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第四章 シグルド20歳~ ケヴィン26歳~ アネット25歳(?)~
四章-9
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アネットはアランネル侯爵夫人イリーナの友人として、また、ケヴィンの内縁の妻としてアランネル侯爵邸の住人となった。
結婚まで至らなくても、貴族と使用人の恋愛が成就したという話は可能な限り公にしないほうがいい。それを聞いた使用人の立場の者たちが夢を見て邸内の秩序を乱す恐れがあるし、そうしたことを危惧する貴族たちは、貴族と使用人の恋愛をことさらに嫌うからだ。── 一部の者たちの場合は表向きそういう態度を取るだけで実は……ということがあったりするのだが。
そのためアネットは、クリフォード公爵家の使用人たちに見られて素性を明かされてしまわないよう、邸の外に出ることはなかった。来客の目に止まることもはばかって、訪問客があると聞くと部屋に閉じこもり、帰るまで息をひそめるように部屋にこもっている。
そうした生活は傍からは不自由に見えるのだが、アネット自身は特に不便を感じることもなく、イリーナはアネットを本当の友人に思ってくれて連日のように遊びに来てくれるし、エイミーの世話を乳母に手伝ってもらえることもあって悠々とした日々を送っていた。
そうした生活が始まって三年が過ぎたころのこと。
アネットが夜なべをしているところに帰ってきたケヴィンは、アネットが袋の中に隠しきれなかったけばけばしい赤色のドレスを目にして、手のひらで額を押さえてうなだれた。
これは下街でしていた繕い物の仕事だ。アパートを引き払うとき、請け負った仕事は断れないとアネットが言い、ケヴィンはしぶしぶ承諾して繕い物も侯爵邸に運んだ。繕いの済んだ衣類はロアルがこっそりと運んでくれたが、ロアルはアネットに仕事を頼みたいという者たちを断り切れず、新しい仕事を持ってきてしまうのだ。よくしてもらった恩があるからとアネットが言えば、アネットに苦労をかけた負い目のあるケヴィンに止められるはずがない。
こうしてアネットは、今も仕事を続けていた。
許可はしていても、仕事を続けることにケヴィンはいい顔をしない。わかっているからアネットもできるだけ見せないようにしていたが、今夜はここへ帰ってくるとは思わなかったので油断していた。
だけど、いつになくヘコんだ様子のケヴィンに、アネットは首をかしげる。
いまさらな反応のような気がするんだけど……。
「ごめんなさい」
とりあえず謝ってみる。するとケヴィンはもう一方の手を軽く上げた。
「いや、少々疲れを覚えただけだ」
それは大変と、アネットは見えなくなる程度にドレスをしまい、さきほどまで座っていたソファにケヴィンを座らせる。
「紅茶かお酒を用意する?」
内縁の妻になって三年もたてば、口調もすっかりタメ口になる。ケヴィンはむしろ、そうやってアネットが自然な態度でいてくれることを好むらしい。今では下手に敬語を使うといぶかしがられるくらいだ。
「いや、いい」
それっきり黙り込んでしまうので、アネットは仕方なしにケヴィンの隣に座る。
「今日は遠方の所領から出てきたご令嬢が到着した日よね? お世話しなきゃいけないだろうから今晩は来ないかと思ってた」
ケヴィンはある令嬢の話を聞き付け、二十日ほど前、王都から遠く離れた実家の所領に暮らす令嬢を訪ねていった。それから十日ほどして戻ってきたケヴィンは「首尾よくいった」と言って割合機嫌がよかったのに。
「……もしかして令嬢に不都合があって到着されなかったとか?」
「いや、予定通り到着した」
だったら何でこんなに疲れてるんだろう……?
