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おまけ
アランネル侯爵邸滞在一日目の夜
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アランネル侯爵の邸にお世話になることになった一日目。夕食を終えてからエイミーのいる部屋に通してもらった。
エイミーは着飾ったアネットにしばらくの間戸惑った様子だったが、そのうち慣れてアネットに抱きついてくる。
「あ、よだれがついちゃう」
綺麗なドレスは見ている分には好きだけど、つくづく実用的じゃないと思う。汚れたりしわになったりするのが気になって、エイミーの相手も満足にできない。
抱きしめるのもためらっているアネットに、ケヴィンが声をかけた。
「汚れたら洗えばいいだろう」
「ドレスは洗えないんですってば。繊細な布地を使ってたりするから、一度水に浸けたらそれだけでダメになってしまうんです」
「そうか」
「エイミーの世話をしている時は、エプロンをしてもいいですか?」
「……」
黙り込んでしまったケヴィンを見て、アネットはエプロンをつけてほしくないんだなと納得する。確かに、フリルやレースのついたきれいなドレスにエプロンは似合わない。……ケヴィンがいない時だけこっそりつけようとアネットはもくろむ。
あとは始終エイミーについていてくれそうな乳母や、頻繁にここを訪れそうな侯爵夫人からどう了解を得ようかと思案していると、ケヴィンに膝の上にいたエイミーをひょいと取り上げられた。
毛足の長いマットの上にあぐらをかいているケヴィンは、組んだ足の上にエイミーを置いてじっと顔をのぞき込む。男の人とあまり接したことのないエイミーは、怖れをなしたようにただケヴィンの目を見返していたが、そのうち動き出してケヴィンの足の上から降りて太ももの上によじ登ったり、ケヴィンの指を興味深そうにいじったりかじったりをはじめた。やがてうとうとしだして、ケヴィンの腕の中ですやすやと眠りにつく。
おだやかなエイミーの寝顔をしばし優しい目で眺めていたケヴィンは、ふと顔を上げてアネットを見た。
「今日は疲れただろう」
「そうでもないですよ」
荷物をまとめるのはほとんどロアルがやってくれたし、アランネル侯爵邸まで馬車で移動できたし、疲れる要素はどこにもない。けれど、お風呂に入れられて洗われてしまったり、着たことのない── 一度だけ、ケヴィンの寝室に送り込まれた時にちょっとの間着てたけど、あれはカウントしないということで──ドレスを着てお上品な夕食の席に着いて。それでずいぶんと気疲れをしてしまったような気がする。
心の中でひとりごちてると、ケヴィンは「そうか」と言って、エイミーを抱いたままそっと立ち上がり、静かにベビーベットに運んだ。
「あとを頼む」
「かしこまりました」
アネットをよそに乳母と言葉を交わす。
またエイミーから離れなくてはならないんだろうか。不安を覚えながら振り返ったケヴィンを見つめると、ケヴィンはほんのわずか苦笑めいたものを表情に浮かべ、マットの上に立ちすくんでいるアネットに言った。
「もう休もう」
マットに上がるために脱いだヒールに足を差し込みながら、アネットは戸惑う。エイミーと一緒に寝られないということだろうか。
ヒールを履き終えると、ケヴィンはアネットの肩に手を回して歩き出す。廊下に続く扉に向かうのに不安を覚えて傍らのケヴィンを見上げるけれど、ケヴィンはアネットの視線に気付きながら何も言わない。廊下に出たところでかろうじて「ここは子ども部屋だ。君の部屋はこちらになる」と言って隣の部屋に連れ込んだ。
「あのっ、あたしってエイミーと別の部屋で寝るんですか?」
扉を閉めるケヴィンにアネットが慌てて背後から尋ねると、振り返ったケヴィンは気まりわるそうな顔をして言った。
「普段はエイミーと一緒に寝てくれてもかまわない。……だが、今夜はわたしと一緒にいてくれないか?」
えっと、それって──。
顔を赤くするアネットを抱き締め、ケヴィンは耳元にささやく。
「もう一人子どもがほしいんだ」
──は?
