人形工場

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第零夜

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「いやあ、凄い念ですね。此処ここからでもわかりますよ」

 唐突な若く明るい声に、『私』わたくしは意識を其方そちらに向けた。
 随分と爽やかに言ってくれるモノだと思うと同時に、重く軋んだ音を立ててまばゆい光が辺りを照らし出した。
 扉が開いたのだと理解するのに、数秒かかった。
 目がくらむとは、こう云う事なのだろう。お恥ずかしい話だが、仏か神か何かそんな者が降臨された後光かと『私』わたくしは一瞬だけ思ったのだ。
「ほら、あの辺り」
 恐らく青年だろう人物が此方こちらを指さす。
 扉を開けようが何をしようが暗く昏い、此方こちらを。
「流石に数十年放置されているだけありますねぇ。怨霊になりかけてますよ」
 数十年。そんなになのか。それは知らなかった。そんなに経つのか。数十年放置されていれば、それは怨霊にだってなりたくもなるだろう。なるほどなるほど。などとぼんやりと思う。
 他の仲間達は梱包され店頭に並び子供たちの友達として買い与えられ、思い出の一部になっていくというのに、こんな所で虫とカビにい様にされて、恨みも辛みも募らない訳が無い。
 それは仕方が無いという気もする。
「うちの父が夜逃げしてからずっとでしょうからねぇ」
 青年の後ろから中年男性が現れた。随分と頭髪が乏しい。そう言えば此処に居たあの男も同じように頭髪が乏しかった。だが、夜逃げとは初耳だ。なるほど、そちらの男性の父親も加害者と云うだけではなく情状酌量の余地があるとそう云う事だろうか?
 をい、何をしている……?
「とりあえず、処分しましょう」
 爽やかに言って、青年が、瓦礫同然の人形の山に手を掛けた。反対の手には指定ごみ袋。
「産廃業者には連絡済ですから」
 待って欲しい。
 此処から連れ出して欲しいとは熱烈に思う所では有るけれど、待って欲しい。
 お願いだ。
 待ってくれ。
 燃やされるのは嫌だ。
 別の、何か別の方法が、話し合えばわかる。話し合えば。



 『私』わたくしは人形である。
 名前はまだ無い。
 いや、名前はどうやらあるらしい。
 人形と言えば「なんちゃらちゃん人形」だろうが、今、工場の片隅で山と積まれた中の一体である自分にはなにちゃん人形であるのかは不明である。
 気付いたら、人形だった。
 ただ、それだけだ。
 もしかしたら前世は人間だったのかもしれない。が、手足は動かせず、筋肉や腱やそれに類する物を感じようにもどうしようもなく、空虚な感じがしていたのも、己が人形であれば納得だ。
 とりあえず、早く梱包して出荷して欲しいものだ。
 電気が点かなくなり、人間が来なくなってから急激に厭な昏さが進んだ気がする。
 あちらこちらから、啜り泣く気配が地を這う霧のように滲み出ている。どうやら、周囲の『私』わたくしと同じような人形達から、それらが出ているようだった。
 淀んだ空気、蠢く不快害虫、地底の奥底から湧き出るような沁み込んでくるような悲哀、悪意、怒気。

 それが、何を切欠にしたものか、突如変化した。ように思えた。

 たかが一介の人形の想いなぞ知る由も無い何様かが、どこかに、近くに、その存在感で空気を埋め尽くすかの様に降臨なされたかと。
 そんな感じがしたのだ。
 だが、一瞬、全ての存在理由を奪って行ったかのようなその気配は、瞬く間に夜気に掻き消えた。怨念としか言いようの無い人形達の昏い昏い感情が練成された何かが、『私』わたくしを蝕んでいく。



 嫌だ嫌だ苦しいのは嫌だ。
 突如現れた青年にゴミ袋へと放り込まれる諸先輩方を目の当たりにし、『私』わたくしは軽いパニックに陥っていた。
 わかる。放置された人形はゴミでしかない。数十年もこんな処に放置されて居たのだ。理解できる。服もボロボロ、顔の塗装も剥げ、身体の中に虫が入り込み、髪も半分無いようなそんな人形ばかり。これは燃やすのが妥当だ。
「うわっ、軍手じゃ駄目だ。ゴム手袋ゴム手袋」
 何かが溶けた物だろう、青年は指先をねちょりとさせた軍手を脱ぎゴミ袋に入れる。そして、次々に瓦礫、いや、人形の成れの果てをゴミ袋に放り込んでいく。満タンになったゴミ袋は口を結ばれ、中年男性が外へと運び出していた。
 時間が無い。
 何とかして交渉の場を設けるのが先である。
 どうやって?
 どうやって!?
 根性論は嫌いだが、ここは根性以外で頼れる物が何も無い。
 頑張れ悪霊! 負けるな怨霊!! 今こそお前の力を見せてみろ!!
「昼の明るい内で良かったでしょう? ここに夜中に来たいとか、死ぬ気かと思いましたよ」
「本当ですねぇ。昼でもゾクゾクしますもんねぇ」
 駄目か。駄目なのか。
 崩れてきた仲間の人形の隙間から聞こえる和やかな会話に絶望が押し寄せる。
 悪霊はオヤスミタイムなのか。
 云わば奇襲。おのれ卑怯なり。
 などと思考を巡らせている間にゴミ袋に詰められ、トラックに揺らされ、『私』わたくし達はゴミ処理場の一角へと放り出されていた。
 誰だ呪いの人形は燃えないなんて言い出したのは。
 思わずそんな事を思いながら、ゴミ袋ごと炉に放り込まれる諸先輩方を見送る。
 あー、盛大に燃えてますねぇ。そりゃそうですよねぇ。燃えやすい素材で出来ておりますからねぇ、我々。そりゃ古来より炎は全てを浄化する清めの儀式ですものねぇ。ええ、ええ。わかります。わかりますとも。自分が燃やされるのでなければ、とても良くわかるロジックですとも。
 ゴミ燃やす。
 炎で浄化する。
 よし、燃やそう。
 そうなりますよね。
 よっくわかりますとも。
 しかしですよ、しかし、意思の疎通が出来る相手を燃やせる人間は数少ないのではないでしょうか?
 意思の疎通を。意思の疎通。なんとか、意思の疎通……。
 
 炉に放り込まれました。
 ゴミ袋毎放り込まれました。
 せめて、寺で供養して欲しかった…保存状態が最悪なのはわかっているけれど。
 もう、こんなの実況でもして気を紛らわせる位しか。
 人形で良かった。
 人形だから、炉の中でも熱くない。
 髪が燃えても服が燃えても熱くない。
 熱くない、熱くない……熱い!!
 熱い!?
 熱いんですけど!?
 話が違うのでは無いですか!?
 『私』わたくし、無機物ですが!!
 熱いんですよ!?
 おかしくないですか!!
 責任者出しなさい!責任者!!