上着のそでを引っ張って話の先をうながすと、額に手のひらを当てたままケヴィンは話し出す。
「長らく田舎で貧乏暮らしをしていたせいか、妙なところがある令嬢なんだ。所領を訪ねていったときもどこかおかしいとは思っていたが……」
ヘコむケヴィンを久しぶりに見た。前回は王子様を戦場に行かせて自分は王都に残らなければならない状況の時だったか。めったに落ち込んだ様子を見せないケヴィンを落ち込ませる令嬢とは……なかなか見どころあるのではと思ったのは、ケヴィンには内緒だ。
「でも、ケヴィンが理想通りだって言った令嬢なのよね? 多少の妙は目をつむればいいんじゃない?」
敬語をやめても最初のうちは“様”をつけていたのだけど、イリーナのことを“様”つけで呼ばなくなっているのに気づいたケヴィンにつけるのをやめてほしいと言われた。どうやらイリーナと親しげに呼び合っているのを妬かれたようだ。夫婦同然になる前には気付かなかったそんなかわいい一面を知って、アネットはたまらなくうれしかったりする。
「目をつむって何とかなることならいいのだが……」
ケヴィンにしては変に歯切れが悪い。少し考えてからアネットは尋ねた。
「どんなご令嬢なの?」
「十三の歳まで王都で暮らしていたためか、礼儀作法については問題ない。だが、五年間に田舎の所領でつちかってきた精神に問題がある。貴族の食事を豪勢だと言って気後れしたり、用意したドレスが贅沢すぎるからと実家から持ってきた庶民の服を着たがるし、使用人に着替えや風呂の世話をされるのを嫌がったり」
「あらら。あたしと一緒ね」
アネットもそうした貴族の暮らしになかなかなじめず、食事は一緒に食べる人と合わせなければと我慢したが、ドレスはエイミーの世話の際に汚しそうでコワかったので無理を言ってその時だけエプロンをつけさせてもらっているし、着替えや風呂の手伝いは強行に拒んで今は誰もつかない。
ケヴィンはじろっとアネットを一瞥し、それから頭を抱えてしまう。
「おまけに暇をみつけては内職するんだ……」
これには声をたてて笑ってしまった。
「あはは。これだけの話だと、そのご令嬢とあたしってそっくりね」
「笑い事じゃない。貴族の令嬢が内職をするなんて前代未聞だ。やめるよう言うには言ったが、落ち着かないからやらせてくれと言われては……」
さらに吹き出しそうになってしまい、アネットは慌てて自分の口を手で覆う。
アネットも、繕い物の仕事は使用人に任せてくれないかとケヴィンに頼まれたことがある。
貴族の女性は、普通繕い物などしない。そうした仕事は使用人でも下働きのような下級の使用人がすることで、貴族が庶民のような仕事に手をつけるのは恥とされているからだ。アネットの扱いを貴族の女性と同じにしようとするケヴィンは、それが何かの拍子に外へバレて、ただでさえ内縁の妻ということでよく言われていないアネットをこれ以上貶めたくないと言う。けれど、今までエイミーの世話をほとんど自分でしていたのに、乳母がついてくれてすることが減った上に繕い物の仕事までできなくなると落ち着かなくてしょうがない。イリーナが趣味の刺しゅうや楽器をかなでるといったことに誘ってくれるが、働いてお金を得る生活が身にしみているアネットには、お金を稼がない生活が居心地悪いのだ。それもあって繕い物の仕事がやめられない。
きっとその令嬢も、内職でお金を稼ぐことが身についてしまっていて、やらなければどうにも落ち着けないのだろう。愛妾になるかもしれない女性だから、ケヴィンは彼女の評判が落ちるようなことはさせたくない。けれどアネットが繕い物をすることで心を落ちつけているということを知っているから、多分令嬢にもやめろと強く言えないのだ。
令嬢に振り回されているケヴィンに同情する気持ちもあるが、やっぱり笑いは止められない。
「そんなにあたしと似てるご令嬢がみつかるなんて、すっごい偶然ね。きっと国王陛下もそのご令嬢を気に入ってくれるわ。ほら、よく言うじゃない。兄弟は好みがよく似るって」
従兄弟同士だけど、まるで兄弟のように近しい間柄だから、きっとケヴィンが好ましいと思った令嬢は国王シグルドにも気に入られる。
釈然としない様子のケヴィンの頬に手を添えて、自分のほうに引き寄せながら、アネットは頬とあごの間辺りに軽くキスをした。