甘い雰囲気も何もなく直接的に言われ、アネットはぽかんとする。開いたその口にケヴィンの唇が覆いかぶさり、二年ぶりのキスは最初から深くなる。歯列の奥にまでケヴィンの舌が入り込み、アネットの舌をからめとる。
アネットはケヴィンとしかキスをしたことがなく、泥酔したケヴィンに押し倒された時のことを含めてもこれで四回目。巧みに口腔を刺激され、呼吸もままならずにすぐにぼうっとしてしまう。
ケヴィンにしがみついていられなくなってその場に崩れ落ちそうになると、背中に回された腕がアネットを支え、そのまま抱え込まれるようにして寝室に連れていかれる。
“妻”になるのを了承したからにはこういうことを嫌とは言わないけど、展開の早さについていけいけなくてまともな反応を返せない。
ベッドの端に座らされたと思ったらのしかかられて、自然に後ろに倒れ込んだ。キスが再びはじまり、ドレスの胸元を合わせる紐がするすると解かれていく。
前の時には気付かなかったけど、これって、これって──!
唇が離れた時、息も絶え絶えにアネットは言った。
「ケヴィン様って、あたし以外の人とも経験がありますよね!」
紐をほどく手がぴたりと止まり、唇を耳元へずらそうとしていたケヴィンは顔を離してアネットの瞳を凝視する。
「……どうしてそのようなことを?」
「聞いたことがありますもん! 経験がないと服を脱がすにしたって上手くいかないって」
ケヴィンの目がすうっと細くなる。
「誰から聞いた?」
常から低いのに、ことさらに低くなる声。
な、何かまずいこと言っちゃった?
ひやひやしながらアネットは答える。
「し、下働きしてた時、仕事中にそういう話題も何度か聞いたことがあるんです……」
おかげでアネットは、初めての時も何とかパニックにならずにすんだのだが。
あたしってバカ。自分から耳年増だってバラさなきゃいけない状況作ってどーするのよ……。
結婚していたわけでもないのにこういうことに詳しい女を、ケヴィンはどう思うだろうか。
おそるおそる様子をうかがうと、ケヴィンはアネットをにらみ付けるようにしながらもう一度尋ねてきた。
「男から聞いたわけではないんだな?」
質問の意図がわからないまま、アネットはこくこくうなずく。するとケヴィンは安心したように表情をゆるませる。
ずるいと思う。めったに表情を動かさない人だから、奇跡のように見せられるやわらかな笑みに、何もかも忘れてぼうっと見入ってしまう。
その隙にケヴィンはアネットの唇の端にキスを一つ落とし、さきほどの続きを再開した。
耳元に吐息を吹きかけ、耳朶を口に含み舌先で転がす。ドレスの前合わせは完全に解かれ、大きくて固いケヴィンの手がドレスの中に忍び込み、布製のコルセットの上から胸をもみしだく。
好きな人に他人に触れさせることのない場所を触れられて、ぞくぞくとした感覚が背筋を這う。
「あ、の」
それでもさっきの問いに返事をもらっていないからと声をかければ、ケヴィンは顔を上げてそれを制した。
「もしかして、わたしとこういうことをするのが嫌なのか?」
思いがけないことを言われ、アネットは慌てて首を横に振る。ケヴィンはそれを見て、ほっとしたような、困ったような笑みを見せた。
「なら、おとなしくわたしに身をゆだねてくれないか? 君とこうすることを、ずっと焦がれてきたんだ」
……ホントにずるいと思う。そんなこと言われたら、展開の早さに戸惑う気持ちも申し訳なく思ってしまう。
アネットは気持ちがまだついてこなくてためらう気持ちを押さえ込んで、ケヴィンの首に腕を回した。
回した腕を引っ張られるように体を起こされて、ドレスもいつの間にか紐を解かれていたコルセットも、ペチコートも、すべての衣服が取り払われる。
ケヴィンは床に落としたアネットの衣服の上に、自分の上着とシャツを無造作に落とした。
前の時もそうだった。床に落とすのさえもどかしそうに、性急に衣服を脱ぎ捨てる。