 何をどうしたのか、服と髪を失いやや焦げた身体を引き摺って、『私』わたくしは火の落ちた炉から這い出る事に成功していた。十数時間ぶっ続けで火炙りにあってはいたものの、諸先輩方が思い出した様に燃えるのを辞めたお陰で、溶けて一塊になった他の人形達が繭のようになって、此方まで完全に火が届くことが無くなり、只管ひたすら熱いだけの、そんな状態が十数時間。もしかしたら魔女だって死ぬんじゃないのか、これは? と思い始めて十数時間。
 気が狂えるなら狂った方が楽だろうに、死ねたら死んだ方が楽だろうに。なんだってこんな。
 気が付けばある程度身体を動かせるようになっていた。更に言えば、虫や埃が燃え尽き、表面が炙られたせいで劣化した部分が艶が出ている気がする。怨霊の類いは見当たらなくなって居るが、先輩方は融けてくっついて身動き取れない様子。
 これは、やはり、根性論も馬鹿に出来ないと認識を改めざるを得ないところか。
 人間の居ない場内を見回す。大きな時計掲げられていた。見れば3時。恐らく深夜。
 まぁ、丑三つ時という言葉もある位だし。
「まぁ、丑三つ時という言葉もある位だしね」
 声が出せる様になったかと思った。
 しかし、つい最近に聞き覚えのあるその爽やかな声は。真後ろから聞こえるその、声の主は。
「お前、根性入った奴だなぁ」
 笑顔で何やら手に物騒な物を持っているその人は、確かに、ゴミ袋に放り込んでくれた青年だった。
 溜息を吐く。否、呼吸はしないので真似事だけだが。燃えない、死ねない自分をどうすると云うのか。その物騒な物で粉々にするのか。除霊でもしたら消す事が出来るのか。それとも延々火炙りにし続けるとでも云うのか。
 まぁ、選択肢は自分には無いだろう事位は理解している。あちらさんがどうしたいか。それだけだろう。
 振り返る。
「おま……ぶふぉっ」
 吹き出された。
「…お…ちょ…おま…ちょっとま…」
 目の前の青年は笑い続けている。
 そうか、冷静に鑑みて見れば、此方は焼け焦げた禿げ全裸人形。それがシリアスぶってゆっくりと振り返ればそれはもう箸が転がっても可笑しい年代の青年のツボにもヒットするだろう事は想像に難くない。
 交渉の余地はあるかも知れない。
「……ぅウェー……」
 声が出せた! 何しろ音を出せたのは間違い無い。
 更に笑い転げる青年。
「えー、ゴホンゴホン。あーあーあー。」
 更に激しく蹲って地面を叩き泣くほどに笑い続ける青年の発作が治まるまで、ややの時間を要したのは後で記録することにしよう。
「で、君を退治するのが僕の仕事なんだけどね」
 一頻り笑い転げた後、青年は立ち上がり、何も無かったかのように此方を指し示した。
 退治されるような覚えは無いのだが。まぁ、何もしていないゴキブリだって退治されるのだから、何もしていない人形だって退治されるのだろう。
 しかし、いつだって決して希望だけは捨ててはいけない。いけないのだ。
「何もしていないのに退治すると?」
「君には理不尽だろうけれどね。流石にゴミ処理場の燃焼炉から無事出て来られるとねぇ」
 五体満足とは言えないと思うのですが。
「まぁ気持ちは理解できます。しかし承諾は致しかねます」
「んじゃま力づくで」
 爽やかに物騒な物を振り被らないで欲しい。
 こちらは全裸なのだし。禿げてしまったのだし。
「いや、待って下さい。待ちましょう。話をしましょう。誤解です」
「えー。悪霊と対話して良い事無いんだけどなぁ。お金とか世界の半分とか要らないよ」
「いえいえいえ、先ずそこが、そここそが誤解なのです。わたくしただの一介の人形です故、先程まで身動き一つ取れずむしろ為すがままされるがままだったではありませんか。そうでしょう。そうに決まっております。なにせわたくし、ただの人形で御座います故」
「ただの人形にしちゃペラペラ喋るし燃えずに残るし自力で這い出して来るし。説得してくるとか、悪霊ではなく噂に名高い悪魔の類かな?」
「とんでもない。何故その様な恐ろしい物である筈が御座いましょう? 古今東西、悪霊人形や悪魔の人形と言えば、髪の毛一本、服の端すら炎の中に居た形跡が無い程では有りませんか。このわたくしがそんな恐ろし気な物に見えますでしょうか?」
「悪魔は、人を油断させて契約をし、その魂を手に入れるのが、古今東西のやり方でしょう? そんな面白い外見になったからと……なったからと云って……」
 獲物を一旦下ろし、笑いを堪える青年。
 もう笑って頂いて構わないのだが。先程散々に笑い転げあそばされたのだから。
「普通は、先ず除霊か悪魔祓いかするんだけどまぁ、ほら、めんどくさいし、大概は物理でどうにかなるし」
 再び。気を取り直した青年が、バールのような物を振り被る。
「疑わしは罰せよ。てね」
 えへっ。と笑って、青年が爽やかにバールのような物を振り下ろした。
 甲高い音がして。飛んで、飛んで、転げて、転げて。壁にぶつかってバウンドして止まった。
 多分、これ、10mは飛んだ。
 痛くないけれど。痛くは無くて良かったけれども、これはあまりにも無抵抗な相手に非道では無いのですかねと軽い怒りが湧き出でる。
 なにせ此方は裸で、全裸で、髪も焼け落ちて、しかも無抵抗で、身体も小さく、か弱い形をした小さな子供のお友達用お人形ではないか。
 可哀想と言われる事こそあれど、この様な扱いをされる覚えなぞ是っぽっちも持ち合わせては居らぬではないか。
 通り魔の如き言葉も通じぬこの所業。不埒千万と言えるのではないか。
 裁判で訴えれば、否、訴えずとも警察に逃げ込めば保護されて、件の青年は逮捕されそのまま実刑になるのでは。
 否否否、誰が人形の言葉なぞ聞く耳を持とう物か。
 射殺されて終了のお知らせであるに違いない。
 死ぬかどうかは不明だが。
 バールのような物から釘バットに獲物を持ち替え、青年が見下ろして来る。
 なんと云う事でしょう。
 どこまでも爽やかな笑顔です。
 爽やかに釘バットで突いて来ます。
 死んだ振りしていれば満足して帰らないかしらとか思ってみたりして、とても良い案を思い付いたりしたのではないかと自画自賛しつつ、死んだ振りに徹する事に決めたのですが。
 決めたのですが。
 死んでます。死んでますよ? 死んでるんですよ?
 そんなに、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も釘バットを叩きつけなくても死んでますよ?
 ほら、反応無いでしょう? そうでしょう? そうに決まっておりますとも。
 わたくしは死んでますよーっと。
 ちょっとコンクリの床に埋まっている気がしなくもないですけれど。
 退治完了ですよ退治完了。
 お疲れ様でしたー。ですよ。
「全然、壊れてくれないねぇ、君。ほんとおまえ、気合入ってるなぁ」