「何事も、なるようにしかなりませんって」
「──そうだな」
ケヴィンは口元に笑みを浮かべると、両腕で包み込むようにアネットを抱き締める。
あこがれだったふかふかなベッド。それも毎日ということになると、ふかふかすぎて寝付けなくて、ケヴィンがわざわざ可能な限りふかふかなベッドを用意してくれたというのに、早い時期に音を上げて少しマットの固いベッドに替えてもらった。
そのベッドに仰向けになったケヴィンは、素肌をさらした左腕でアネットの裸の肩を抱いてぶつぶつとつぶやいた。
「だいたい、陛下はまだ二十三歳なのだから、この先いくらでも世継ぎをもうけられるだろうに、周囲がとやかくうるさいから愛妾が必要だなどという話になるんだ」
ケヴィンはいつもこうだ。最中はこれでもかというくらい甘々しくしてくれるのに、気が済むと早々に現実へ立ち戻ってしまう。
ベッドになだれ込む前の話の続きなのだろう。
「世継ぎ問題があるにしても、他人の夫婦関係にそう口をはさんだところで、何とかなるものでもあるまいに。それを口さがない者たちがうわさであおりたてるから、話が難しくなっていくんだ。他人の色恋を騒ぎ立てる者たちの気が知れん」
ケヴィンの肩口に頭をすりよせていたアネットは、ケヴィンに寄りそって仰向けになり、肘をベッドについて頭を起こした。
「お城勤めする人たちにも、国王様や王妃様といったら雲の上の存在のような遠い方々だから、きっと物語を聞いて語り継いでいってるような気分なんじゃない?」
くすくす笑いながらアネットがこう言うと、ケヴィンは嫌そうにわずかに眉をひそめる。
「あたしが下働きだったころ、うわさは数少ない娯楽の一つだったわ。目新しいうわさにはすぐに飛びついて面白おかしく話し合って、それが毎日の楽しみだったの」
そのうわさ話の中で、アネットはケヴィンのことを知った。だからアネットがはじめてケヴィンに肩を貸したとき、アネットにとってケヴィンは知らない人じゃなかった。
知らない人じゃなくても、やはりアネットにとって遠い存在で。
あの時──十三年前のことを思い出すと、こんなにケヴィンとの距離が近いことがいまだに不思議でならない。
結ばれるはずのない人だった。
今でも結婚という結びつきがないから、完全に結ばれたとは言えない。でも今、こんなに近くにいて、 この先一生離れないで一緒にいられると信じられる。
かなうはずのない恋に苦しんだ。
身を引き裂かれるような思いをして離れようとしたこともあった。
一時の感情に流されてエイミーを宿してしまった時、もう二度と会えないと涙した。
いろんなことがあったけれど、アネットは今、本心からこう言える。
あたしはらっきーだ、と。
捨てられたのにクリフォード公爵に拾われて、自分をいつくしんでくれたオルタンヌに育てられ、ケヴィンに出会って、エイミーを授かった。
エイミーを宿した時、アネットはあきらめたけどケヴィンはあきらめないでくれた。
おかげで、今この時がある。
これから先、何事もなく平穏に過ごせることはないだろう。でもこのしあわせは、これから先もずっと続いていく。
「……どうした?」
ケヴィンに声をかけられて、アネットはふふっと笑い声をもらす。
「あたしはほんとに、らっきーだなぁって思って」
急にそんなことを言い出したアネットに、ケヴィンはわずかに不審の表情を見せる。が、すぐに口元に笑みを浮かべて、ケヴィンの胸元に置かれたアネットの手を握り込む。
「君がらっきーなのは、君自身が頑張ったからだ。苦労をしてもいつも明るく前向きでいたから、君は幸運をこの手に引き寄せた。──わたしは、そんな君の側にいられて支えることができてしあわせだし、誇りにも思う」
ケヴィンの言葉に嬉しくなって、アネットは伸びあがってケヴィンの唇に口づけた。
──・──・──
ほしいと思ってなかった時はたったの一回だったのに、ほしいと思うときはなかなかできないのが不思議なところだ。
アネットがアランネル侯爵の邸に身を寄せ、ケヴィンの内縁の妻になってからもうすぐ四年になる。
ケヴィンが多忙を極めあまり夫婦生活を営めなかったということもあるが、なかなかアネットにその兆しが見えず、先ごろようやく第二子に恵まれたことが判明した。