アネットはその様子を、素肌をさらす腿をすり合わせ、両腕で胸を隠してぼうっと見つめた。
ブーツを脱ぎ、ズボンのベルトをゆるめながら振り返ったケヴィンは、アネットの視線に気付いて照れをごまかすように顔をしかめる。ベルトをゆるめたズボンをそのままに、ケヴィンはアネットに覆いかぶさり、あごを持ち上げてキスをした。キスの最中に抱きしめられ、アネットは再びベッドに押し倒される。
ここは広いベッドのはじっこで、ケヴィンは片膝だけをベッドの上に置き、不安定な体勢のままキスを続け、手のひらをアネットの体に滑らせる。
そんな切羽詰まった様子も、求めてくれるからだと思えば気持ちは高まっていく。
飽くことなく与えられる口づけが、触れ合う素肌の温かさが、心を、体を満たしていく。
やがて唇へのキスは終わり、ケヴィンの唇は耳元から順にアネットの体を下っていった。
時折吸いつかれ、ぴりっとした甘い痛みが得も言われぬ感覚をアネットの身の内に呼び起こす。その感 覚がたまらず、体をのけぞらせると、ケヴィンは持ち上がったアネットの胸元に顔をうずめた。
愛撫は次第に激しくなっていく。
一度想いを遂げ、出産も経験したにもかかわらず、長らく触れられたことのないその場所はきつく閉じ、再びつながるまでにかなりの時間を要した。
多少の痛みを伴いながらも一つになれた時、アネットのまなじりから涙がこぼれる。
前回が最初で最後だと思ってたから、この瞬間をとてもいとおしく思えて。
「痛むか?」
鼻先が当たりそうなほど間近で、ケヴィンがささやくように問いかけてくる。アネットは首を横に振った。
「いいえ」
痛むから涙が出るんじゃない。
「嬉しいんです。嬉しくて……」
これ以上言葉にならない……。
言葉の代わりにほほえめば、ケヴィンもほほえみを返してくれる。
口づけられ、抱きしめられて、あとはただ互いの想いをぶつけ合うように、激情に飲まれていった。
激情が過ぎれば穏やかな時間が訪れる。
抱きしめられうとうとしていると、ケヴィンがぽつんと口にした。
「君以外に経験がないとは言わない」
何の話かと思って顔を上げれば、気まずそうなケヴィンの視線とかちあう。
どこか困ったようにも見えるその顔にいたずら心が芽生えて、アネットはついこう返してしまう。
「それって“あたし以外にも経験がある”って意味ですよね?」
ケヴィンは動揺して喉をつまらせる。そして観念したようにまぶたを閉じた。
「はじめての時、君にひどく痛い思いをさせてしまっただろう? ……戦場には商売に来る女性がいて、彼女たちが手ほどきをしてくれるというので、それで……」
「彼女“たち”ねぇ……」
商売にしていた人たちと親しくしていたし、男の人にはそういうのが必要な時があると聞いたこともある。一度は逃げたアネットが文句を言う筋合いはない気もするけれど、こういう時のケヴィンを知っているのがアネット一人ではないのが残念でならない。
アネットが不満を隠さずにつぶやくと、ケヴィンはぎくっと体を震わせる。
「はじめての時も、割と手慣れてるような気がしたんだけど……」
ケヴィンは手のひらで自分の目元を覆った。
「それは……」
何だかかわいそうになってきて、アネットからフォローを入れてみた。
「どうせヘリオット様にそそのかされたんでしょ? 練習しとくべきだとか言われて」
「……」
「あたしとしては……練習もあたしとしてほしかったです」
ちょっとだけうらみがましく言うと、ケヴィンがぎゅっと抱き寄せてきた。
「すまない。二度と他の女性を抱かないから。だから約束してくれないか? ──君も、わたし以外の男性に抱かれるようなことはしないと」
そんなこと、当たり前なのに。
アネットは思わず笑ってしまう。
このタイミングで笑い出したことを不審に思ってか、ケヴィンは体を離してアネットの顔をのぞき込む。不安そうにするケヴィンに、アネットはほほえんだ。
