30 / 36
第四章 シグルド20歳~ ケヴィン26歳~ アネット25歳(?)~
四章-8
しおりを挟む
アネットがアランデル侯爵邸で暮らすようになって二日後、ケヴィンは夜、父トマスに呼ばれた。
クリフォード公爵邸の父の執務室を訪ねると、手紙をしたためていたトマスはペンを置いて、目の前に立ったケヴィンにおもむろに話し出す。
「アランデル侯爵の邸に女を囲ったそうだな」
「はい」
割と早く知られたなと思いつつ返事をすると、動揺をかけらも見せなかったことが気に障ったのか、苦々しそうにトマスは言う。
「結婚はどうするつもりだ? その女は結婚できない相手だから囲っているのだろう? 結婚前から女を囲う男に嫁ぎたいと思う令嬢などおらんぞ」
「そうでしょうね。ですからわたしは結婚しません」
息子がめったに感情を表さない人物とわかっていても、嫌味にも聞こえるその冷淡さにいらだちを抑えられないのだろう。トマスの声に少しずつ怒気が混じってくる。
「結婚し跡継ぎをもうける責務を放棄するつもりか? 公爵位を継ぐ者として、それが許されることではないとわかっているだろうに」
「ええ。爵位を継ぐのならば決しておろそかにしてはならない責務ですね。ですがわたしは公爵の位を継ぐつもりはありません」
淡々と言葉を返すケヴィンに、トマスは思い切り顔をしかめた。
「本気で言っているのか」
「はい」
トマスはとうとう激昂する。机を強く叩きながら、椅子から立ち上がった。
「おまえは自分の血筋を何だと心得ている!? クリフォード公爵家の直系として、おまえはこの家に直系の血を残さなくてはならない! それはおまえにしかできないのだぞ!? たかだか一人の女にほだされて、名誉ある役目を辞退し貴族として恥ずべき行いに身を落とすつもりか!」
怒るトマスから目をそらさず、ケヴィンは常々考えてきたことを口にした。
「彼女のことに関係なく、わたしはもともと公爵位を継ぐつもりがなかったのです」
「──何?」
息子から思ってもいなかったことを聞いて、トマスは険呑ににらみつける。にらみつけられたケヴィンは、その視線を見つめ返した。
「わたしは生涯、シグルド国王陛下の側近でありたいと思っています。ですが、国王陛下の手足となる側近と、国王陛下に助言を与えるべき立場にある公爵とを両立させることはできません。端的に表せば、側近は国王陛下の言うなりであるべきもの、公爵は国王陛下の言うなりになってはならないものといえます。この対極にある役目を一手に担うのは難しく、またこの二つの役目を両立させることに多くの貴族が反感を覚えるはず。どちらかの役目は別の者に譲れと迫ってくることでしょう。ですからわたしは先に選びます。シグルド陛下の側近を」
公爵位を捨てることに少しも惜しむ気持ちを見せないケヴィンに、トマスの怒りはつのっていく。
「側近など他の誰でもできるではないか!」
父の怒りを静かな面持ちで受け止め、ケヴィンは淡々と話した。
「そうだと思います。ですが、わたしはこの役目を誰にも譲りたくないのです。──父上は覚えておられますか? シグルド殿下は王子としてふさわしくないとのうわさが広まったときのことを。父上はこうおっしゃられました。“シグルド殿下はやむなき事情あって我が家でお育てすることになったが、れっきとした王子殿下だ。シグルド殿下を主と思い誠心誠意お仕えしなさい”と」
十六年も前のことを言われて、トマスは虚を突かれたように表情から怒りを消す。
無表情だったケヴィンの顔に、わずかばかり笑みが宿った。