「タイミングからしたら、あのときの子よねぇ? あたしたちって危機的状況に追い込まれないと子どもができなかったりするのかも?」
二人きりの時アネットがこっそり言うと、ケヴィンもそう思ったのか眉間にしわを寄せ難しい顔をする。
ケヴィンを悩ませたかの令嬢は、見事国王の心を射止め愛妾になった。
そのあといろいろあって、──そう、いろいろあってアネットとケヴィンも危機的状況に追い込まれたのだけど。──それらがすべて解決したところで、令嬢はついに国王とゴールインした。
ゴールインしてほどなく、令嬢は待望の第一子を懐妊する。
そして何故かアネットに、王妃陛下主催のお茶会への招待状が届いた。
「──何で?」
「……先日、機会があって君のことを陛下に打ち明けたんだ」
ケヴィンは渋い顔をして説明するが、問題はそこじゃない。
アネットは身分を偽ってはいるが、その偽りの身分も子爵家の血を引く庶民でしかない。ケヴィンの正式な妻でもないのだから、身分的に王城に上がることも高貴な身分の方に謁見するのも許されない立場だ。
「そうじゃなくて、あたしが招待されてもいいの?」
「その集まりにはヘリオットの妻も参加する。出産を控えた女性が出産経験のある女性にアドバイスをもらうという趣旨の、私的な集まりにする予定だったそうなのだが」
「あ、ヘリオット様の奥さんも懐妊したんだ」
「ああ。まだまだ人手が足りない時に困ったものだ」
「それ、奥さんに言っちゃダメよ。妊娠中はデリケートなんだから」
「……」
黙り込んだということは、すでに手遅れかそれに近しいことをしてしまった後なのかもしれない。でも反論しないということは反省しているだろうから、気付いてないふりをする。
ケヴィンは咳払いをして話を切り替えた。
「それでどうする?」
「え?」
「これは招待であって命令ではない。行く行かないは君が決めていい。だが、できれば招待に応じてくれないか? 君のことを長年黙っていたことで陛下に不興を買ってしまって、政務に支障が出る有様なんだ。君と会うまで口を利かないとまで言われてしまって……」
そう告げるケヴィンの様子がまたもやヘコんでいるようで、アネットはついつい笑ってしまった。
「もちろん行くわよ」
アネットが笑うと、表情に乏しいケヴィンもわずかに顔をほころばせる。
アネットがただの下働きだったら絶対に会えるはずのなかった、ケヴィンの愛しの王子様と、その王子様をしあわせにしたお姫様に会える。
積み重なっていくらっきーに、アネットはしあわせをかみしめた。
第四章 完
らっきー♪ 完結
結婚まで至らなくても、貴族と使用人の恋愛が成就したという話は可能な限り公にしないほうがいい。それを聞いた使用人の立場の者たちが夢を見て邸内の秩序を乱す恐れがあるし、そうしたことを危惧する貴族たちは、貴族と使用人の恋愛をことさらに嫌うからだ。── 一部の者たちの場合は表向きそういう態度を取るだけで実は……ということがあったりするのだが。
そのためアネットは、クリフォード公爵家の使用人たちに見られて素性を明かされてしまわないよう、邸の外に出ることはなかった。来客の目に止まることもはばかって、訪問客があると聞くと部屋に閉じこもり、帰るまで息をひそめるように部屋にこもっている。
そうした生活は傍からは不自由に見えるのだが、アネット自身は特に不便を感じることもなく、イリーナはアネットを本当の友人に思ってくれて連日のように遊びに来てくれるし、エイミーの世話を乳母に手伝ってもらえることもあって悠々とした日々を送っていた。
そうした生活が始まって三年が過ぎたころのこと。
アネットが夜なべをしているところに帰ってきたケヴィンは、アネットが袋の中に隠しきれなかったけばけばしい赤色のドレスを目にして、手のひらで額を押さえてうなだれた。
これは下街でしていた繕い物の仕事だ。アパートを引き払うとき、請け負った仕事は断れないとアネットが言い、ケヴィンはしぶしぶ承諾して繕い物も侯爵邸に運んだ。繕いの済んだ衣類はロアルがこっそりと運んでくれたが、ロアルはアネットに仕事を頼みたいという者たちを断り切れず、新しい仕事を持ってきてしまうのだ。よくしてもらった恩があるからとアネットが言えば、アネットに苦労をかけた負い目のあるケヴィンに止められるはずがない。