 さて。
 暗闇の中、ぼんやりと思う。
 此処は何処だろう?
 巫山戯た話では有るが、死んだ振りをしていたら寝ていたか気絶していたか似た様な状態で居たらしく、詰まる所、意識をログアウトし先程ログインしたと言えば正しいのか。
 詰まる所と言いつつも詰らない話である事此の上至極も無い。何が哀しくて、生を享け-享けているのか如何かは意見の分かれる所存-辛く悲しい事ばかりなのか。
 居るとは何なのか。
 消滅とは死で或るのか。
 救いは何処に在ると云うのか。
 講じても詮無い事と断じてしまうのは如何な物か。
 或いは自我とは、精神世界とは、脳内宇宙とは。
 ごそり。と腕を動かしてみれば、何やら堅いモノに触れた。ああ、この感じ。この感じ。ああそうだ。
 釘 バ ッ ト だ 。
 視線を巡らせれば、微かな光がギザギザの隙間から入り込んで来ていた。
 どうも、チャックらしい。ジッパーと云うのか? ファスナーか?
 まぁ恐らくそんな類の……
 …あ…、バッグに入れられてるのか。
 釘バットと一緒に、無造作に。
 と、音がした。
「ママ、開いてるわよ」
「ラッキーね。ほらバッグ持って」
 ひそひそとしたやり取りが聞こえた後の浮遊感と直後の落下の衝撃が襲って来る。
 痛くは無い。痛くは無いが不愉快で或る。
「重っ! 何これぇ」
「中身確認して。ママはもう少し中を…」
 ジャッ、と音がして眩い光りと共に視界に飛び込んで来たのは
「ぎゃあああああああああああああああああああ!!!」
「きゃあああああああああああああああああああ!!!」
 ……つい、雄叫びに釣られて乙女の如き声を上げて仕舞った……。
「なにどうしたの!?」
「ママ!! 怖いお人形が!!」
「何よ、人形くらいで……ぎゃああああああああああ!!!」
「きゃあああああああああ!!!」
 むんずと掴み出され、逆さ釣りで間近に見下ろして来る
 推定70歳過ぎ、推定100kg超、金髪ツインテール縦ロール、厚化粧、金綺羅ドレス、の、うっすら髭の生えた男性。
 が。
 2名。
「……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
 仁王の様に挟まれている。
 漏れているのは自らの声か。
「嫌!! こわああぁああい!!! ママぁぁあああ!!」
 最初の化け物が鞄の中の釘バットを掴んで振り回し始める。
「辞めなさい!! ストロベリーちゃん!! ママに当たるわ! 辞めて!!」
「うぉぉぉぉん!! こわいこわいこわいいいぃぃぃ!!」
「ストロベリーちゃん!!」
 釘バットを掻い潜り、「ママ」が手にしたソレでストロベリーちゃんの顔面を思い切り叩き潰した。
 鼻面を。
 手にした その 人 形 (『私』) で。

「あれ、捨郎さんじゃないですか。こんな所で奇遇ですね」
 聞き覚えのある爽やかな声がした。
 地響きと共に沈んだストロベリーちゃんを見下ろし、爽やかに爽やかに笑顔を向ける。
「喜市さんまでお揃いで」
「いやああああ、ピーチママって呼んでえええええ!!!」
「ストロベリーって呼んでえええええ!!!」
 鼻血を出しまま何か吠えていらっしゃる。
 ぶんぶんとその手の人形を振り回し、喜市ママが(恐らく)見覚えのある青年を指さす。
「ストロベリーちゃんの純情を今こそ貰って貰うわよ!!」
「車上荒しですか、警察を呼ばないとですね」
「痴情の縺れよぉぉぉおおお!!!」
「あなたの子供を産みたいのぉぉぉ!!!」
 捨郎ベリーちゃんが鼻血を振り乱し、物理的に無理難題を叫んでいらっしゃる。
「1500万円」
 にっこり笑って青年が言った。
 化け物2匹の動きが止まる。
「ほら、車に傷付けたでしょう? 器物破損。それに不法侵入。窃盗未遂」
 此方を指さす。
「その人形ね、結構なアンティークで、好事家の間で物凄い高値が付くんですよ。そんな鼻血塗れにされて、困るなぁ」
「ひぃっ!」
 喜市ママが、やっと人形を持ったままなのに気付いたのか、その価値-嘘臭いが-に動揺したのか、青年に向かって投げつけた。
「おっと」
 青年が避ける。
 ぼとり。
 落ちた。
「あーあ。慰謝料上乗せしなきゃ」

