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生きす霊 序
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激しい雨が降っている。
プールをひっくり返したような大雨だ。
雨は屋根を激しく叩き、アフリカ音楽のようなビートを刻んでいる。
机に茶の入った湯飲みと餡子で包まれた菓子が並んでいる。
向かいには千鶴さんが座っている。
ここは千鶴さんの自宅で、早い話が私は彼女と喫茶を楽しんでいた。
彼女の家は谷中の古民家をリノベーションしたもので、伊勢にある彼女の本家が持っている不動産の一つだ。
風通しが良く、冬は暖房が効きにくいが夏は比較的快適に過ごせる。
今日のような典型的な梅雨時に訪れる場所としてはかなりいい選択しだと思う。
我々は仕事仲間でもあるが、遠い親戚でもあり、関係は良好だ。
なのでが危急の要件が無くとも会うことはあるし、無駄話もする。
今日は「本家から送られてきた赤福が余ったからもらって欲しい」という用件で呼び出されていた。
こちらも休養日であり、特にやることはない。
大体、雨の日にやりたいと思えることなどそう多くもない。
なのでこうして誘いに応じていた。
我々は仕事の時は勿論、伝承や怪談の話をしている。
では、仕事以外の時に何の話をしているかというと、やはり伝承や怪談の話をしている。
結局、それが我々の共通言語だからだ。
千鶴さんは日ごろから「話の合う相手が少なすぎて時々困る」と言っているが、彼女の話題についていける人間はそういないだろう。
シャーロック・ホームズのような変人についていけるのはワトソン先生ぐらいだし、エルキュール・ポワロと友人でいられるのがヘイスティングス大尉ぐらいだ。
私がそう言うと「失礼だな。フィリップ・マーロウほど孤独じゃないよ」と彼女は憤慨した。
彼女の他の話題として、千鶴さんが今まで渡航した国の話題が出ることもある。
なかなか興味深い話ではあるのだが、彼女の渡航先はエストニアやミャンマーといったあまり一般的と言えない場所であることが多いため結局、私は話についていけない。
それで、今日も結局こうして伝承や怪談の話をしている。
その中で一段と興味深い話が出た。
「二年ぐらい前かな……無料奉仕の路上占いをしてた時なんだけど」
彼女の収入源は魔術師の管理団体であるソサエティからの依頼か、あるいはその傘下にある祓い屋協会からの依頼、または、私の実家の寺などからの個人的なお願いによる報酬で、占いは完全なる趣味だ。
より正確を期して言うのであれば、彼女は占いはしていない。
占いに騙されないようにするための啓蒙活動をしている。
千鶴さんが言うに「世の占いの九割九分九厘はコールドリーディングかホットトリーディングかその両方の組み合わせ」らしい。
彼女は「占い師がいかに人を騙しているか」を啓蒙するために気が向いたときに路上に立ってこの活動を行っている。
話は二年ほど前。
いつものように千鶴さんが路上に立っていた時の事のことだ。
彼女が路上占いをする場所は時により変わるが最も多いのは新宿の小田急近辺だ、
オフィス街にほど近いという場所柄、客は仕事帰りの会社員が多い。
その日、「占い」の札を立てて行燈を灯した千鶴さんの所に三十歳ぐらいの若い男がやってきた。
地味だが整った顔立ちをしている彼女の元にはナンパ目的の男が寄ってくることもあるが、多くの場合寄ってくるのは占いが目的だ。
その男もご多分に漏れず占いが目的と見えた。
「何か悩みがありますね?」
若い男が千鶴さんの前に立ち、最初の発言をする前に先んじて彼女は声をかけた。
男は驚き、そして静かに頷いた。
男は悩みがあることを看破されて驚いたようだが、こんなのは驚くことでも何でもない。
普通、悩みの無い人間は占いに頼ったりなどしない。
「苦しい時の神頼み」と言うが、苦しい時の人間は神だろうと占いだろう頼れそうなものには何でも頼るものだ。
占い師の前に立った時点でその程度の推理は容易にできる。
「まず、あなた自身について占わせてください」
いつものパターンで、まず彼女は客の手相を見る。
実際、ここで何を見ているのかというと彼女は何も見ていない。
手相を見るのはただの演出だ。
そして、いつも持ち歩いている紙片を相手に渡す。
