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《第三章》あなたには前を向いていてほしい
第三十五話
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遼子に間宮を会わせた翌日、別所は書類の山と向き合った。そうでもしなければ遼子がどんな決断をするのか気になって仕方がないからだ。
好きだから、という単純な理由だけではない。遼子の人生に思いがけず触れてしまったこともだが、それ以外にも訳がある。
仮に、ここを辞めたあと高崎のもとでかつての部下と一緒に働いても、それで遼子の心を縛り続けるものが消えてなくなるわけではない。いくら年を重ねても、どれほど困難を乗り越えてきても、心に突き刺さったままのトゲはなかなかなくならない。ふとしたときに存在を主張するかのようにより深く突き刺さり、痛みをもって心に傷を負った出来事を突きつけてくる。それを何度も経験している身としては遼子を案じずにいられないのだ。でもだからといって今の自分が彼女にできることは何もない。そのような現状がどうにも歯がゆいが、今は待つしかないのだと自分に言い聞かせながら、別所は仕事をしていたのだった。
「社長、やることが多いのはわかっていますが、少しだけでも休んでください」
黙々と書類に目を通していたら岡田の声が耳に入った。それに心が安らぐような香りが鼻を掠める。
「カモミールティに蜂蜜を入れました。お願いですから飲んでください」
「ああ、ありがとう」
ペンを置き、差し出された白いマグカップに手を伸ばす。重みを手指に感じながら口元へ運び、湿り気を帯びた甘い香りを吸い込んだ。
「ホッとしますね」
心を覆う不安が薄れたのか頬が勝手に緩んだ。温かい湯気とともに茶を含むと緊張していた体からこわばりが徐々に抜けていく。椅子の背もたれに体を預け、ふうと息をついた直後、側にいる岡田が言いにくそうに言った。
「社長、先日は申し訳ありませんでした」
「うん?」
目線を上げて岡田の顔を見てみると、バツが悪そうな顔をしている。
「守るってなんですかと聞いたことです」
「答えは、見つかりましたか?」
ほほ笑んで問いかけたら、
「いえ、まだ。でも、吉永と自分たちの将来について話し合うことができました。それで、その……」
今度は気恥ずかしそうにしている。なんとなくだが、喜ばしい報告のような気がした。心躍らせながらそのときを待っていたら、視線の先で岡田は居住まいを正した。
「吉永と結婚します」
岡田は胸を張って、はっきり言った。
「そうか、良かった。君たちがどんな話をしてどのような結果にたどり着いたのかはわからないけれど一人相撲しないよう気をつけてくださいね。離婚を経験した男からのアドバイスです」
自分だけのことならまだいい。が、共に暮らす相手がいるのなら、すべてとはいかないまでも意思の確認や意識の共有は大事なことだ。たとえ違った考えであっても、話し合うことで二人は同じ方向に目を向けられるだろうから。ただ結婚を決めたからと言って、すぐにすべてできなくてもいい。赤ん坊が言葉を一つ一つ覚えていくように、時間を掛けて自分たちらしい夫婦という形を作り上げることこそ大事なのだから。岡田と深雪の幸せを願いつつほほ笑むと、
「わかりました」
岡田の表情がきりっと引き締まった。
嬉しい報告を聞いたあとの昼食はおいしく感じた。だが、昼休みを終えてすぐ、別所は現実に引き戻された。決裁書類を持ってきた深雪が、遼子の様子が朝からおかしいと口にしたからだ。出勤したあとからずっと何かを考え込んでいるという。
遼子が思案し続けている理由として考えられるのは一つしかない。昨日元の部下と会って今後の身の振り方をどうしたものか考えているからで間違いないが、それだけだろうか?