「そのときからわたしはシグルド様にお仕えしてきました。仕える者として誰よりもシグルド様の信頼を得ていると自負もしています。ですから、シグルド様が国王陛下になられる前から、公爵位を放棄することはずっと考えていたのです。
シグルド様が国王陛下になられる前は、父上がそうであったように、わたしも公爵の位に継げばシグルド様の味方ばかりしていられなくなると思いました。シグルド様の立場のためにつき離さなければならない場面も必ず訪れる。それを思うと公爵位を継ぐ気にはなりませんでした。わたしも直系としての義務は理解しています。以前は公爵位を放棄することはできないと考えていました。
ですがシグルド様を戦場に行かせておいて、わたしは王都に残らなくてはならないという状況になったとき思い知ったのです。わたしは殿下のもとを離れられないと。
そうして苦しんでいたとき、彼女は言ってくれました。“このまま何の努力もせずに、みすみす殿下を見送ることになってもいいんですか?”と。そしてわたしに後悔してほしくないと言ってくれました。それで決心がついたのです。後悔しないために精一杯努力しようと。努力して、それでもかなわなければあきらめもつきます。彼女は、わたしを悩める苦しみから救ってくれたかけがえのない人なのです。父上にもそのことをどうかご理解いただきたい」
最後の一言は、さきほどアネットのことを“たかだか一人の女”と言った父トマスへの苦言だ。これ以上直接的に抗議はできない。父に“たかだか”と言わせる原因はケヴィンにあるからだ。ケヴィンの発言が父には愚にしか映らないから、ケヴィンが愚に走った原因と思われてしまったアネットがやり玉にあげられた。
父に認めてもらえるよう、努力していかなければならない。認められてほめられたとき、“わたしのパートナーの支えあってのことです”と胸を張って言えるように。
ため息をついて椅子に座り直したトマスに、ケヴィンは話を続けた。
「公爵位はアランデル侯爵に譲ります。わたしが公爵位を継ぐことなくあるいは後継者を残さず死んだ場合はそのように取り決められているのですから、順当でしょう」
「だが、おまえは生きて帰ってきた」
トマスの言葉に苦渋がこもる。
「ですがわたしはシグルド陛下の側近となる道を選ぶのですから、公爵家にとっていないも同然です。そうして空いたアランデル侯爵位にはアランデル侯爵位を継ぐ予定となっていたグロスタ侯爵を迎え、空位になったグロスタ侯爵位はその次の家格であるクレンネル侯爵に引き継ぎます。家格が上がることを喜ばない貴族はまずいない。家格を上げるためと聞けば、もろ手を上げて賛成はしなくても反対意見をつぐむことはしてくれるでしょう」
「そうやって血族の家格を一つずつ上げていくというのか? 家格の順序を間違えず、承諾を取り付けるための根回しをしなければならないことを考えると膨大な作業となるぞ」
「覚悟の上です。努力すれば願いがかなうのならば──いえ、叶わないかもしれなくても努力したいのです。この件に関しては勝算は十分にありますが」
「おまえの血筋を残す問題はどうする? 血統至上主義の者たちはおまえの血が失われることを黙ってはいまいぞ」
「……アランデル侯爵夫妻の間には後継者が産まれません。ですから婚外子となるわたしの子を養子としてもらい、正式な夫婦の娘としてその夫に跡を継がせてもらうようすでに話をとりつけてあります。わたしの愛する女性は“身分は庶民であるが、子爵家の血筋を引く者”なのだそうです。わたしの正式な妻にするのは難しくても、わたしと彼女の間に生まれた子ならアランデル侯爵夫妻の養女という身分を与えれば、次々代の公爵の伴侶としてそれほど反対はされないでしょう。──反対されたとしても、必ず収めてみせます」