その紙には「あなた自身について」という題で、以下のような内容が数十行にわたって書かれている。
・あなたは打ち解けた雰囲気では自分を表現することができる
・あなたは小説や映画を作ろうと思ったことがあるが実際には完成させていない
・あなたには秘められたロマンチックな側面がある
・あなたは慎重な性格だが、時に大胆な行動をとることがある
・あなたは長年行ってみたいと思っている場所があるが実際には行ったことがない
・あなたは背中や腰に痛みを感じている
・あなたは四という数字に係わりがある。
これを見た客は口々に「当たっている」と驚愕する。
その若い男も驚愕した。
実際のところ、これもカラクリは単純だ。
千鶴さん御用達の紙片は大多数の人間に当てはまる一般論が書かれているだけで本質的には何も言い当てていない。
当たっていると感じるのは一般論を自分という人間の具体例に当て嵌めてしまうバーナム効果という心理学的効果であり、典型的なコールドリーディングの手口だ。
その一般論が何十行も続くのは「当たっている」と感じさせるものの絶対数も増やすためだ。
これはショットガンニングと呼ばれるテクニックで、「当たった」と騒いでいる超能力者はこの手法を使っている場合が多い。
要するにインチキの古典的にして典型的な手法である。
彼女の目的はあくまでも啓蒙活動なので金銭は取らない。
あくまでも啓蒙活動なので最後に種明かしをする。
彼女が人がいかに騙されやすいかを説くと、彼は静かに頷いた。
そしてそのまま去るかと思いきや、意外なことを口にした。
「それとは別に悩みを聞いてもらえませんか?」
今度は千鶴さんが驚く番だった。
「占いのインチキを占い師自らが暴いたのに?」
「ええ。だからこそ聞いて欲しいんです」
男性は明らかに憔悴している様子だった。
千鶴さんは変人ではあるが、悪人ではない。
男のただならぬ様子を見て、話を聞くことにした。
「僕の妻の話なんですが」
若い男は切り出した。
男は三十一歳で日本の成人男性の多くがそうであるように会社勤めをしている。
新卒で入った結構な大企業に勤め続けており、総合職というよくわからないポジションで日々の仕事をこなしている。
男は一年前に学生時代の恋人と結婚しており、彼の懸念とはその新妻のことだった。
男と妻の夫婦は小石川のアパートに住んでいる。
家を買うには貯蓄が不十分であり、まだ子供もいないので二人にとって2LDKの部屋は十分なものだった。
夫婦は共働きで、夫である男は新宿の会社につとめ妻は地域の公立小学校で教師をしている。
教師の朝は早いため、妻は先に家を出て、遅れて男も家を出る。
双方ともに幸いにして残業がさほど発生しない職場であるため、夫婦で過ごす時間は帰ってから十分にあり、そのことにさほど不満は感じていなかった。
半年ほど前のある日の事。
男は職場の昼休みで、職場近くのレストランに同僚と食事をとりに行った。
高層ビルに二十一階にある職場から降り、高層ビル群を仰ぎながら歩いている数メートル先の雑踏に見慣れた姿を見た。
男の妻だった、
男は不思議に思った。
妻が今頃どうしてここを歩いているのだろう。
昼休みの時間帯であれば、彼女は職場の学校で児童たちと給食を共にしているはずだ。
彼女の職場は小石川のアパートから自転車で十分の距離であり、新宿方面は全くの見当違い。こんなところに迷い込むはずもない。
同僚に一言断りを入れ、呼び留めてみようと思ったが彼女の姿は雑踏の中に溶けるように消えてしまった。
「見間違いだろうか?」と男は思った。
そう思えるぐらいに妻の姿は急激に消えてしまったのだ。
男の様子がおかしいことに気づき、同僚たちは何があったのか男に聞いた。
男は素直に「妻を見た気がする」と答えたが、同僚たちは「奥さん恋しさに幻覚でも見たんだろう」とからかうだけだった。
帰宅後、男は妻に「今日、昼間、新宿にいなかった?」と聞いてみた。
妻は「何言ってるの?そんなことあるわけないじゃない」と首をかしげるだけだった。
男は「やはり気のせいか」と思い、しばらくそのことを忘れていた。
だが、それで終わりではなかった。
最初にいるはずのない場所で妻を見た日から三か月後。
今度は打ち合わせで客先に向かう途中に妻の姿を見た。
昼前の出来事であり、場所は妻の職場とはまったく見当違いの大崎近辺だった。