こうしてアネットは、今も仕事を続けていた。
許可はしていても、仕事を続けることにケヴィンはいい顔をしない。わかっているからアネットもできるだけ見せないようにしていたが、今夜はここへ帰ってくるとは思わなかったので油断していた。
だけど、いつになくヘコんだ様子のケヴィンに、アネットは首をかしげる。
いまさらな反応のような気がするんだけど……。
「ごめんなさい」
とりあえず謝ってみる。するとケヴィンはもう一方の手を軽く上げた。
「いや、少々疲れを覚えただけだ」
それは大変と、アネットは見えなくなる程度にドレスをしまい、さきほどまで座っていたソファにケヴィンを座らせる。
「紅茶かお酒を用意する?」
内縁の妻になって三年もたてば、口調もすっかりタメ口になる。ケヴィンはむしろ、そうやってアネットが自然な態度でいてくれることを好むらしい。今では下手に敬語を使うといぶかしがられるくらいだ。
「いや、いい」
それっきり黙り込んでしまうので、アネットは仕方なしにケヴィンの隣に座る。
「今日は遠方の所領から出てきたご令嬢が到着した日よね? お世話しなきゃいけないだろうから今晩は来ないかと思ってた」
ケヴィンはある令嬢の話を聞き付け、二十日ほど前、王都から遠く離れた実家の所領に暮らす令嬢を訪ねていった。それから十日ほどして戻ってきたケヴィンは「首尾よくいった」と言って割合機嫌がよかったのに。
「……もしかして令嬢に不都合があって到着されなかったとか?」
「いや、予定通り到着した」
だったら何でこんなに疲れてるんだろう……?
上着のそでを引っ張って話の先をうながすと、額に手のひらを当てたままケヴィンは話し出す。
「長らく田舎で貧乏暮らしをしていたせいか、妙なところがある令嬢なんだ。所領を訪ねていったときもどこかおかしいとは思っていたが……」
ヘコむケヴィンを久しぶりに見た。前回は王子様を戦場に行かせて自分は王都に残らなければならない状況の時だったか。めったに落ち込んだ様子を見せないケヴィンを落ち込ませる令嬢とは……なかなか見どころあるのではと思ったのは、ケヴィンには内緒だ。
「でも、ケヴィンが理想通りだって言った令嬢なのよね? 多少の妙は目をつむればいいんじゃない?」
敬語をやめても最初のうちは“様”をつけていたのだけど、イリーナのことを“様”つけで呼ばなくなっているのに気づいたケヴィンにつけるのをやめてほしいと言われた。どうやらイリーナと親しげに呼び合っているのを妬かれたようだ。夫婦同然になる前には気付かなかったそんなかわいい一面を知って、アネットはたまらなくうれしかったりする。
「目をつむって何とかなることならいいのだが……」
ケヴィンにしては変に歯切れが悪い。少し考えてからアネットは尋ねた。
「どんなご令嬢なの?」
「十三の歳まで王都で暮らしていたためか、礼儀作法については問題ない。だが、五年間に田舎の所領でつちかってきた精神に問題がある。貴族の食事を豪勢だと言って気後れしたり、用意したドレスが贅沢すぎるからと実家から持ってきた庶民の服を着たがるし、使用人に着替えや風呂の世話をされるのを嫌がったり」
「あらら。あたしと一緒ね」
アネットもそうした貴族の暮らしになかなかなじめず、食事は一緒に食べる人と合わせなければと我慢したが、ドレスはエイミーの世話の際に汚しそうでコワかったので無理を言ってその時だけエプロンをつけさせてもらっているし、着替えや風呂の手伝いは強行に拒んで今は誰もつかない。
ケヴィンはじろっとアネットを一瞥し、それから頭を抱えてしまう。
「おまけに暇をみつけては内職するんだ……」
これには声をたてて笑ってしまった。
「あはは。これだけの話だと、そのご令嬢とあたしってそっくりね」
「笑い事じゃない。貴族の令嬢が内職をするなんて前代未聞だ。やめるよう言うには言ったが、落ち着かないからやらせてくれと言われては……」
さらに吹き出しそうになってしまい、アネットは慌てて自分の口を手で覆う。
アネットも、繕い物の仕事は使用人に任せてくれないかとケヴィンに頼まれたことがある。