「君も酷い目にあったねぇ」
 警察に二匹を引き渡した後、爽やかに言いながら塵芥挟み使用で摘まみ上げられる。
 ストーカー規制法と住居侵入と器物破損と窃盗未遂で云々話をしている時の放置されたままの自分を、警察すら回収しなかったのは「それ、触ると呪われますんで」と爽やかに言い放った青年の言葉のせいで或る事は間違い無いだろう。
 まぁ、此の外見に此の鼻血塗装では警察へ仕事しろと言い辛いのは確かでは有るが、汚い物を見る様な視線に少しだけ傷付いたではないか。
 こちとら可愛いお人形さんなのだぞ。
「おや、だんまりかな? さっきは可愛らしい声を上げていたじゃあないか」
 片足を塵芥挟みで摘まんだままゆさゆさ揺らして来る。
 死んだ振りも此処までなのか。
「……あんな怖い目に会ったのは初めてですが故、致仕方が無いかと存じ上げますが」
 酷い目と云えば、青年にされた事の方が余程酷いと思う所存。
「あの人達ねぇ、怖いよねぇ。まだ、取って無いんだって」
 何をですか!? 何をですか!? その怖いの基準は何なのですか!?
 話しながら建物入ってすぐの扉を開け、放り込まれた。
 白い陶器で出来た空間に嵌り込む。
 真上に位置した蛇口が捻られ、勢い良く水が噴き出して来た。
 火責めの後は水責めですかそうですか鼻と口が機能していなくて本当に良かったです。生き物なら死んでますこの扱い。
「これでいっか」
 青年がデッキブラシを構える。
 手荒く鼻血やら何やらを落とされ、再び塵芥挟みで摘まみ上げられ、雑巾で拭かれる。
「何やってるの、騒いで御近所に迷惑掛けては駄目でしょう?」
 優しい低い声が降って来た。
 雑巾で顔を覆われ、その姿は見えない。が、恐らく、男性。若くは無さそうだ。
「いやいや、迷惑を掛けたのは僕じゃなくてストーカー共ですよ」
「またそんな事を言って。騙されないよ? 何か仕掛けたのでしょう?」
 言いながら、雑巾が顔から退けられる。
 眼鏡の細身の優しそうだが凡庸な男性が現れた。
「またこんな変な物拾って来て」
 ……変……まぁ、変だが。変だろうが。
「大体、こういう人形は洗うならきちんとバラさないと」
 言いながらひょいひょいと手慣れた手つきで両の腕と足と首を……
「ほら、中に水が入り込んでた」
 手際良くバラバラにされて針金に干されて、えーと、何これ?
「扱いが乱暴過ぎだよ。人形が可哀想じゃないか」
「それ、頼むよ」
「また妙な物押し付けて」
 ……妙……まぁ、妙だろうが……。
「君。気に入られちゃったねぇ」
 眼鏡の男性が、しみじみと話し掛けて来た。
 返答するか否か暫し迷うが。
「そいつ、喋るよ?」
「脅かすのは無しだよ。……本当に喋るの……?」
「呪いの悪霊人形だもん。そりゃ喋るよ」
「また僕をからかってるんだろう。辞めなさい全く」
「本当だって」
「もう良いよ。材料取って来るから悪戯しないで置いてね」
「本当なのに。なぁ?」
 同意を求められたが、之は人形の振りをしていた方が良さそうである。
 人形だが。
 禿げで全裸で現在五体不満足の人形だが。
「有り合わせで良いね」
「いーよいーよ」
 何やら滑車の付いた引き出しを転がして現れ、中から刃物と巨大な針を取り出す眼鏡の男。
 干されていた『私』の頭を手に取ると、やおら刃を突き立てる。
 て。そこは額ですが。額ですが!?
「あ、刺さった。さすが」
 青年が感心した風に呟く。
 何が流石か、この唐変木め。其奴の人畜無害そうな見て呉れはまるで詐欺ではあるまいか。
 ザクザクと頭部を切り開いて行く音に、此処は一つ人形パワーを見せつけてやらねばと奮起する。
 奮起した。
 したつもりだった。
 動けない。
 理由は解らないが、思う様に動けない。
 バラバラにされて居るからなのか、其れとも他に何か理由が有るのか。
 声すら上げられない。
 如何なる事なのだ此れは。
 何なのだ。
 何なのだ、此奴は。
 こうやって動揺している間にもザクザクと頭部は真っ二つに成って居た。
「流石だなぁ。こいつ、僕じゃ壊せなかったよ」
「壊したちゃ駄目だよ。可哀想に」
 サクリと目に刃物を突き立てながら、苦笑して眼鏡の男が言う。
 くるりと突き立てた刃物を回転させて、目に穴を開け広げて行く。
 ザクザクと目の穴を大きくし、納得したのか頷くと、もう片方にも刃を突き立てた。
 目が空洞になり、切り剝された頭皮にザクザクと針で穴が開けられる。
 是は、何と言うか、是は。
 異常者の類では無かろうか。
 そうだ、見て呉れに騙されたがやはり青年の知り合いなのだ、或る種特殊な仲間なのだろう。
 人形を傷め付け、破壊し、切り刻み、燃やし、話し掛ける。
 そんな趣味の仲間なのだろう、恐らくそう云う変態なのだろう。
 其処まで想いが至り、改めてゾッとする。
 この先自分は如何なってしまうのだろう?
 こんなバラバラにされ、切り刻まれ、滅多刺しにされ、其れでも死ぬ事の無い自分は。
 そしてまた今、動く事も出来ず、視界も奪われ、其れでも意識の無くならない自分は。
 何やら濡らされて擦られ、その後、手足身体顔に何やら吹き付けられ、吊るされ、恐らく眺め回しているのだろう視線を感じる。
 内側まで、中まで舐め回すかの様に見て居る。
 変態だ。弩変態だ。
「何色にしようか」
「何でも良いよ」
 楽しそうな眼鏡の男の言葉に、青年が興味無さそうに答える。
「あ、服も用意しなきゃ」
「有り合わせで良いってば」
「でもねぇ、余ってるのこんなのしかないよ」
「それで良いだろ」
「あ、爪の色決めなきゃ」
 うきうきと何やら気持の悪い発言が聞こえた。
 その後、彼方此方削られたり何か付けられたり干されたり濡らされたり塗られたり何やらして……。
 気付けば髪が生えて居た。
「余ってるやつの詰め合わせだから、無いよりマシかな位の仮置きのつもりだったけど悪く無いねぇ」
 首だけ棒に刺さった状態で鏡に囲まれた空間--女性の使う三面鏡だ--の真ん中に置かれ、印刷だった目は硝子か何かが入っており、長い髪はピンクや紫や金色や銀色や水色や…七色をしていた。
 瞳は金色で……あ……山羊だ。是は山羊の目だ…。
 視覚を取り戻し、周りを見渡そうにも、鏡か眼鏡の男しか見えない。
「髪型悩むなぁ。目は垂れ眼気味にしてみたんだけど、如何思う? あれ? いない」
 恐らく青年に声を掛けたつもりだろう、振り返り、拍子の抜けた声を出した。