帰って念のために妻に確認するとやはり妻は首をかしげるばかりだった。
それから、男が妻の姿を見る頻度は増えていった。
三か月に一度は二か月に一度になり、ついには一か月に一度になった。
「実は、つい昨日も見たんです」
男は言った。
加えて看過できない別の現象が発生し始めていた。
妻が謎の体調不良に陥ったのだ。
特にこの一か月余り、その状態は深刻さを増していた。
微熱が続き、職場を休みがちになった。
病院に行っても「ただの風邪」と言われるばかりで、解熱剤を飲んでも一向に収まらない。
藁をもつかむ思いで男は占いに手を出したのだ。
不幸中の幸いだったのは、最初に声をかけた占い師が千鶴さんだったことだ。
千鶴さんは話を聞いて、男の妻に何が起きたかすぐにわかった。
離魂病だ。
離魂病は読んで字のごとく、魂が肉体から離れてしまう病だ。
自分の意志で一時的に霊体を切り離す幽体離脱と違い、離魂病は自らの意思でコントロールすることができない。
そして、病状が進行すると魂と肉体は完全に引き離されてしまう。
つまり「死」だ。
西洋のドッペルゲンガーは離魂病と同一の現象とみなされている。
ドッペルゲンガーを見た人間は死期が近いといわれるが、それはつまり離魂病が進行している状態にあるということだ。
男が妻の姿をありえない場所で見る現象は頻度が上がっている。
つまり離魂病が末期症状に近づいているということを意味する。
千鶴さんは考えを巡らせた。
「これはあくまで素人考えですが」と前置きして千鶴は言った。
「お医者様が異常なしと言っているのであれば、気持ちの問題なのかもしれません。
病は気からとも言いますし、気から出た病なら気持ちで治せるかもしれません。
一度、精神科の受診をしてみてはいかがでしょうか。それと――」
男は神妙な顔で続きを待った。
続きを待つ男に、千鶴さんは一枚の呪符を渡した。
一般人に魔術の事を話すのはこの世界におけるご法度だ。
しかし、この呪符は千鶴さんの特製で魔術的な効果がある。
男の妻にはこれを持っていてもらわなければならない。
聡明な彼女はそのための理屈をその場で作り上げた。
「私はオカルトをあなたの目の前で否定しましたが、実はオカルトにも多少は意味があるんです」
男は身を乗り出した。
「『祈りは医学的な効果があるのか?』という命題の実験が過去に何度か行われています」
藪から棒の発言で男はポカンとしていた。
千鶴さんは意味のないことは言わない。
彼女なりの計算があってこのような突拍子もない話をしているのだ。
「ある実験で研究者たちは重い心臓病患者を二つのグループに分けました。
半分のグループは本人の知らないところで宗教団体に祈ってもらい、半分は祈ってもらいませんでした。
結果、両グループに有意な差は現れませんでした。つまり、医学的に祈りの効果は認められなかったということです。
大事なのはこの先で――」
彼女は続けた。
「自分のために家族が祈ってくれていると知っている患者は、祈ってもらわない患者よりも回復率がわずかに高いことが判明しています。
この呪符はお祈りみたいなものです。病気が良くなるお守りだと奥様に渡してください。
気から出た病ならばお祈りぐらいの効果はあると思います」
男は納得したようだった。
「ありがとうございます」と頭を下げるとその場を辞した。
〇
「それからどうなったんですか?」
話が終わり、私がその後を問うと「さあ」と千鶴さんは曖昧に否定した。
いつもと違って歯切れが悪い。
どうにも嫌な感じだ。
「千鶴さんが渡した呪符は離魂病の治療薬みたいなものなんですよね?」
私は祈るような気持ちで尋ねた。
千鶴さんは少し考えこんで、静かに頭を振った。
「離魂病はね、便宜上"病"と呼ばれてるけど体質と言ったほうが本質に近いんだ。それも背が高いとか指が短いとかそういう類のどうしようもないレベルの体質だね。
実際に離魂病は同じ家系に発生することが多いと言われていて、遺伝して発症した人間に対して根本的な解決策は無い。
私が渡した呪符には病状を緩和する効果はあるけど治療はできない。成長期を過ぎた人間に成長ホルモンを投与しても効果に限度があるのと同じだよ」
湯呑の中で茶が冷めかけている。
千鶴さんは所在無さげに冷めかけた茶の入った湯飲みを揺すった。