息子の決意の固さをさとったトマスは、机に両肘をついて頭を抱えた。
「養女……女か」
「一歳になったばかりです。わたしにとてもよく似ています」
「おまえに似ているということは、相当の無愛想なのだな。女なのに難儀なことだ」
顔を隠す腕の隙間から、トマスの唇の端がほほえみに上がるのを見て、ケヴィンの固い表情も自然にほころんだ。
──・──・──
「ほ、ほんとだ! ケヴィン、おまえそっくり!」
ベビーベットをのぞき込みながら、ヘリオットが腹をよじって声をできるだけおさえて大笑いする。ケヴィンは連れてくるんじゃなかったと言わんばかりに不機嫌な顔だ。
そんな二人をながめつつ、アネットはどう反応したものかと様子見しながらお茶の支度をした。
「用は済んだだろう。もう帰れ」
会わせてくれなければこのことをバラすと脅されて、ケヴィンは仕方なくヘリオットを連れてきたらしい。
もうずいぶんと遅い時間だ。今は仕事が忙しく、二人揃って王城を抜け出すにはこの時間くらいしかなかったのだという。
見知らぬ人がやってきたものだからエイミーは目を覚まし、泣きもせずきょとんとヘリオットを見上げていた。赤ん坊にしては表情が乏しいのに気付いて、それがヘリオットのツボにはまったのだろう。腹を押さえて必死に笑いをこらえながら、ソファまでやってくる。
ヘリオットは一人掛けのソファに座りながら、紅茶を差し出すアネットに苦笑を向けた。
「そうそう。アネットちゃん、ダメじゃないか。三年も前の薬なんか飲んでちゃ」
「レミナさんたちにも言われたんですが、そういうものだったんですね。最初から乾いた粉だったから、古くなっても効き目は変らないものだとばっかり」
「アネット。ヘリオットからは二度と物を受け取るな。こいつはわたしの知り合いの中でも一番信用できないやつだ」
アネットにすかさず注意を促すケヴィンに、ヘリオットはにやけ顔で文句を言う。
「えー? ひどいなぁ。俺が避妊薬を欲しがったのをレミナサンが覚えててくれたから、アネットちゃんの世話をしてくれたんじゃないか。そのおかげでアネットちゃんとエイミーちゃんが無事だったのに」
ヘリオットの言う通りだ。ヘリオットの知り合いだと気付いてもらえなかったら、レミナに放っておかれたに違いない。ロアルは酒場の主人に口を利いてくれようとしていたけど、酒場の主人はロアルの頼みに対して困っていたようだった。だからあのときレミナと遭遇できたのはほんとにらっきーだったのだ。
ヘリオットから避妊薬をもらったからアネットはケヴィンと一夜を過ごし、そのためにエイミーができて邸を出なければならなくなったとき、ケヴィンを生涯の主人とあおぐロアルが邸を抜け出したアネットを勘働きだけでほとんど偶然に見付けてくれて、ロアルのつてで訪れた酒場の目の前で偶然ヘリオットに避妊薬を融通したレミナと出会う。
縁は思わぬ形でつながっているとつくづく思う。
この縁に、アネットはちょっと感動を覚えるくらいだけど、アネットの隣に立つケヴィンはそうではないらしい。ほんのちょっとだけどいまいましそうな顔をして、ヘリオットを見下ろす。
「そもそもおまえがアネットに怪しげな薬を渡していなければ、こんなややこしい話にはならなかったんだ」
ケヴィンは、アネットが避妊薬を持っていなかったら、その効果を信じることもなく、ケヴィンと結ばれたアネットをそのままにして行かなかっただろうとでも言いたいんだろうけど。
二年前にあたしが言った言葉、覚えてないのかな?