「もう、何処に行っちゃったのかなぁ…。目がちゃんとくっ付いたら、お化粧しようねぇ」
 独り言の後、此方ににこやかに話し掛けて来る。
 立ち上がった男の向う側に、組み立てられた自分の身体が見えた。随分と血色が良い色に仕上がって居る。
 何か違う気もしたが、何が違うのか良く解らない。
 取りも敢えず腕を動かして見る。
 動いた。
 右手が挙がった。
 左手も挙げて見る。
 万歳の状態で、何か違和感を覚える。
 これは、もしや。
 もしや……
 肘が曲がる!!!
 肘の曲げ伸ばしが出来ると云う事はまさか……
 膝も曲がる!!!!!!
 なんだこの稼働域!!!
 スクワットも思いのままではないか!!!
「え、何やってるの、お前? …あ…」
 青年の声と、何かが崩れ落ちる様な音がした。
 眼鏡の男が、床に、崩れ落ちていた。
「また何か悪戯したんでしょう。もう。」
 直ぐに息を吹き返した眼鏡の男が、青年を正座させて説教をしている。
「だから、呪いの悪霊人形だって言ったじゃん」
「そんな嘘を言うんじゃ無いよ。呪いの人形が首無しでスクワットなんかするものか」
「悪霊人形の考えてる事なんかわかんないよ」
「何か仕掛けを入れたんだろう? 駄目だよ、まだ仮留めなんだから」
「だから、触んないってば」
「本当に駄目だからね。所でまつ毛は金色と銀色どっちが良いと思う?」
「何でも良いよもう」
 青年は面倒臭げに言うと、此方を振り向く。
「普通の人形の振りしてろよ。一々怒られるの僕だからね」
 青年に言われたからで無く、眼鏡の男が現れてから、何やら唐突に動かせなくなっていたし、そう云えば言葉も出せない。
 出せないと分かれば安心して罵詈雑言言えそうな物だが、どうにも思い付かない。
 眼鏡の男が此方に躙り寄って来る。
「金色か銀色にしようと思ったけど、白しかないねぇ。白にしようか」
 眼鏡の男の息が顔に吹き掛る。
「あ、マスクしなきゃ」
 マスクをした眼鏡の男の顔が間近に迫る。
 輪ゴムで髪を纏められる。
 上から下から舐め回す様に見られ、視界が復活した事を後悔した。
 意識の切り方が解らない。
 今迄如何やって切ってた?
 顔が近い。
 近い近い。
 離したり近付けたりしながら何かしているのだが、人間にだってパーソナルスペースと云う物が有るように人形にだってパーソナルスペースくらい有るのだぞ。
 いや一般的な人形は如何だか知らないが、わたくしには有ったりするので御座いますれば。
 出来るなら。
 今。
 悲鳴を上げたい。
「ほぉら、可愛くなったねぇ」
 言い乍、鏡台の真ん中へ戻される。
 くるりと後ろ向きにされ、鏡と真正面から向かい合う。
 眼鏡の男はゴムを外し、七色の髪を梳かし始めた。
 こ……これがアタシ……!?
 一応、なんとなくそう言わなければならない空気である。
 化粧というか、塗装を施され、睫毛まで生えた、ちゃんとした--ちゃんとの意味が危殆では或るが--人形の頭には成っていた。
 確かに工場の片隅に落ちて居た頃とは別人、別人形である。
 しゃくしゃくと音を立てて、髪が切り揃えられて行く。
 前髪も後ろも長いまま同じ長さで揃えただけで、一旦鋏を置き、顎に手をやって何やら考えている。
 再度、輪ゴムで髪を括り、引っ繰り返し、首の穴から何やら覗き込んで何やら指を入れ、全裸の身体の首にも何やら紐状の物を挿仕込み、あれよあれよと言う間に、魔法の様に、頭と身体が再会を果たして居た。
 なんだ、これは如何云う仕組みなのか。
 あんな所やこんな所や大事な所まで舐め回す様に見られ弄繰り回され、凌辱された気分も甚だしいと云うのに、挙句感謝までしなければならないと云うのか。屈辱に塗れながらも、感謝を言葉に出来ぬまま抱えて行けと云うのか。
「お洋服着ましょうねぇ」
 そう言って、眼鏡の男が着せたのは、赤い上下。もふもふの。袖と裾に白い縁取りの有る。聖人の衣装。
 ノーパンサンタの誕生である。
 満足したのか、棚の上に座らせられると、眼鏡の男は部屋を出て行った。
 ちなみに、棚の上には先客が居り、服を着たペンギンの縫いぐるみと陽気なポーズを取る蛙の人形に挟まれた格好である。
 いつの間にやら最初の部屋から移動しており、ヒトの目が、否、人形の目が見えないのを良い事に連れ込まれたに違いない。
 恐らくは最初の部屋より奥の部屋であろう其の部屋には、窓らしい窓が無く、置かれる前に見た棚には多くの人形が鎮座し--少なくともこの自分よりまともな見た目をしていた--縫いぐるみや日本人形やアンティークドールや様々な人形に混じって、開け放たれた向う側には、人形の腕や足や胴体や生首が無数にぶら下がって居た。
 狂気すら感じると云うか狂気しか感じない。折角だが、お暇したい。
 腕を動かして見れば、動く。やはり眼鏡の男が居なければ動けるのだ。
 腰を浮かし、棚の下を覗き込む。高いが、燃焼炉を這い出た時よりも困難では無さそうではあるし、あの時よりも比べ物にならない程状態が良い。
 恐らく現在、『私』の人形生最高に状態が良い。
 好し、飛び降りよう。
 ひょういと飛び下りれば、身体も軽い。
 履かされたもこもこした長靴のお陰で音も出ない。
 先ずは扉を開けて外へ出て、其れから、普通の女の子に拾って貰うのは厳しいだろうか?
 保育園や幼稚園や、子供の集まる場所へ忍び込めば気付かれる事無く居られるだろうか。
 何にせよ先ずは扉である。
 幸い、棒状のノブを下に下げて開けるタイプ。なら飛び付けばなんとかなりそうである。
 ドアノブへ飛び付くべく、大きくジャンプした。
 瞬間、
 思い切り、弾き飛ばされた。
「……」
 無言で見下ろして来る青年。
 無言で見返す『私』。
 青年は『私』を無造作に掴み上げると、そのまま部屋から連れ出した。
 廊下を通り、別の部屋へと連れ込まれる。
「あのさぁ」
 青年は、『私』をぽいと長椅子に放り、隣に座ると口を開いた。
「ここ1ヶ月で解ってると思うけど、僕、二重人格なんだよね」
 唐突な発言に……理解出来ない言葉が幾つか存在した。
 日本語でお願いしたい所だが、否、日本語なのに理解できないとはおかしいではないか。おかしくはないか? なんだこの齟齬は?
 放られた儘の体勢をおずおずと座り直し、右手を挙げる。
「すみません、何を言って居るのか解りかねます」
「だからぁ、二重人格なんだってば」
「そこは兎も角」