「結婚できなくても、あたしはケヴィン様の妻ですよね? 他の男の人に抱かれたりなんかしたら不貞になっちゃうじゃないですか」
アネットがそう言っても、ケヴィンは不安顔を崩さない。
さっき、「男から聞いたわけではないんだな?」と言ったケヴィンは、アネットにそういう話のできる深い仲の男がいることを恐れたのかもしれない。
居もしない男の影に不安を覚えるケヴィンが、アネットにはかわいく見えてしまう。
しょうがないなと思いながら、アネットはきっぱり言い切った。
「ていうか、ケヴィン様以外の男の人に抱かれるなんて嫌です」
「そうか」
ケヴィンは嬉しそうに目を細め、アネットをさらに抱き寄せて額に唇を寄せた。
翌日、アランネル侯爵夫人イリーナは、ケヴィンがしてくれなければならなかった話を終えてからこう言った。
「それで、わたくしも条件を出したの」
陽気に言われ、アネットは何やら嫌な予感を覚える。
「……何ですか?」
おそるおそる問うと、イリーナはにこにこと答えた。
「あなたとケヴィン様のお子を生まれた時からお世話したいの。エイミーもかわいいけど、もう一歳を過ぎてしまったでしょう? ほんとうは生まれてすぐの時に抱っこしたかったのよ。だからもう一人ほしいってケヴィン様にお願いしたの」
あの直接的な話が持ち出されたのはそれでか!
アネットは頭痛を覚えて、軽くうつむき額に手を置く。するとイリーナはにまにましながらアネットの顔をのぞき込んだ。
「ケヴィン様は、さっそくわたくしの願いを聞き届けてくださったのかしら? 二年ぶりの逢瀬ですもの。さぞかしあつ~い夜だったんでしょうね」
「……」
他人の話を聞くのは慣れていても、自分が当事者となるといたたまれないことこの上ない。
うつむいたまま黙っていると、イリーナは自分の鎖骨の下辺りを指先でとんとんと叩いてみせた。
「採寸の時、下着を脱がなかったから誰にも見えてないって思ったのかもしれないけど、このあたり、ちらちら見えてたわよ」
アネットは勢いよく顔を上げ、イリーナが示した所と同じ場所をとっさに手のひらで隠す。真っ赤になって口をぱくぱくさせるアネットに、イリーナは無邪気な笑顔を見せた。
「こういうお話のできるお友達がいなかったから、あなたが来てくれて嬉しいわ。名目だけではなくて、ほんとうに仲良くなりましょうね、アネット」
こういうお話って、どーいうお話がしたいんだろう……。
首根っこをつかまえられた小動物のような気分になって、アネットは空笑いしてごまかした。
──・──・──
後日。
再び話題を持ち出され、戦々恐々としたアネットに、イリーナはけろりとして言った。
「ちょこっとだけ深い恋バナができればいいなって思っただけよ? 根掘り穴掘り聞くわけないじゃない。やあね。それで怯えてたの?」
そう言ってころころと笑う。
脱力しながら、アネットはこれからもこの人に振り回され続けるだろうことを予感し、こっそりため息をついた。
エイミーは着飾ったアネットにしばらくの間戸惑った様子だったが、そのうち慣れてアネットに抱きついてくる。
「あ、よだれがついちゃう」
綺麗なドレスは見ている分には好きだけど、つくづく実用的じゃないと思う。汚れたりしわになったりするのが気になって、エイミーの相手も満足にできない。
抱きしめるのもためらっているアネットに、ケヴィンが声をかけた。
「汚れたら洗えばいいだろう」
「ドレスは洗えないんですってば。繊細な布地を使ってたりするから、一度水に浸けたらそれだけでダメになってしまうんです」
「そうか」
「エイミーの世話をしている時は、エプロンをしてもいいですか?」
「……」
黙り込んでしまったケヴィンを見て、アネットはエプロンをつけてほしくないんだなと納得する。確かに、フリルやレースのついたきれいなドレスにエプロンは似合わない。……ケヴィンがいない時だけこっそりつけようとアネットはもくろむ。