不意に疑念が生じたが、別所はおくびにも出さなかった。
「今日一日、様子を見てもらえませんか? もしも明日も同じようなら話をしてみます」
心配そうな深雪を安心させるべく笑みを作ったものの本音を言えば不安だ。しかし待とうと言った手前明日まで様子を見るしかない。別所は胸に広がる不安を押さえ込み、もういちど深雪にほほ笑んだ。その後気掛かりなことが脳裏をよぎるたび、仕事の手が止まったが、どうにかしてやるべきことを終えられた。とっぷりと日が暮れた頃、そろそろ帰ろうと支度をしていたら、社長室のドアをノックする音がした。椅子の背もたれに掛けていたコートから手を引いて、机の上に置いている時計に目を走らせたら十九時になろうとしていた。
「どうぞ」
残業している社員だろう。何かあったのだろうか。そう思いつつ応じたら、
「麻生です」
扉の向こうから遼子の声がした。
「お入りください」
先ほど深雪から聞いた話が脳裏を掠める。首に巻いたカシミアのマフラーを取り外し、ドアに足を向ける。
「失礼します」
そろそろと部屋に入ったとたん、遼子の目が大きくなった。
「あ……。お帰りされる時間でしたね、すみません。じゃあ――」
「かまいませんよ。その代わり夕食に付き合ってください」
詫びる遼子の言葉を遮って「交換条件」を提示したら、彼女はホッとしたような顔をしたのだった。
好きだから、という単純な理由だけではない。遼子の人生に思いがけず触れてしまったこともだが、それ以外にも訳がある。
仮に、ここを辞めたあと高崎のもとでかつての部下と一緒に働いても、それで遼子の心を縛り続けるものが消えてなくなるわけではない。いくら年を重ねても、どれほど困難を乗り越えてきても、心に突き刺さったままのトゲはなかなかなくならない。ふとしたときに存在を主張するかのようにより深く突き刺さり、痛みをもって心に傷を負った出来事を突きつけてくる。それを何度も経験している身としては遼子を案じずにいられないのだ。でもだからといって今の自分が彼女にできることは何もない。そのような現状がどうにも歯がゆいが、今は待つしかないのだと自分に言い聞かせながら、別所は仕事をしていたのだった。
「社長、やることが多いのはわかっていますが、少しだけでも休んでください」
黙々と書類に目を通していたら岡田の声が耳に入った。それに心が安らぐような香りが鼻を掠める。
「カモミールティに蜂蜜を入れました。お願いですから飲んでください」
「ああ、ありがとう」
ペンを置き、差し出された白いマグカップに手を伸ばす。重みを手指に感じながら口元へ運び、湿り気を帯びた甘い香りを吸い込んだ。
「ホッとしますね」
心を覆う不安が薄れたのか頬が勝手に緩んだ。温かい湯気とともに茶を含むと緊張していた体からこわばりが徐々に抜けていく。椅子の背もたれに体を預け、ふうと息をついた直後、側にいる岡田が言いにくそうに言った。
「社長、先日は申し訳ありませんでした」
「うん?」
目線を上げて岡田の顔を見てみると、バツが悪そうな顔をしている。
「守るってなんですかと聞いたことです」
「答えは、見つかりましたか?」
ほほ笑んで問いかけたら、
「いえ、まだ。でも、吉永と自分たちの将来について話し合うことができました。それで、その……」
今度は気恥ずかしそうにしている。なんとなくだが、喜ばしい報告のような気がした。心躍らせながらそのときを待っていたら、視線の先で岡田は居住まいを正した。
「吉永と結婚します」
岡田は胸を張って、はっきり言った。
「そうか、良かった。君たちがどんな話をしてどのような結果にたどり着いたのかはわからないけれど一人相撲しないよう気をつけてくださいね。離婚を経験した男からのアドバイスです」
自分だけのことならまだいい。が、共に暮らす相手がいるのなら、すべてとはいかないまでも意思の確認や意識の共有は大事なことだ。たとえ違った考えであっても、話し合うことで二人は同じ方向に目を向けられるだろうから。ただ結婚を決めたからと言って、すぐにすべてできなくてもいい。赤ん坊が言葉を一つ一つ覚えていくように、時間を掛けて自分たちらしい夫婦という形を作り上げることこそ大事なのだから。岡田と深雪の幸せを願いつつほほ笑むと、
「わかりました」
岡田の表情がきりっと引き締まった。
嬉しい報告を聞いたあとの昼食はおいしく感じた。だが、昼休みを終えてすぐ、別所は現実に引き戻された。決裁書類を持ってきた深雪が、遼子の様子が朝からおかしいと口にしたからだ。出勤したあとからずっと何かを考え込んでいるという。
遼子が思案し続けている理由として考えられるのは一つしかない。昨日元の部下と会って今後の身の振り方をどうしたものか考えているからで間違いないが、それだけだろうか?
不意に疑念が生じたが、別所はおくびにも出さなかった。
「今日一日、様子を見てもらえませんか? もしも明日も同じようなら話をしてみます」
心配そうな深雪を安心させるべく笑みを作ったものの本音を言えば不安だ。しかし待とうと言った手前明日まで様子を見るしかない。別所は胸に広がる不安を押さえ込み、もういちど深雪にほほ笑んだ。その後気掛かりなことが脳裏をよぎるたび、仕事の手が止まったが、どうにかしてやるべきことを終えられた。とっぷりと日が暮れた頃、そろそろ帰ろうと支度をしていたら、社長室のドアをノックする音がした。椅子の背もたれに掛けていたコートから手を引いて、机の上に置いている時計に目を走らせたら十九時になろうとしていた。
「どうぞ」
残業している社員だろう。何かあったのだろうか。そう思いつつ応じたら、
「麻生です」
扉の向こうから遼子の声がした。
「お入りください」
先ほど深雪から聞いた話が脳裏を掠める。首に巻いたカシミアのマフラーを取り外し、ドアに足を向ける。
「失礼します」
そろそろと部屋に入ったとたん、遼子の目が大きくなった。
「あ……。お帰りされる時間でしたね、すみません。じゃあ――」
「かまいませんよ。その代わり夕食に付き合ってください」
詫びる遼子の言葉を遮って「交換条件」を提示したら、彼女はホッとしたような顔をしたのだった。
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