「世の中にはどうにもならないこともある。そういうことだよ」
彼女はそれ以上、何も語らなかった。
プールをひっくり返したような大雨だ。
雨は屋根を激しく叩き、アフリカ音楽のようなビートを刻んでいる。
机に茶の入った湯飲みと餡子で包まれた菓子が並んでいる。
向かいには千鶴さんが座っている。
ここは千鶴さんの自宅で、早い話が私は彼女と喫茶を楽しんでいた。
彼女の家は谷中の古民家をリノベーションしたもので、伊勢にある彼女の本家が持っている不動産の一つだ。
風通しが良く、冬は暖房が効きにくいが夏は比較的快適に過ごせる。
今日のような典型的な梅雨時に訪れる場所としてはかなりいい選択しだと思う。
我々は仕事仲間でもあるが、遠い親戚でもあり、関係は良好だ。
なのでが危急の要件が無くとも会うことはあるし、無駄話もする。
今日は「本家から送られてきた赤福が余ったからもらって欲しい」という用件で呼び出されていた。
こちらも休養日であり、特にやることはない。
大体、雨の日にやりたいと思えることなどそう多くもない。
なのでこうして誘いに応じていた。
我々は仕事の時は勿論、伝承や怪談の話をしている。
では、仕事以外の時に何の話をしているかというと、やはり伝承や怪談の話をしている。
結局、それが我々の共通言語だからだ。
千鶴さんは日ごろから「話の合う相手が少なすぎて時々困る」と言っているが、彼女の話題についていける人間はそういないだろう。
シャーロック・ホームズのような変人についていけるのはワトソン先生ぐらいだし、エルキュール・ポワロと友人でいられるのがヘイスティングス大尉ぐらいだ。
私がそう言うと「失礼だな。フィリップ・マーロウほど孤独じゃないよ」と彼女は憤慨した。
彼女の他の話題として、千鶴さんが今まで渡航した国の話題が出ることもある。
なかなか興味深い話ではあるのだが、彼女の渡航先はエストニアやミャンマーといったあまり一般的と言えない場所であることが多いため結局、私は話についていけない。
それで、今日も結局こうして伝承や怪談の話をしている。
その中で一段と興味深い話が出た。
「二年ぐらい前かな……無料奉仕の路上占いをしてた時なんだけど」
彼女の収入源は魔術師の管理団体であるソサエティからの依頼か、あるいはその傘下にある祓い屋協会からの依頼、または、私の実家の寺などからの個人的なお願いによる報酬で、占いは完全なる趣味だ。
より正確を期して言うのであれば、彼女は占いはしていない。
占いに騙されないようにするための啓蒙活動をしている。
千鶴さんが言うに「世の占いの九割九分九厘はコールドリーディングかホットトリーディングかその両方の組み合わせ」らしい。
彼女は「占い師がいかに人を騙しているか」を啓蒙するために気が向いたときに路上に立ってこの活動を行っている。
話は二年ほど前。
いつものように千鶴さんが路上に立っていた時の事のことだ。
彼女が路上占いをする場所は時により変わるが最も多いのは新宿の小田急近辺だ、
オフィス街にほど近いという場所柄、客は仕事帰りの会社員が多い。
その日、「占い」の札を立てて行燈を灯した千鶴さんの所に三十歳ぐらいの若い男がやってきた。
地味だが整った顔立ちをしている彼女の元にはナンパ目的の男が寄ってくることもあるが、多くの場合寄ってくるのは占いが目的だ。
その男もご多分に漏れず占いが目的と見えた。
「何か悩みがありますね?」
若い男が千鶴さんの前に立ち、最初の発言をする前に先んじて彼女は声をかけた。
男は驚き、そして静かに頷いた。
男は悩みがあることを看破されて驚いたようだが、こんなのは驚くことでも何でもない。
普通、悩みの無い人間は占いに頼ったりなどしない。
「苦しい時の神頼み」と言うが、苦しい時の人間は神だろうと占いだろう頼れそうなものには何でも頼るものだ。
占い師の前に立った時点でその程度の推理は容易にできる。
「まず、あなた自身について占わせてください」
いつものパターンで、まず彼女は客の手相を見る。
実際、ここで何を見ているのかというと彼女は何も見ていない。
手相を見るのはただの演出だ。
そして、いつも持ち歩いている紙片を相手に渡す。
その紙には「あなた自身について」という題で、以下のような内容が数十行にわたって書かれている。
・あなたは打ち解けた雰囲気では自分を表現することができる