貴族の女性は、普通繕い物などしない。そうした仕事は使用人でも下働きのような下級の使用人がすることで、貴族が庶民のような仕事に手をつけるのは恥とされているからだ。アネットの扱いを貴族の女性と同じにしようとするケヴィンは、それが何かの拍子に外へバレて、ただでさえ内縁の妻ということでよく言われていないアネットをこれ以上貶めたくないと言う。けれど、今までエイミーの世話をほとんど自分でしていたのに、乳母がついてくれてすることが減った上に繕い物の仕事までできなくなると落ち着かなくてしょうがない。イリーナが趣味の刺しゅうや楽器をかなでるといったことに誘ってくれるが、働いてお金を得る生活が身にしみているアネットには、お金を稼がない生活が居心地悪いのだ。それもあって繕い物の仕事がやめられない。
きっとその令嬢も、内職でお金を稼ぐことが身についてしまっていて、やらなければどうにも落ち着けないのだろう。愛妾になるかもしれない女性だから、ケヴィンは彼女の評判が落ちるようなことはさせたくない。けれどアネットが繕い物をすることで心を落ちつけているということを知っているから、多分令嬢にもやめろと強く言えないのだ。
令嬢に振り回されているケヴィンに同情する気持ちもあるが、やっぱり笑いは止められない。
「そんなにあたしと似てるご令嬢がみつかるなんて、すっごい偶然ね。きっと国王陛下もそのご令嬢を気に入ってくれるわ。ほら、よく言うじゃない。兄弟は好みがよく似るって」
従兄弟同士だけど、まるで兄弟のように近しい間柄だから、きっとケヴィンが好ましいと思った令嬢は国王シグルドにも気に入られる。
釈然としない様子のケヴィンの頬に手を添えて、自分のほうに引き寄せながら、アネットは頬とあごの間辺りに軽くキスをした。
「何事も、なるようにしかなりませんって」
「──そうだな」
ケヴィンは口元に笑みを浮かべると、両腕で包み込むようにアネットを抱き締める。
あこがれだったふかふかなベッド。それも毎日ということになると、ふかふかすぎて寝付けなくて、ケヴィンがわざわざ可能な限りふかふかなベッドを用意してくれたというのに、早い時期に音を上げて少しマットの固いベッドに替えてもらった。
そのベッドに仰向けになったケヴィンは、素肌をさらした左腕でアネットの裸の肩を抱いてぶつぶつとつぶやいた。
「だいたい、陛下はまだ二十三歳なのだから、この先いくらでも世継ぎをもうけられるだろうに、周囲がとやかくうるさいから愛妾が必要だなどという話になるんだ」
ケヴィンはいつもこうだ。最中はこれでもかというくらい甘々しくしてくれるのに、気が済むと早々に現実へ立ち戻ってしまう。
ベッドになだれ込む前の話の続きなのだろう。
「世継ぎ問題があるにしても、他人の夫婦関係にそう口をはさんだところで、何とかなるものでもあるまいに。それを口さがない者たちがうわさであおりたてるから、話が難しくなっていくんだ。他人の色恋を騒ぎ立てる者たちの気が知れん」
ケヴィンの肩口に頭をすりよせていたアネットは、ケヴィンに寄りそって仰向けになり、肘をベッドについて頭を起こした。
「お城勤めする人たちにも、国王様や王妃様といったら雲の上の存在のような遠い方々だから、きっと物語を聞いて語り継いでいってるような気分なんじゃない?」
くすくす笑いながらアネットがこう言うと、ケヴィンは嫌そうにわずかに眉をひそめる。
「あたしが下働きだったころ、うわさは数少ない娯楽の一つだったわ。目新しいうわさにはすぐに飛びついて面白おかしく話し合って、それが毎日の楽しみだったの」
そのうわさ話の中で、アネットはケヴィンのことを知った。だからアネットがはじめてケヴィンに肩を貸したとき、アネットにとってケヴィンは知らない人じゃなかった。
知らない人じゃなくても、やはりアネットにとって遠い存在で。
あの時──十三年前のことを思い出すと、こんなにケヴィンとの距離が近いことがいまだに不思議でならない。
結ばれるはずのない人だった。
今でも結婚という結びつきがないから、完全に結ばれたとは言えない。でも今、こんなに近くにいて、 この先一生離れないで一緒にいられると信じられる。
かなうはずのない恋に苦しんだ。
身を引き裂かれるような思いをして離れようとしたこともあった。
一時の感情に流されてエイミーを宿してしまった時、もう二度と会えないと涙した。
いろんなことがあったけれど、アネットは今、本心からこう言える。