 青年の説明に寄れば、ゴミ扱いで燃やされてから此処に来て一カ月経って居るとの話だ。
「愕然としております。気付かなかった。なぜ気付かなかったのだろうかと。まだ2~3日しか経過して無い物とばかり思って居りました」
「まぁそんな事はどうでも良いんだけどもね」
 この興味の無さにも愕然とします。
 いや、ほら、仕事って仰っていたじゃないですか? 仕事なんでしょ? 仕事。どうでも良くは無いでしょう?
 否、滅されたい訳では無いんですがね。
「僕って二重人格でしょう? いつもそこで嫌な思いをするわけなんだよね」
 どうやら愚痴を聞かされて居る様だ。
「あいつは釘バットを好んで使うけど、僕は釘バットは違うと思うわけ。やっぱり、信念としてはバールで行きたいわけよ。あれの正式名称知らないけど。僕はバールって呼んでる。悪魔の名前と同じとか良いよね。痺れるよね。でもあいつは釘バットが好きでバールは好みじゃないらしくてちょいちょいバールをどっかに隠すんだよね。でもまぁ腐っても僕の一部なわけだから探して探せない訳無いわけ。でもむかつくしあいつの釘バットをゴミに出してやったら、バールを捨てやがってさぁ」
 えーと。どこら辺が二重人格……?
「だから、釘バットが好きな人格とバールが好きな人格だってば」
 止めど無く青年の口から溢れ出てく来る愚痴に、仕方無しに黙って頷く事とする。
「あいつはいつも甚振って甚振って息の根を止めないで楽しむわけ。そうして肝心なとこで逃げられたりするんだよね。僕は一思いに急所を突くのが美しいと思うんだよね。あいつはいつも相手の話を良く聞かないでしくじるし、僕みたいに深読みしているわけでもない癖に……」
 云々と頷き、聞いて居る限り、行動が極端に違う訳では無く。恐らく、思考と志が違うけれど行動の結果は同じと云う……それは二重人格と云うのだろうか? 別の人格なのだろうか? その時の気分では無いのだろうか? いや本人にしか分からない所では有るだろうが……。
「はぁ……。所であんな所で何をしていたの?」
「人形の本分として、小さなお友達のお友達になろうと思い立ちまして、旅に出ようとして居た所存で御座います」
 此処ぞとばかりに出来る限りにこやかに言ってみた。
 凄い呆れた顔で見返された。
「君、呪いの悪霊人形だよ? 解ってる?」
「ですから、其れは誤解で御座いますとあれ程申し上げましたでしょう」
「いや、だから」
「ですので! ここは保育園か幼稚園か児童館かそう云う場所に私めを寄付して頂きたく…」
「無理」
「諦めてはなりません! 此処は一つチャレンジ精神を持って」
「君、動いて喋ってるもん。無理」
「何を仰いますか。動いて喋れる様に成ったのは此処一カ月、もっと申しますれば貴方様に燃やされてからで御座いますとも。動かず喋らずの期間の方が余程長う御座います」
「だから。動いて喋れるようになった物はもう元のただのゴミ人形に戻れないの。だから無理」
「我慢します!」
「駄目。こんなの放流したら僕の名折れになるよ。これでも除霊師としてそこそこ名が売れてるんだから」
「それは存じ上げませんで申しわけありません。お名前を伺っても宜しいでしょうか?」
「何で知らないんだよ」
「わたくし、除霊師界隈には疎く、安部晴明くらいしか存じ上げません」
「あれは除霊師じゃなくて……まぁいいや」
 青年の話では「亜爻あぎょう」家は先祖代々占いや除霊、払魔師、霊媒師と様々な「不思議」に関わって来た家系らしく、その当主は現在二十三代目との事。
 最初は卜いで呪いを避けさせたり、指南する位だったのが、徐々に手を広げて現在に至るらしい。
 親族は皆、自分の得意分野で生計を立てて居る為、自由気儘に生活し、其れこそ仏壇に上げる御経や信仰すら違う事もあるらしい。
 親族の集まりは、ただ「亜爻」家であるかどうか。
 其れだけで、中には外国人も居るとの事だ。
「知る人ぞ知るってとこだよね」
 知らない人は全く知らないって所ですね。理解しました。
「悪霊界隈には僕の家の名前はもっと広まってるかと思っていたけれどね」
 悪霊界ってそんなフレンドリーな組織なんですか?
 捲ると「夜露死苦」とか書いて有るんですか?
 暴走気味な方々が多いのは、認めますが。
「基本、本名は晒さないのが此の世界の習わしでね。だから、弟子入りと同時に師匠に源氏名を貰うんだよ。本名は戸籍とかでしか使わない。そうする事で、こう、本体の前にバリアを一枚作った様な感じ? 何か悪い事に使われ様としても本体までダメージが来ない様にするわけ」
 ああ、何となく解ります。都合が悪くなったら変えて別の名前でやって行こう的な。京都では忍で神戸では渚で横浜ではひろみとかですね。ええ、解ります。
「で、さっきの眼鏡が兄さん。二十三代目当主。亜爻二三あぎょうにさん。僕はオマケ。亜爻二三あぎょうじぞう
 兄さんが兄さんで弟が地蔵とは。
 恐らく自分が人形で無かったら--せめて猫や犬だったなら--顎が外れる位、口をポカンと開けて居たに違い無い。
 二十三代目だから二三の読み替えとは。次の代は如何する心算なのかと少しだけ興味も湧く。
「ちなみに僕はハーフだから、あっちの名前も持っててね。そっちで呼ばれる事の方が多いよ」
 あっちの名前も偽名なんでしょうね。ええ、そうでしょうともね。
「向うの祖母が、本名名乗れないんじゃ可哀想だからとありきたりな名前を付けてくれたんだけどね」
 何故か、今迄の鉄壁の笑顔が翳った気がした。
「ネイサンて云うんだよね」
 兄さんはニイサンで弟はネイサン。
「……それは、それは御婆様の普通の幸せを掴んで欲しいと云う願いの賜物なのでは無いかと御見受けいたしまするるけれども……」
 動揺から妙な言葉になる。
「そう。100パーセント善意なんだよねぇ」
 苦笑気味に「日本語解らない人だし」と付け加える青年ネイサン。
 “僕は”と云う事はニイサン兄さんはハーフでは無いのだろうか?
 父母のどちらかが違うのだろうか?
 年齢にして十は違いそうな印象を受けるので、其れは無い話では無いのだろう。
 込入った話に、つい、同情をしそうになる。
 まだ十の兄が赤ん坊の弟を抱え、厳しい修行に耐え、利権争いをする汚い大人達の最中必死で生き抜いて来た様な、そんな情景を思い浮かべ、出無い涙を拭った。
「……お辛かったでしょうね……」
「そうでもないよ? 母さんは美人だし父さんは金持だし両親ラブラブだし」