アネットは空とぼけた調子で口を挟む。
「ヘリオット様から薬をもらってなかったら、あたしはきっとケヴィン様のお願いを聞いてなかったです。そしたらエイミーは生まれなくって、あたしは今でもまだクリフォードのお邸に勤めてて、ケヴィン様に申し入れされても受け入れなかったですよ。ケヴィン様のそばにいられればどんな形でもよかったんで、わざわざこちらのお邸に身を寄せさせてもらおうなんて考えなかったに違いないですから」
下町のアパートでケヴィンの申し入れを受け入れたのは、ケヴィンの熱意に負けたということもあるが、側にいたかったからということもある。これから一生ケヴィンの近くにいられないと思うのがつらくて、その気持ちが受け入れの後押しになったように思う。
ケヴィンはやはりアネットと結婚はできないという。アネットも側にいられるなら形にこだわらない。それが元の、邸の主人の息子と邸につとめる下働きという関係のままでもかまわなかった。そうであったなら、アネットにケヴィンの申し入れを受け入れる理由がなかったと思うのだ。
アネットの考えていることが何となくわかったのか、ケヴィンは眉をひそめて黙り込む。
ケヴィンは認めたくなさそうだけど、ヘリオットがいなければ“今”はきっとなかった。
ふと思い出す。
「そういえば、ヘリオット様に聞きたいことがあったんですよ」
「何?」
「初めてあたしと会った頃、やたらと誘いをかけてきましたよね? あれってどうしてなんですか?」
カップを手に取りながら、ヘリオットは面白げに眉を上げる。
「ああ、あれ? 堅物が気にする女の子ってどういう子かなぁって思って探りを入れただけ。さすが堅物が選ぶだけあって、君もお堅かったね」
「あれってそういう意味だったんですか。てっきりケヴィン様のことを心配して、あたしを陥れようとしてるんだとばっかり」
アネットが思い違いをしていたことを残念に思っていると、ヘリオットは苦笑して片手をひらひらと振った。
「やだなーアネットちゃん。男が男を心配するなんて、気色悪いこと言わないでよ」
ヘリオットの視線がちらっとケヴィンに向くのを見て、アネットは思わず吹き出しそうになる。
「それ、ケヴィン様の前で言っちゃダメですってば」
気色悪いとは思わないけど、ここに男が男を心配する代表格ともいえる人がいることに気付いて、こみあげてくる笑いが押え切れない。
ヘリオットと控えめに笑い合っていると、普段から低いケヴィンの声がさらに数段低くなった。
「ヘリオット、いい加減に帰れ」
「はいはい。夜の貴重な時間にお邪魔して悪かったよ」
紅茶をぐっと飲み干し、ヘリオットはソファから立ち上がる。扉を開けて部屋を出ていく間際、ヘリオットは振り返ってケヴィンににやっと笑いかけた。
「そんじゃま、ごゆっくり~。“夫婦”の貴重な時間を邪魔しちゃったお詫びに、明日は遅めに来ればいいからね」
ヘリオットが何を言っているか気付いて、アネットはぽっと頬を赤らめる。扉が閉まった後ケヴィンと顔を見合わせたが、ケヴィンの表情にわずかに浮かぶ動揺を見て恥ずかしさが増し、アネットはエイミーにかこつけてケヴィンの側を離れる。
一度起き出してしまったエイミーは、乳母に寝かしつけられて再び眠りについていた。
「ありがとうございます。すみません、夜遅くに」
「これが仕事ですから、気になさることないですよ。それよりも、久しぶりにケヴィン様がこちらにお泊りになられるのですから、お二人水入らずでお過ごしになられたらどうですか? イリーナお嬢様も“二人目”を楽しみにしておられますし」
アネットはよけい真っ赤になる。そうなのだ。イリーナはエイミーを生まれた時から育てられなかったことを残念に思い、ことあるごとに二人目をせっついてくる。こればっかりは一人でできることではないし、ケヴィンに協力してくださいなどと言えるわけがない。
ヘリオットといい、この人といい、何でそんな恥ずかしいことをケヴィンもいる場所で言えるのか。
ベビーベットをのぞき込んだまま硬直して冷汗を流しそうなくらい緊張していると、不意に腰に回された腕に、後ろへと引っ張られた。
「エイミーのことを頼む」
