんろほうしに促され、見た物、聞いた物を話す。
 山で神と崇められて居た大木が人形に成り、庄屋の娘に……と。
「ありゃぁ。びくともせん筈じゃわい」
 こりゃ神主の領分じゃと未だじたばたしている浄瑠璃人形を見る。
 唐突に桑門のケータイが鳴った。
 空いている片手で器用に操作し、電話に応じると、余所行きの声で「それは良かったです」とだけ言って切った。
「おっしょさん。三人共、ついさっき目が覚めたそうですよ」
「おお、そいつは良かったのぉ。祟る暇が無くなったんじゃろうて」
「えーやだなぁ、こいつ、祟るのー?」

「さて」
 ネイサン青年に促され、床に大の字で転がって寝て居る眼鏡ニイサンを避けて居間に入り、円顱方趾えんろほうしと桑門が腰を下ろした。
 ネイサン青年は二人分の珈琲を淹れに行き、『私』も座る。しがみ付いた浄瑠璃人形が『私』の頬をもぐもぐして居るが、して居りますが、して居るんですが。何と言うか、こう、引き剥がすのが忍び無い気持ちに成って仕舞って居るのですが。
「ほっほっ。可愛い子ちゃん達がいちゃいちゃしてるのは良いのぉ」
「相変わらず兄に劣らず弩変態だねぇ、円顱えんろ爺ちゃん。ミルクと砂糖はポットからどうぞ」
 ……取り敢えず此の人形に服を……何故全裸なのかと小一時間……
「まぁ、今回の事は此れで一段落っと」
 待て。待て待て待て。
 此れは如何する気なのですか。貴様の眼は節穴なのですか。全然解決してなぞ居らぬでは無いですか。
「大丈夫じゃよ、ヤギちゃん。其の子はもう周囲に祟りは振り撒かんじゃろうて」
「そうそう、ヤギゾウが引き受けてくれてっからな」
 ……何故……。
「ほら、人形師の骨を見に行ったじゃろう。其の時に、恐らくちぃっと匂いが付いたんじゃろうな」
「そうそう。んで、その匂いに釣られてホイホイと……」
 虫か何かの様に言わないで頂きたい。誰がホイホイだ誰が。
「ふがっ」
 眼鏡ニイサンが目を覚ました。
「おや、叔父さん、円顱方趾えんろほうし。おはようございます」
 廊下で大の字の儘、頭だけ上げ、此方に向ける。
 浄瑠璃人形のもぐもぐとしていた口が、止まった。
 眼鏡ニイサンがよいしょと身体を起こすと、浄瑠璃人形の腕から力が抜ける。
 『私』にしがみ付いていた腕が力無くからりと音を立てて擦り下がった。
「何時の間に来られて居たんですかぁ? 起こしてくれれば良いのにぃ」
 後半はネイサン青年に言い乍立ち上がる。
 ぐいと、浄瑠璃人形が身体を押した。気がした。
 傍らを見れば、だらりとして居るだけで身体を押し付けている訳では無い。
 訳では無いのに、押された気がした。
 先程迄わたくしの頬を食んで居た口は軽く放心するかの様に開いて居る。
「ああー、その子!!」
 眼鏡ニイサンが『私』の傍らの浄瑠璃人形を指差した。
 ぴしり、と小さく嫌な音が鳴った。
 再度、浄瑠璃人形に、ぐいと押された気がした。
「もう、駄目でしょう、メイベル。組み上げたばっかりなのにぃ」
 手袋をした儘の手を此方に向け、数歩近寄る。
 ぴしり、ぴしり、と音がする。
 気付かずか構わずか、眼鏡ニイサンが此方に歩を進める。
 ぐいぐいと、浄瑠璃人形は動きもして居ないのにぐいぐいと押されて居る。
「着物もまだ仕立てて無いのに」
 みしり、と音が大きく鳴る。
 眼鏡ニイサンがわたくしの傍らの浄瑠璃人形に触れた。
 かーん、と軽快な音がして、顔面が縦に弩真中から割れた。
 頭の中のカラクリが飛び出すと同時に、……りーん……りんりんりん……と鈴が飛び出して来た。
「あああああああああ」
 崩れ落ちる眼鏡ニイサンの声が遠くに聞こえ、『私』は、意識を手放していた。

「起きて」
 何かが声を掛ける。
「起きて」
『私』に声を掛ける。
「御爺さん、起きて」
 待て! 誰が爺か!!
「あなたは、何?」
 気付けば、目の前に、お鈴が居た。
 真っ白な何も無い空間に、お鈴と自分だけが居た。
「わたくしは……わたくしは其れはもう、小さな子供達の可愛いお友達ですとも」
「……そう……」
 何やら納得した様子で頷く。
 お鈴は、丸で人間の様に成って其処に在った。
「あなたは、御爺さん?」
「誰が爺か!」
「でも、匂いがする」
 ……加齢臭……でもするのだろうか?
「でも、別の気配もする」
 ……否まぁ、爺では無いですから、わたくし。
「あなたは、何?」
 ……何と言われましても……。
 もう人形ですとしか言い様が無いと思うのですが。
「あなたは、何?」
 返答に困り、口を噤む。

「あなたは、如何して、そんなに、沢山居るの?」



 時刻は三時。
 眼鏡ニイサンが、お茶の支度をし、ネイサン青年を茶菓子を買いに走らせる。
 何時もの光景。
「おや、目が覚めたようだねぇ」
 ぼんやりとしていた『私』に、眼鏡ニイサンが声を掛けた。
 ネイサン青年は、玄関から出なかった。
 正確には、出る必要が無くなった。
 玄関に桑門が笑顔で立って居た。
 手には近所の和菓子屋の銅鑼焼きの包みを下げて居る。
「おっしょさんがそろそろ目が覚めるだろうって言うから見に来たぞ」
「流石、円顱えんろ爺ちゃん」
 ずかずかと上がり込んで来た桑門に、暫し、ぼんやりと視線を預け……思い出した。
「お鈴……あの人形は……?」
「あー、あの後大変だったんだよぉ。顔が真っ二つに割れちゃって、膠で修復してね……」
「兄さん黙ってて」
「中身がどっかに逝っちまったからな。当主殿に頭を修復して貰った後は“御爺さん”の骨壷と一緒に納めて来た」
 着物着せてからな。と続ける。
「……中身……。何処に逝ったのでしょうか……?」
 『私』の言葉に、きょとんとしたネイサン青年と桑門が顔を見合わせる。
「叔父さん、いらっしゃい。焙じ茶で良いですか?」
 お茶を持って眼鏡ニイサンが現れる。
 見合わせた叔父と甥は含み笑いをして、良く似た動きで肩を竦めた。
「さぁ? 何処に逝ったんだろうな?」
「何処に逝ったんだろうねぇ?」
 何となく不安に駆られ、眼鏡ニイサンの足にしがみ付いた。
「如何したの? メイベル?」
 ……いえ、何でもない……何でも無いんです……。
 ただ、あの方が、御爺さんと共に静かに眠れれば、次の生では真の親子に成ってくれれば良いなぁと。
 そう思っただけなのです。
「メイベル。お茶にしよう。叔父さんの銅鑼焼き、みんなで頂こうね」
 ちりり、と小さい音がした。
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