・あなたは小説や映画を作ろうと思ったことがあるが実際には完成させていない
・あなたには秘められたロマンチックな側面がある
・あなたは慎重な性格だが、時に大胆な行動をとることがある
・あなたは長年行ってみたいと思っている場所があるが実際には行ったことがない
・あなたは背中や腰に痛みを感じている
・あなたは四という数字に係わりがある。
これを見た客は口々に「当たっている」と驚愕する。
その若い男も驚愕した。
実際のところ、これもカラクリは単純だ。
千鶴さん御用達の紙片は大多数の人間に当てはまる一般論が書かれているだけで本質的には何も言い当てていない。
当たっていると感じるのは一般論を自分という人間の具体例に当て嵌めてしまうバーナム効果という心理学的効果であり、典型的なコールドリーディングの手口だ。
その一般論が何十行も続くのは「当たっている」と感じさせるものの絶対数も増やすためだ。
これはショットガンニングと呼ばれるテクニックで、「当たった」と騒いでいる超能力者はこの手法を使っている場合が多い。
要するにインチキの古典的にして典型的な手法である。
彼女の目的はあくまでも啓蒙活動なので金銭は取らない。
あくまでも啓蒙活動なので最後に種明かしをする。
彼女が人がいかに騙されやすいかを説くと、彼は静かに頷いた。
そしてそのまま去るかと思いきや、意外なことを口にした。
「それとは別に悩みを聞いてもらえませんか?」
今度は千鶴さんが驚く番だった。
「占いのインチキを占い師自らが暴いたのに?」
「ええ。だからこそ聞いて欲しいんです」
男性は明らかに憔悴している様子だった。
千鶴さんは変人ではあるが、悪人ではない。
男のただならぬ様子を見て、話を聞くことにした。
「僕の妻の話なんですが」
若い男は切り出した。
男は三十一歳で日本の成人男性の多くがそうであるように会社勤めをしている。
新卒で入った結構な大企業に勤め続けており、総合職というよくわからないポジションで日々の仕事をこなしている。
男は一年前に学生時代の恋人と結婚しており、彼の懸念とはその新妻のことだった。
男と妻の夫婦は小石川のアパートに住んでいる。
家を買うには貯蓄が不十分であり、まだ子供もいないので二人にとって2LDKの部屋は十分なものだった。
夫婦は共働きで、夫である男は新宿の会社につとめ妻は地域の公立小学校で教師をしている。
教師の朝は早いため、妻は先に家を出て、遅れて男も家を出る。
双方ともに幸いにして残業がさほど発生しない職場であるため、夫婦で過ごす時間は帰ってから十分にあり、そのことにさほど不満は感じていなかった。
半年ほど前のある日の事。
男は職場の昼休みで、職場近くのレストランに同僚と食事をとりに行った。
高層ビルに二十一階にある職場から降り、高層ビル群を仰ぎながら歩いている数メートル先の雑踏に見慣れた姿を見た。
男の妻だった、
男は不思議に思った。
妻が今頃どうしてここを歩いているのだろう。
昼休みの時間帯であれば、彼女は職場の学校で児童たちと給食を共にしているはずだ。
彼女の職場は小石川のアパートから自転車で十分の距離であり、新宿方面は全くの見当違い。こんなところに迷い込むはずもない。
同僚に一言断りを入れ、呼び留めてみようと思ったが彼女の姿は雑踏の中に溶けるように消えてしまった。
「見間違いだろうか?」と男は思った。
そう思えるぐらいに妻の姿は急激に消えてしまったのだ。
男の様子がおかしいことに気づき、同僚たちは何があったのか男に聞いた。
男は素直に「妻を見た気がする」と答えたが、同僚たちは「奥さん恋しさに幻覚でも見たんだろう」とからかうだけだった。
帰宅後、男は妻に「今日、昼間、新宿にいなかった?」と聞いてみた。
妻は「何言ってるの?そんなことあるわけないじゃない」と首をかしげるだけだった。
男は「やはり気のせいか」と思い、しばらくそのことを忘れていた。
だが、それで終わりではなかった。
最初にいるはずのない場所で妻を見た日から三か月後。
今度は打ち合わせで客先に向かう途中に妻の姿を見た。
昼前の出来事であり、場所は妻の職場とはまったく見当違いの大崎近辺だった。
帰って念のために妻に確認するとやはり妻は首をかしげるばかりだった。
それから、男が妻の姿を見る頻度は増えていった。
三か月に一度は二か月に一度になり、ついには一か月に一度になった。