「かしこまりました」
「アネット、部屋に引き上げるぞ」
「え? あ?」
アネットがうろたえているうちに、ケヴィンは腰に回した腕でやや強引にアネットを押して、さっさとこの部屋──子ども部屋を出てしまう。そしてすぐ隣のアネットに与えられた部屋に押し入るように入ると、アネットを向きあうように立たせてぎゅっと抱きしめてきた。
「──まったく、いまいましいな」
……こういう時に口にする言葉じゃないと思う。腕が少しゆるめられたので体を離して眉をひそめながら見上げると、いまいましそうに眉をしかめるケヴィンがアネットを見下ろしている。
「お膳立てされてしまっては、逆にやりにくい」
そう言いながらも、ケヴィンはアネットの唇に唇を寄せる。ケヴィンが近づくのに合わせてアネットが目を閉じると、唇がやわらかい感触に包まれた。ついばむように与えられたその感触に、やがて湿っぽいものがまじるようになり、湿ったもので唇の合わせをなぞられる。その感覚に身を震わせ思わず口を開けば、ケヴィンの舌がアネットの口腔に忍び込み、内側を丹念になめられていく。
口内から全身に広がるしびれ。唾液と唾液が混ざり合い、あふれる。
喉の奥にためきれずこくり飲み干すと、ケヴィンはようやく唇を離した。
「また、しばらく来られそうにない。──いいだろうか?」
アネットは上がる息を整えながら苦笑して、ケヴィンの胸にしがみついていた手を背中に回した。
「そーいうことは聞かなくてもいいんですってば。……夫婦じゃなくても、あたしにとってケヴィン様は旦那さまなんだから」
「──そうか」
ケヴィンはうれしそうに目を細め、再びアネットに口づける。
その後固く抱き合ったまま寝室に移動し、二人してふかふかなベッドの上に沈み込んだのだった。
クリフォード公爵邸の父の執務室を訪ねると、手紙をしたためていたトマスはペンを置いて、目の前に立ったケヴィンにおもむろに話し出す。
「アランデル侯爵の邸に女を囲ったそうだな」
「はい」
割と早く知られたなと思いつつ返事をすると、動揺をかけらも見せなかったことが気に障ったのか、苦々しそうにトマスは言う。
「結婚はどうするつもりだ? その女は結婚できない相手だから囲っているのだろう? 結婚前から女を囲う男に嫁ぎたいと思う令嬢などおらんぞ」
「そうでしょうね。ですからわたしは結婚しません」
息子がめったに感情を表さない人物とわかっていても、嫌味にも聞こえるその冷淡さにいらだちを抑えられないのだろう。トマスの声に少しずつ怒気が混じってくる。
「結婚し跡継ぎをもうける責務を放棄するつもりか? 公爵位を継ぐ者として、それが許されることではないとわかっているだろうに」
「ええ。爵位を継ぐのならば決しておろそかにしてはならない責務ですね。ですがわたしは公爵の位を継ぐつもりはありません」
淡々と言葉を返すケヴィンに、トマスは思い切り顔をしかめた。
「本気で言っているのか」
「はい」
トマスはとうとう激昂する。机を強く叩きながら、椅子から立ち上がった。
「おまえは自分の血筋を何だと心得ている!? クリフォード公爵家の直系として、おまえはこの家に直系の血を残さなくてはならない! それはおまえにしかできないのだぞ!? たかだか一人の女にほだされて、名誉ある役目を辞退し貴族として恥ずべき行いに身を落とすつもりか!」
怒るトマスから目をそらさず、ケヴィンは常々考えてきたことを口にした。
「彼女のことに関係なく、わたしはもともと公爵位を継ぐつもりがなかったのです」
「──何?」
息子から思ってもいなかったことを聞いて、トマスは険呑ににらみつける。にらみつけられたケヴィンは、その視線を見つめ返した。
「わたしは生涯、シグルド国王陛下の側近でありたいと思っています。ですが、国王陛下の手足となる側近と、国王陛下に助言を与えるべき立場にある公爵とを両立させることはできません。端的に表せば、側近は国王陛下の言うなりであるべきもの、公爵は国王陛下の言うなりになってはならないものといえます。この対極にある役目を一手に担うのは難しく、またこの二つの役目を両立させることに多くの貴族が反感を覚えるはず。どちらかの役目は別の者に譲れと迫ってくることでしょう。ですからわたしは先に選びます。シグルド陛下の側近を」
