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《第三章》あなたには前を向いていてほしい

第二十八話

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『私ごとではありますが、富沢とみざわ法律事務所から高崎たかさき法律事務所へ移りました。』
 かつての部下・間宮まみやからの突然の便りは心の奥に押し込めていた罪悪感を蘇らせた。
 三年前、精神的に追いつめられて事務所を辞めることを決めた。その後、ろくに引き継ぎをしないまま彼女に任せたけれど丸投げしたようなものだ。
 別れた夫が急に姿を現す前に掛かってきた富沢の電話によると、自分が退所したあと間宮に任せたはずの仕事は高桑たかくわが受け持ったという。
『経験が足りない間宮より自分のほうが適任だと言ってきたんだ。だから任せたんだが……』
 任せたと富沢は言っていたが、もしかしたら高桑は間宮が仕事を手放さざるを得ない状況を作ったのかもしれない。たとえば自分にしたようにあらぬ噂を広め間宮を追いつめたとか。考えれば考えるほど、何も知らない富沢と身勝手としか言いようがない高桑に対する怒りが募っていった。
 どうすれば良かったのか。どうしたら間宮を守ってやれたのか。今考えても仕方がないことだとわかっているが、答えが出ない問いが頭から離れなかった。
遼子りょうこ先生……」
 書類に目を通していたら深雪の声が耳に入った。目線を上げると、心配そうにしている深雪みゆきが机の前に立っていた。
「お昼ですよ。御飯食べに行きましょう」
 目が合った直後、深雪の表情がほころぶ。
「え? もう……、そんな時間なの?」
 書類の山の麓に置いてあるスマホに目を走らせたらすでに正午を過ぎていた。
「ええ。今日のランチは冬野菜サラダとマカロニグラタンだそうです」
 一階にある喫茶店のランチは季節を感じさせるものが多い。もうすぐ11月になろうとしているからだろう、温かみを感じさせる内容だ。深雪が口にしたメニューを勝手に想像したところ胃が即座に反応した。
「おいしそうね」
「季節のランチがでる日は混み合います。行きましょう」
「そうね。行きましょう」
 考えなければならないことは山ほどある。が、思案するにも腹を満たさなければなるまい。そう気持ちを切り替えて、遼子は深雪とともに喫茶室へ向かったのだった。
 
 喫茶室はいつも以上に混雑していた。ビルで働く女性たちに甘いもとい優しいマスターがふだんの席を確保してくれていたため遼子と深雪はすぐに食事にありつけた。
 かぼちゃやかぶをスライスし、ちぢみほうれんそうと和えたサラダ。とろりとしたチーズが掛かる熱々のグラタン。デザートは凍ったミカンに飴を掛けたものだった。コーヒーではなく玄米茶を飲みつつ休んでいると、向かいに座っている深雪がずいと体を乗り出してきた。
「あの……、なにか、ありましたか?」
 少しずつ冬のたたずまいを感じさせるようになった中庭を眺めていたら、遠慮がちに尋ねられた。深雪に目をやると不安そうな顔をしている。
「朝からずっと考え事をされているようだったので気になって……」
 出社したあとから深雪からランチに誘われるまでを振り返ると、自分が逃げるように辞めたあとの間宮の状況を考え続けていたことに気がついた。深雪に向けていた目を伏せて遼子はため息をつく。
「仕事に集中していた、とは言えないわね」
 契約書の書面に記されているものをチェックはしていたが、それは機械的にだ。本来ならばさまざまな状況を考えて字面を追わなければならないのにできていなかった。
「それで、その……、なにか気になることでも?」
 目線を再び深雪に戻す。心許なさげなまなざしを向けられていた。
 深雪は、どこまで知っているのだろう。度々やってくる男が別れた夫だということも、彼が自分に会いに来ている理由も、知っているのは別所べっしょだけだ。ならばまだ誤魔化せる。しばし深雪と見つめ合いながら遼子は思案した。
「……これからのことを考えていたのよ」
「これからのこと、って、もしかして次の職場ですか?」
「ええ。実は……、別所さんの知り合いの弁護士から誘われてて……」
 嘘は言っていない。遼子は心の片隅に生まれた罪悪感から目をそらす。
「それ、もしかして、高崎さんですか?」
「高崎さんを知っているの?」
 深雪は「もちろんです」と明るい顔で言った。
「私が法務部に異動になったばかりの頃、高崎さんはまだ会社の顧問だったんです」
「そうだったの」
「ええ。でも、お父様の事務所を引き継ぐことになって、それで……」
 別所と高崎、それぞれから聞いた話どおりだ。
「そっかあ……。高崎さんのところなら良かった」
 だってと深雪は続ける。
「今療養中の弁護士は、実は高崎さんの事務所にいた方なんです。だからもしかしたら次に来るのは遼子先生かもしれないですね」
 そう言って深雪はにっこり笑った。
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