あとは始終エイミーについていてくれそうな乳母や、頻繁にここを訪れそうな侯爵夫人からどう了解を得ようかと思案していると、ケヴィンに膝の上にいたエイミーをひょいと取り上げられた。
毛足の長いマットの上にあぐらをかいているケヴィンは、組んだ足の上にエイミーを置いてじっと顔をのぞき込む。男の人とあまり接したことのないエイミーは、怖れをなしたようにただケヴィンの目を見返していたが、そのうち動き出してケヴィンの足の上から降りて太ももの上によじ登ったり、ケヴィンの指を興味深そうにいじったりかじったりをはじめた。やがてうとうとしだして、ケヴィンの腕の中ですやすやと眠りにつく。
おだやかなエイミーの寝顔をしばし優しい目で眺めていたケヴィンは、ふと顔を上げてアネットを見た。
「今日は疲れただろう」
「そうでもないですよ」
荷物をまとめるのはほとんどロアルがやってくれたし、アランネル侯爵邸まで馬車で移動できたし、疲れる要素はどこにもない。けれど、お風呂に入れられて洗われてしまったり、着たことのない── 一度だけ、ケヴィンの寝室に送り込まれた時にちょっとの間着てたけど、あれはカウントしないということで──ドレスを着てお上品な夕食の席に着いて。それでずいぶんと気疲れをしてしまったような気がする。
心の中でひとりごちてると、ケヴィンは「そうか」と言って、エイミーを抱いたままそっと立ち上がり、静かにベビーベットに運んだ。
「あとを頼む」
「かしこまりました」
アネットをよそに乳母と言葉を交わす。
またエイミーから離れなくてはならないんだろうか。不安を覚えながら振り返ったケヴィンを見つめると、ケヴィンはほんのわずか苦笑めいたものを表情に浮かべ、マットの上に立ちすくんでいるアネットに言った。
「もう休もう」
マットに上がるために脱いだヒールに足を差し込みながら、アネットは戸惑う。エイミーと一緒に寝られないということだろうか。
ヒールを履き終えると、ケヴィンはアネットの肩に手を回して歩き出す。廊下に続く扉に向かうのに不安を覚えて傍らのケヴィンを見上げるけれど、ケヴィンはアネットの視線に気付きながら何も言わない。廊下に出たところでかろうじて「ここは子ども部屋だ。君の部屋はこちらになる」と言って隣の部屋に連れ込んだ。
「あのっ、あたしってエイミーと別の部屋で寝るんですか?」
扉を閉めるケヴィンにアネットが慌てて背後から尋ねると、振り返ったケヴィンは気まりわるそうな顔をして言った。
「普段はエイミーと一緒に寝てくれてもかまわない。……だが、今夜はわたしと一緒にいてくれないか?」
えっと、それって──。
顔を赤くするアネットを抱き締め、ケヴィンは耳元にささやく。
「もう一人子どもがほしいんだ」
──は?
甘い雰囲気も何もなく直接的に言われ、アネットはぽかんとする。開いたその口にケヴィンの唇が覆いかぶさり、二年ぶりのキスは最初から深くなる。歯列の奥にまでケヴィンの舌が入り込み、アネットの舌をからめとる。
アネットはケヴィンとしかキスをしたことがなく、泥酔したケヴィンに押し倒された時のことを含めてもこれで四回目。巧みに口腔を刺激され、呼吸もままならずにすぐにぼうっとしてしまう。
ケヴィンにしがみついていられなくなってその場に崩れ落ちそうになると、背中に回された腕がアネットを支え、そのまま抱え込まれるようにして寝室に連れていかれる。
“妻”になるのを了承したからにはこういうことを嫌とは言わないけど、展開の早さについていけいけなくてまともな反応を返せない。
ベッドの端に座らされたと思ったらのしかかられて、自然に後ろに倒れ込んだ。キスが再びはじまり、ドレスの胸元を合わせる紐がするすると解かれていく。
前の時には気付かなかったけど、これって、これって──!