あたしはらっきーだ、と。
捨てられたのにクリフォード公爵に拾われて、自分をいつくしんでくれたオルタンヌに育てられ、ケヴィンに出会って、エイミーを授かった。
エイミーを宿した時、アネットはあきらめたけどケヴィンはあきらめないでくれた。
おかげで、今この時がある。
これから先、何事もなく平穏に過ごせることはないだろう。でもこのしあわせは、これから先もずっと続いていく。
「……どうした?」
ケヴィンに声をかけられて、アネットはふふっと笑い声をもらす。
「あたしはほんとに、らっきーだなぁって思って」
急にそんなことを言い出したアネットに、ケヴィンはわずかに不審の表情を見せる。が、すぐに口元に笑みを浮かべて、ケヴィンの胸元に置かれたアネットの手を握り込む。
「君がらっきーなのは、君自身が頑張ったからだ。苦労をしてもいつも明るく前向きでいたから、君は幸運をこの手に引き寄せた。──わたしは、そんな君の側にいられて支えることができてしあわせだし、誇りにも思う」
ケヴィンの言葉に嬉しくなって、アネットは伸びあがってケヴィンの唇に口づけた。
──・──・──
ほしいと思ってなかった時はたったの一回だったのに、ほしいと思うときはなかなかできないのが不思議なところだ。
アネットがアランネル侯爵の邸に身を寄せ、ケヴィンの内縁の妻になってからもうすぐ四年になる。
ケヴィンが多忙を極めあまり夫婦生活を営めなかったということもあるが、なかなかアネットにその兆しが見えず、先ごろようやく第二子に恵まれたことが判明した。
「タイミングからしたら、あのときの子よねぇ? あたしたちって危機的状況に追い込まれないと子どもができなかったりするのかも?」
二人きりの時アネットがこっそり言うと、ケヴィンもそう思ったのか眉間にしわを寄せ難しい顔をする。
ケヴィンを悩ませたかの令嬢は、見事国王の心を射止め愛妾になった。
そのあといろいろあって、──そう、いろいろあってアネットとケヴィンも危機的状況に追い込まれたのだけど。──それらがすべて解決したところで、令嬢はついに国王とゴールインした。
ゴールインしてほどなく、令嬢は待望の第一子を懐妊する。
そして何故かアネットに、王妃陛下主催のお茶会への招待状が届いた。
「──何で?」
「……先日、機会があって君のことを陛下に打ち明けたんだ」
ケヴィンは渋い顔をして説明するが、問題はそこじゃない。
アネットは身分を偽ってはいるが、その偽りの身分も子爵家の血を引く庶民でしかない。ケヴィンの正式な妻でもないのだから、身分的に王城に上がることも高貴な身分の方に謁見するのも許されない立場だ。
「そうじゃなくて、あたしが招待されてもいいの?」
「その集まりにはヘリオットの妻も参加する。出産を控えた女性が出産経験のある女性にアドバイスをもらうという趣旨の、私的な集まりにする予定だったそうなのだが」
「あ、ヘリオット様の奥さんも懐妊したんだ」
「ああ。まだまだ人手が足りない時に困ったものだ」
「それ、奥さんに言っちゃダメよ。妊娠中はデリケートなんだから」
「……」
黙り込んだということは、すでに手遅れかそれに近しいことをしてしまった後なのかもしれない。でも反論しないということは反省しているだろうから、気付いてないふりをする。
ケヴィンは咳払いをして話を切り替えた。
「それでどうする?」
「え?」
「これは招待であって命令ではない。行く行かないは君が決めていい。だが、できれば招待に応じてくれないか? 君のことを長年黙っていたことで陛下に不興を買ってしまって、政務に支障が出る有様なんだ。君と会うまで口を利かないとまで言われてしまって……」
そう告げるケヴィンの様子がまたもやヘコんでいるようで、アネットはついつい笑ってしまった。
「もちろん行くわよ」
アネットが笑うと、表情に乏しいケヴィンもわずかに顔をほころばせる。
アネットがただの下働きだったら絶対に会えるはずのなかった、ケヴィンの愛しの王子様と、その王子様をしあわせにしたお姫様に会える。
積み重なっていくらっきーに、アネットはしあわせをかみしめた。
第四章 完
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