公爵位を捨てることに少しも惜しむ気持ちを見せないケヴィンに、トマスの怒りはつのっていく。
「側近など他の誰でもできるではないか!」
父の怒りを静かな面持ちで受け止め、ケヴィンは淡々と話した。
「そうだと思います。ですが、わたしはこの役目を誰にも譲りたくないのです。──父上は覚えておられますか? シグルド殿下は王子としてふさわしくないとのうわさが広まったときのことを。父上はこうおっしゃられました。“シグルド殿下はやむなき事情あって我が家でお育てすることになったが、れっきとした王子殿下だ。シグルド殿下を主と思い誠心誠意お仕えしなさい”と」
十六年も前のことを言われて、トマスは虚を突かれたように表情から怒りを消す。
無表情だったケヴィンの顔に、わずかばかり笑みが宿った。
「そのときからわたしはシグルド様にお仕えしてきました。仕える者として誰よりもシグルド様の信頼を得ていると自負もしています。ですから、シグルド様が国王陛下になられる前から、公爵位を放棄することはずっと考えていたのです。
シグルド様が国王陛下になられる前は、父上がそうであったように、わたしも公爵の位に継げばシグルド様の味方ばかりしていられなくなると思いました。シグルド様の立場のためにつき離さなければならない場面も必ず訪れる。それを思うと公爵位を継ぐ気にはなりませんでした。わたしも直系としての義務は理解しています。以前は公爵位を放棄することはできないと考えていました。
ですがシグルド様を戦場に行かせておいて、わたしは王都に残らなくてはならないという状況になったとき思い知ったのです。わたしは殿下のもとを離れられないと。
そうして苦しんでいたとき、彼女は言ってくれました。“このまま何の努力もせずに、みすみす殿下を見送ることになってもいいんですか?”と。そしてわたしに後悔してほしくないと言ってくれました。それで決心がついたのです。後悔しないために精一杯努力しようと。努力して、それでもかなわなければあきらめもつきます。彼女は、わたしを悩める苦しみから救ってくれたかけがえのない人なのです。父上にもそのことをどうかご理解いただきたい」
最後の一言は、さきほどアネットのことを“たかだか一人の女”と言った父トマスへの苦言だ。これ以上直接的に抗議はできない。父に“たかだか”と言わせる原因はケヴィンにあるからだ。ケヴィンの発言が父には愚にしか映らないから、ケヴィンが愚に走った原因と思われてしまったアネットがやり玉にあげられた。
父に認めてもらえるよう、努力していかなければならない。認められてほめられたとき、“わたしのパートナーの支えあってのことです”と胸を張って言えるように。
ため息をついて椅子に座り直したトマスに、ケヴィンは話を続けた。
「公爵位はアランデル侯爵に譲ります。わたしが公爵位を継ぐことなくあるいは後継者を残さず死んだ場合はそのように取り決められているのですから、順当でしょう」
「だが、おまえは生きて帰ってきた」
トマスの言葉に苦渋がこもる。
「ですがわたしはシグルド陛下の側近となる道を選ぶのですから、公爵家にとっていないも同然です。そうして空いたアランデル侯爵位にはアランデル侯爵位を継ぐ予定となっていたグロスタ侯爵を迎え、空位になったグロスタ侯爵位はその次の家格であるクレンネル侯爵に引き継ぎます。家格が上がることを喜ばない貴族はまずいない。家格を上げるためと聞けば、もろ手を上げて賛成はしなくても反対意見をつぐむことはしてくれるでしょう」
「そうやって血族の家格を一つずつ上げていくというのか? 家格の順序を間違えず、承諾を取り付けるための根回しをしなければならないことを考えると膨大な作業となるぞ」
「覚悟の上です。努力すれば願いがかなうのならば──いえ、叶わないかもしれなくても努力したいのです。この件に関しては勝算は十分にありますが」
「おまえの血筋を残す問題はどうする? 血統至上主義の者たちはおまえの血が失われることを黙ってはいまいぞ」