「まぁ、そんな訳で、亜爻家当主の弟としては、君みたいな悪霊人形を放置できない訳。しかも兄さんが手を掛けて綺麗にしちゃったからね」
 綺麗だなんてそんな。本当の事を。とか茶化したくなるのを我慢する。
 まぁ、名前を、家を背負って居るのなら仕方も無い事なのだろうが、こう、自分としても折角小奇麗にして頂いたので--普通か如何かは兎も角--お人形的な本分を果たしたい所なのだが。
「そんな訳で、君、名前は?」
「ふえ?」
 思わず聞き返す。
「名前だよ、名前。有るんでしょう? ララベルとかアスベルとかカウベルとかそう云うのが」
 何でしょうかそのベル押しは? それと最後のは違うと思います、絶対。
「このわたくしの商品名と云う事でしたら、申し訳有りません。判りかねます。誰にもお教え願えなかった物で」
「違うよ、悪霊の名前、有るんでしょう?」
「申し訳有りません。悪霊さんとはお話した事が無い物で。分かりかねます」
「わかりかねちゃうのかぁ」
 ネイサン青年が覗き込んで来る。
「本当に?」
「むしろ教えて頂きたいです」
 暫し無言で見つめられ、ネイサンが感心した様子で頷いた。
「僕ね、嘘を吐いてるか如何か判るんだけど。君、嘘吐いて無いねぇ」
 そんな特技が有ったとは存じませんで。
「本当に名前無いんだね。不便だし何か適当に付けようか」
 適当は辞めましょう。ちょっとは考えましょう。いえ、ちゃんと考えましょう。
「ララベル、アスベル、カウベル……」
 意外としつこいですね。
「アベル、イベル、ウベル、エベル、オベル……」
 ベルは確定なんですか。
「ねぇ、人形が居ないんだけど知らないかい?」
 眼鏡ニイサンが扉を開けて入って来た。
 ええ、少し前から解ってましたよ。こう、動けなくなる前兆みたいなのが解るように成りましたとも。
「知らないよ。今、こいつの名前考えてるんだから邪魔しないでよ」
「知らなく無いじゃないか。もう、勝手に持ち出して。名前付けるの?」
「無いと不便でしょう? カベル、キベル、クベル、ケベル……」
「ベル固定なの? 一緒に考えるよ」
 良く言った! 眼鏡ニイサン、良く言った!!
 別の名前にする流れを作るなら此処でしょう!
 眼鏡ニイサン! お願いします!!
「見た目から、そうだなぁ……。八木さんとかどう?」
 帰れ!!!!!!
「八木カウベルか。悪くないな」
 悪いわ!!!
 なんだこのセンスの無さは、なんなのだ。
 ヤギの目だからヤギさんとか。それに何故ベルに拘る。そこにどんな拘りが有ると云うのか。
 口を挟めないのが口惜しい。
「八木沢さんとか八木沼さんとかちょっと捻っても良いよね」
 捻ってるのか!? 捻ってるのかそれは!?
「じゃあ、カウベル……牛鈴……すず?」
「八木沢すず、八木沼すず、うーん、ちょっと違うかなぁ……」
「……やぎりん……やぎすず……やぎべる……ヤギベル?」
 ヤギと鈴は確定なのですか……。
「ヤギでメイちゃんとか」
「メイベル」
「メイベル良いじゃない」
「うん。よし。メイベルだ」
「よっし、ヤギリン一寸おいで」
 早速名前間違えて居ますが。
 片手でひょいと掴まれ、眼鏡ニイサンへ渡される『私』。
 眼鏡ニイサンが受け取るも、お互いそのまま手を離さずに向かい合う。
 見方に寄っては取りあって居る様にも押し付け合って居る様にも見える。
「兄さん。メイベルは悪霊人形で、動くし、喋る。自分であの人形部屋から出て来た位には動く」
「ええ? またそんな……」
「兄さん。メイベルは動くし、喋る。喋るし、動く」
「えー……本当に……?」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「メイベルは……」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「メイベルは……動く……喋る……」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「メイベルは動く……メイベルは喋る……」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「メイベルは動く、メイベルは喋る……」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「メイベルは動く。メイベルは喋る」