唇が離れた時、息も絶え絶えにアネットは言った。
「ケヴィン様って、あたし以外の人とも経験がありますよね!」
紐をほどく手がぴたりと止まり、唇を耳元へずらそうとしていたケヴィンは顔を離してアネットの瞳を凝視する。
「……どうしてそのようなことを?」
「聞いたことがありますもん! 経験がないと服を脱がすにしたって上手くいかないって」
ケヴィンの目がすうっと細くなる。
「誰から聞いた?」
常から低いのに、ことさらに低くなる声。
な、何かまずいこと言っちゃった?
ひやひやしながらアネットは答える。
「し、下働きしてた時、仕事中にそういう話題も何度か聞いたことがあるんです……」
おかげでアネットは、初めての時も何とかパニックにならずにすんだのだが。
あたしってバカ。自分から耳年増だってバラさなきゃいけない状況作ってどーするのよ……。
結婚していたわけでもないのにこういうことに詳しい女を、ケヴィンはどう思うだろうか。
おそるおそる様子をうかがうと、ケヴィンはアネットをにらみ付けるようにしながらもう一度尋ねてきた。
「男から聞いたわけではないんだな?」
質問の意図がわからないまま、アネットはこくこくうなずく。するとケヴィンは安心したように表情をゆるませる。
ずるいと思う。めったに表情を動かさない人だから、奇跡のように見せられるやわらかな笑みに、何もかも忘れてぼうっと見入ってしまう。
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それでもさっきの問いに返事をもらっていないからと声をかければ、ケヴィンは顔を上げてそれを制した。
「もしかして、わたしとこういうことをするのが嫌なのか?」
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ここは広いベッドのはじっこで、ケヴィンは片膝だけをベッドの上に置き、不安定な体勢のままキスを続け、手のひらをアネットの体に滑らせる。
そんな切羽詰まった様子も、求めてくれるからだと思えば気持ちは高まっていく。
飽くことなく与えられる口づけが、触れ合う素肌の温かさが、心を、体を満たしていく。
やがて唇へのキスは終わり、ケヴィンの唇は耳元から順にアネットの体を下っていった。
時折吸いつかれ、ぴりっとした甘い痛みが得も言われぬ感覚をアネットの身の内に呼び起こす。その感 覚がたまらず、体をのけぞらせると、ケヴィンは持ち上がったアネットの胸元に顔をうずめた。
愛撫は次第に激しくなっていく。
一度想いを遂げ、出産も経験したにもかかわらず、長らく触れられたことのないその場所はきつく閉じ、再びつながるまでにかなりの時間を要した。
多少の痛みを伴いながらも一つになれた時、アネットのまなじりから涙がこぼれる。
前回が最初で最後だと思ってたから、この瞬間をとてもいとおしく思えて。
「痛むか?」
鼻先が当たりそうなほど間近で、ケヴィンがささやくように問いかけてくる。アネットは首を横に振った。
「いいえ」
痛むから涙が出るんじゃない。
「嬉しいんです。嬉しくて……」
これ以上言葉にならない……。
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何の話かと思って顔を上げれば、気まずそうなケヴィンの視線とかちあう。
どこか困ったようにも見えるその顔にいたずら心が芽生えて、アネットはついこう返してしまう。
「それって“あたし以外にも経験がある”って意味ですよね?」
ケヴィンは動揺して喉をつまらせる。そして観念したようにまぶたを閉じた。
「はじめての時、君にひどく痛い思いをさせてしまっただろう? ……戦場には商売に来る女性がいて、彼女たちが手ほどきをしてくれるというので、それで……」
「彼女“たち”ねぇ……」
商売にしていた人たちと親しくしていたし、男の人にはそういうのが必要な時があると聞いたこともある。一度は逃げたアネットが文句を言う筋合いはない気もするけれど、こういう時のケヴィンを知っているのがアネット一人ではないのが残念でならない。
アネットが不満を隠さずにつぶやくと、ケヴィンはぎくっと体を震わせる。