「実は、つい昨日も見たんです」
男は言った。
加えて看過できない別の現象が発生し始めていた。
妻が謎の体調不良に陥ったのだ。
特にこの一か月余り、その状態は深刻さを増していた。
微熱が続き、職場を休みがちになった。
病院に行っても「ただの風邪」と言われるばかりで、解熱剤を飲んでも一向に収まらない。
藁をもつかむ思いで男は占いに手を出したのだ。
不幸中の幸いだったのは、最初に声をかけた占い師が千鶴さんだったことだ。
千鶴さんは話を聞いて、男の妻に何が起きたかすぐにわかった。
離魂病だ。
離魂病は読んで字のごとく、魂が肉体から離れてしまう病だ。
自分の意志で一時的に霊体を切り離す幽体離脱と違い、離魂病は自らの意思でコントロールすることができない。
そして、病状が進行すると魂と肉体は完全に引き離されてしまう。
つまり「死」だ。
西洋のドッペルゲンガーは離魂病と同一の現象とみなされている。
ドッペルゲンガーを見た人間は死期が近いといわれるが、それはつまり離魂病が進行している状態にあるということだ。
男が妻の姿をありえない場所で見る現象は頻度が上がっている。
つまり離魂病が末期症状に近づいているということを意味する。
千鶴さんは考えを巡らせた。
「これはあくまで素人考えですが」と前置きして千鶴は言った。
「お医者様が異常なしと言っているのであれば、気持ちの問題なのかもしれません。
病は気からとも言いますし、気から出た病なら気持ちで治せるかもしれません。
一度、精神科の受診をしてみてはいかがでしょうか。それと――」
男は神妙な顔で続きを待った。
続きを待つ男に、千鶴さんは一枚の呪符を渡した。
一般人に魔術の事を話すのはこの世界におけるご法度だ。
しかし、この呪符は千鶴さんの特製で魔術的な効果がある。
男の妻にはこれを持っていてもらわなければならない。
聡明な彼女はそのための理屈をその場で作り上げた。
「私はオカルトをあなたの目の前で否定しましたが、実はオカルトにも多少は意味があるんです」
男は身を乗り出した。
「『祈りは医学的な効果があるのか?』という命題の実験が過去に何度か行われています」
藪から棒の発言で男はポカンとしていた。
千鶴さんは意味のないことは言わない。
彼女なりの計算があってこのような突拍子もない話をしているのだ。
「ある実験で研究者たちは重い心臓病患者を二つのグループに分けました。
半分のグループは本人の知らないところで宗教団体に祈ってもらい、半分は祈ってもらいませんでした。
結果、両グループに有意な差は現れませんでした。つまり、医学的に祈りの効果は認められなかったということです。
大事なのはこの先で――」
彼女は続けた。
「自分のために家族が祈ってくれていると知っている患者は、祈ってもらわない患者よりも回復率がわずかに高いことが判明しています。
この呪符はお祈りみたいなものです。病気が良くなるお守りだと奥様に渡してください。
気から出た病ならばお祈りぐらいの効果はあると思います」
男は納得したようだった。
「ありがとうございます」と頭を下げるとその場を辞した。
〇
「それからどうなったんですか?」
話が終わり、私がその後を問うと「さあ」と千鶴さんは曖昧に否定した。
いつもと違って歯切れが悪い。
どうにも嫌な感じだ。
「千鶴さんが渡した呪符は離魂病の治療薬みたいなものなんですよね?」
私は祈るような気持ちで尋ねた。
千鶴さんは少し考えこんで、静かに頭を振った。
「離魂病はね、便宜上"病"と呼ばれてるけど体質と言ったほうが本質に近いんだ。それも背が高いとか指が短いとかそういう類のどうしようもないレベルの体質だね。
実際に離魂病は同じ家系に発生することが多いと言われていて、遺伝して発症した人間に対して根本的な解決策は無い。
私が渡した呪符には病状を緩和する効果はあるけど治療はできない。成長期を過ぎた人間に成長ホルモンを投与しても効果に限度があるのと同じだよ」
湯呑の中で茶が冷めかけている。
千鶴さんは所在無さげに冷めかけた茶の入った湯飲みを揺すった。
「世の中にはどうにもならないこともある。そういうことだよ」
彼女はそれ以上、何も語らなかった。
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