「メイベルは動く。メイベルは喋る」

 突然。

 本当に突然、『私』は固められて居た身体が解き放たれた様な感覚に襲われた。窮屈な小さな箱から出された様な、大きな空に放り出された様な、妙な感覚に。
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
 腕が、指が、動かせる。
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
 足も、頭も、動かせる。
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
 これはどうやら、もしや。
「メイベルは動く。メイベルは喋る」
「遅ればせながら、はじめまして。と申し上げれば宜しいのでしょうか」
 無言で見返してくる眼鏡ニイサンの反応に、しまったかな……と思わないでも無かった。
 有態に言えば、調子に乗ったのだ。
 無駄に波乱を巻き起こしてしまう様な行動を軽率と言わずして何と言おうか。
 暫しの、重い沈黙の後、眼鏡ニイサンは力無く笑った。
「ああ、よろしくねぇ……」
 倒れるかと思ったが、倒れなかった。
 寧ろ、普通の範囲とも取れる反応だ。
 大分遅くはあったが。
「えーえええ喋るの可愛いねぇ。動くの可愛いねぇ。瞼を作って瞬きをできる様にしようかなぁ」
 ……その場合はやはり頭を割って目玉を取ってするのでしょうか……?
 出来ればなるべく出来るだけ絶対ご遠慮したい所存で御座いますれば。
「兄さん、凄いんだよ。産まれた時は日本国内のみならず外国から迄、産まれた子の顔を一目見せてくれって、宗教家だの占い師だの霊能力者だのが押しかけて来たらしくてね」
 ネイサン青年曰く。
 眼鏡ニイサンは産まれ以っての凄い力の持ち主だが、其の力を、此の家系で使うには、性格が臆病過ぎた。
 本人の怖がりの性格により、「オバケこわい。イヤ」で所謂“オバケ”が存在出来ない空間を広範囲に作り出してしまう。
 しかも本人を中心にしている為、無意識に移動式結界を常に張り続けて在る。
 弱い霊なら吹き飛んで消えてしまうし、強い霊でも封じ込められてしまう。
 それは、所謂呪いの人形を扱うのには、適正が有った。
 幼ニイサンは、汚れたり壊れたりした人形達を、綺麗に修復し、化粧し、服を仕立て、生まれ変らせる事に、夢中になった。
 当主がお人形遊びなんかと嘲る親戚も居ないでも無かったが、その親戚でも手が付けられない程の人形が、幼ニイサンの前に出ると途端に大人しくなる。それこそ普通のお人形の様に。
 それは、人形師である人形の修復技術を教えた幼ニイサンの祖母、いわく憑きの人形専門の祖母が優しく丁寧に教えて育てた、当然の結果であった。
「お人形ならこわくないでしょう? 綺麗にしてあげればほらこわくない」
 そうやって「綺麗に」する方法を教え込んだのだ。
 では、なぜ、今現在、この一介の人形風情が動けて喋れるか。
「暗示って便利だよねぇ」
 何か、悪事が聞こえた気がした。

 眩しい朝日。黄色い太陽。小鳥達のさざめき。爽やかな空気。朝露を含んだ風。
 この人形メの目には瞼が出来上がって居りました。

 ……また……また開けられた。
 無理やりあんなとこまであんな事されて……もうお嫁に行けない……
 と崩れ泣く振りをするも、眼鏡ニイサンは気付く事無くよく眠っていらっしゃる。
 瞼を作って満足したのか、ネイサン青年の暗示が強烈で身体に負担が掛かったのか、徹夜仕事での限界が来たのか。
 まぁ全部だろうと大まかに推測する。
 しかし、眼鏡ニイサンの力のお陰だろう、記憶にも無い様な強烈な朝の日の光の中、極々当たり前であるかの様に、動けて喋れるのだから。
 これはオバケに分類されてない証拠なのだろう。
 眼鏡ニイサンの「動ける。喋れる」に制限が掛かっていない為なのだろう。
 瞬きをすると白い睫毛がふぁさふぁさ動いて面白い。目を物理的に閉じると云う出来事が初体験なので、面白がって開けたり閉じたりしていたが、睫毛が動く度に風を感じるのも良い。
 其の内、口を開けられる様にもされてしまうんじゃないのかしら? なんて詮無い事を考えて、眼鏡ニイサンなら遣りかねないと少しうんざりする。
 また頭を割られるのは如何にもこうにも。
 あ。
 そう云えば、燃やされて溶けてた諸先輩方の中に、顔の表情が変えられる先輩が居ましたよ。確かに居ました。
 あれ、頑張れば出来るのでは……?
 顔面に力を込める。
 ぐっ、ぐぐっと、意識を顔面に集中する。
 …………
 出来た気がして、鏡を見れば。
 少しだけ、
 鼻が
 上を
 向いて居た。

「……」
 無言でネイサン青年が見てくる。
「……」
 無言で見返した。
「…………メイベルの目はどうしてそんなにヤギリンなの?」
 否其れは貴方の兄に聞いて下さい。
「メイベルの髪はどうしてそんなに変なの?」
 其れも貴方の兄に聞いて下さい。
「メイベルの鼻はどうしてそんなに上を向いているの?」
 其れは聞かないで下さいお願いします。
「ねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえ」
 ああもう煩い。
「何でそんな鼻にしたの? 可愛いと思ったの? 其れとも昔の流行なの?」
 ちょっと実験して見ただけだと言うのに此の言い草である。
 と、眼鏡ニイサンがむくりと起き上がって、のそりと此方を見た。
「……あれ? なんか、なんか……不細工になってる」
 ……今のは言葉の暴力だと思います。幾らなんでも可愛いお人形に対してそんな事言っては行けないと思います。曲がり成りにも女の子の姿をした物にそんな言葉を投げ付けてはいけないと思います。ええ、いけないですとも。例え其れが事実だとしても……事実だと……しても……。
「ちょっと変な顔をしてみただけですとも。直ぐに元に戻ります」
 直ぐに。
 ええ、直ぐに。
 もう直ぐに。
 直に。
 明日には。
 明後日には。
 三日後には。
 一ヵ月後には。
 三ヵ月後には。
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
 ええ。
 ええええ。
 もうしません。もうしませんとも。
 もう、表情を変えて見ようなんてしませんとも。
 半年。
 半年、完全に元に戻るまで、半年、掛かりました。
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