「はじめての時も、割と手慣れてるような気がしたんだけど……」
ケヴィンは手のひらで自分の目元を覆った。
「それは……」
何だかかわいそうになってきて、アネットからフォローを入れてみた。
「どうせヘリオット様にそそのかされたんでしょ? 練習しとくべきだとか言われて」
「……」
「あたしとしては……練習もあたしとしてほしかったです」
ちょっとだけうらみがましく言うと、ケヴィンがぎゅっと抱き寄せてきた。
「すまない。二度と他の女性を抱かないから。だから約束してくれないか? ──君も、わたし以外の男性に抱かれるようなことはしないと」
そんなこと、当たり前なのに。
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居もしない男の影に不安を覚えるケヴィンが、アネットにはかわいく見えてしまう。
しょうがないなと思いながら、アネットはきっぱり言い切った。
「ていうか、ケヴィン様以外の男の人に抱かれるなんて嫌です」
「そうか」
ケヴィンは嬉しそうに目を細め、アネットをさらに抱き寄せて額に唇を寄せた。
翌日、アランネル侯爵夫人イリーナは、ケヴィンがしてくれなければならなかった話を終えてからこう言った。
「それで、わたくしも条件を出したの」
陽気に言われ、アネットは何やら嫌な予感を覚える。
「……何ですか?」
おそるおそる問うと、イリーナはにこにこと答えた。
「あなたとケヴィン様のお子を生まれた時からお世話したいの。エイミーもかわいいけど、もう一歳を過ぎてしまったでしょう? ほんとうは生まれてすぐの時に抱っこしたかったのよ。だからもう一人ほしいってケヴィン様にお願いしたの」
あの直接的な話が持ち出されたのはそれでか!
アネットは頭痛を覚えて、軽くうつむき額に手を置く。するとイリーナはにまにましながらアネットの顔をのぞき込んだ。
「ケヴィン様は、さっそくわたくしの願いを聞き届けてくださったのかしら? 二年ぶりの逢瀬ですもの。さぞかしあつ~い夜だったんでしょうね」
「……」
他人の話を聞くのは慣れていても、自分が当事者となるといたたまれないことこの上ない。
うつむいたまま黙っていると、イリーナは自分の鎖骨の下辺りを指先でとんとんと叩いてみせた。
「採寸の時、下着を脱がなかったから誰にも見えてないって思ったのかもしれないけど、このあたり、ちらちら見えてたわよ」
アネットは勢いよく顔を上げ、イリーナが示した所と同じ場所をとっさに手のひらで隠す。真っ赤になって口をぱくぱくさせるアネットに、イリーナは無邪気な笑顔を見せた。
「こういうお話のできるお友達がいなかったから、あなたが来てくれて嬉しいわ。名目だけではなくて、ほんとうに仲良くなりましょうね、アネット」
こういうお話って、どーいうお話がしたいんだろう……。
首根っこをつかまえられた小動物のような気分になって、アネットは空笑いしてごまかした。
──・──・──
後日。
再び話題を持ち出され、戦々恐々としたアネットに、イリーナはけろりとして言った。
「ちょこっとだけ深い恋バナができればいいなって思っただけよ? 根掘り穴掘り聞くわけないじゃない。やあね。それで怯えてたの?」
そう言ってころころと笑う。
脱力しながら、アネットはこれからもこの人に振り回され続けるだろうことを予感し、こっそりため息をついた。
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シンプルなワンピースをさらりと着ただけの豪商の娘だ。
ビートはロコへと結婚を申し込むのだそうだ。
しかし伯爵令嬢でありながら商品の目利きにも精通しているマリアンヌは首を傾げる。
ロコの着ているワンピース、それは仕立てこそシンプルなものの、生地と縫製は間違いなく極上で……つまりは、恐ろしく値の張っている服装だったからだ。
そうとも知らないビートは……
※ゆるゆる設定です

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
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