「……アランデル侯爵夫妻の間には後継者が産まれません。ですから婚外子となるわたしの子を養子としてもらい、正式な夫婦の娘としてその夫に跡を継がせてもらうようすでに話をとりつけてあります。わたしの愛する女性は“身分は庶民であるが、子爵家の血筋を引く者”なのだそうです。わたしの正式な妻にするのは難しくても、わたしと彼女の間に生まれた子ならアランデル侯爵夫妻の養女という身分を与えれば、次々代の公爵の伴侶としてそれほど反対はされないでしょう。──反対されたとしても、必ず収めてみせます」
息子の決意の固さをさとったトマスは、机に両肘をついて頭を抱えた。
「養女……女か」
「一歳になったばかりです。わたしにとてもよく似ています」
「おまえに似ているということは、相当の無愛想なのだな。女なのに難儀なことだ」
顔を隠す腕の隙間から、トマスの唇の端がほほえみに上がるのを見て、ケヴィンの固い表情も自然にほころんだ。
──・──・──
「ほ、ほんとだ! ケヴィン、おまえそっくり!」
ベビーベットをのぞき込みながら、ヘリオットが腹をよじって声をできるだけおさえて大笑いする。ケヴィンは連れてくるんじゃなかったと言わんばかりに不機嫌な顔だ。
そんな二人をながめつつ、アネットはどう反応したものかと様子見しながらお茶の支度をした。
「用は済んだだろう。もう帰れ」
会わせてくれなければこのことをバラすと脅されて、ケヴィンは仕方なくヘリオットを連れてきたらしい。
もうずいぶんと遅い時間だ。今は仕事が忙しく、二人揃って王城を抜け出すにはこの時間くらいしかなかったのだという。
見知らぬ人がやってきたものだからエイミーは目を覚まし、泣きもせずきょとんとヘリオットを見上げていた。赤ん坊にしては表情が乏しいのに気付いて、それがヘリオットのツボにはまったのだろう。腹を押さえて必死に笑いをこらえながら、ソファまでやってくる。
ヘリオットは一人掛けのソファに座りながら、紅茶を差し出すアネットに苦笑を向けた。
「そうそう。アネットちゃん、ダメじゃないか。三年も前の薬なんか飲んでちゃ」
「レミナさんたちにも言われたんですが、そういうものだったんですね。最初から乾いた粉だったから、古くなっても効き目は変らないものだとばっかり」
「アネット。ヘリオットからは二度と物を受け取るな。こいつはわたしの知り合いの中でも一番信用できないやつだ」
アネットにすかさず注意を促すケヴィンに、ヘリオットはにやけ顔で文句を言う。
「えー? ひどいなぁ。俺が避妊薬を欲しがったのをレミナサンが覚えててくれたから、アネットちゃんの世話をしてくれたんじゃないか。そのおかげでアネットちゃんとエイミーちゃんが無事だったのに」
ヘリオットの言う通りだ。ヘリオットの知り合いだと気付いてもらえなかったら、レミナに放っておかれたに違いない。ロアルは酒場の主人に口を利いてくれようとしていたけど、酒場の主人はロアルの頼みに対して困っていたようだった。だからあのときレミナと遭遇できたのはほんとにらっきーだったのだ。
ヘリオットから避妊薬をもらったからアネットはケヴィンと一夜を過ごし、そのためにエイミーができて邸を出なければならなくなったとき、ケヴィンを生涯の主人とあおぐロアルが邸を抜け出したアネットを勘働きだけでほとんど偶然に見付けてくれて、ロアルのつてで訪れた酒場の目の前で偶然ヘリオットに避妊薬を融通したレミナと出会う。
縁は思わぬ形でつながっているとつくづく思う。
この縁に、アネットはちょっと感動を覚えるくらいだけど、アネットの隣に立つケヴィンはそうではないらしい。ほんのちょっとだけどいまいましそうな顔をして、ヘリオットを見下ろす。
「そもそもおまえがアネットに怪しげな薬を渡していなければ、こんなややこしい話にはならなかったんだ」
ケヴィンは、アネットが避妊薬を持っていなかったら、その効果を信じることもなく、ケヴィンと結ばれたアネットをそのままにして行かなかっただろうとでも言いたいんだろうけど。
二年前にあたしが言った言葉、覚えてないのかな?
アネットは空とぼけた調子で口を挟む。
「ヘリオット様から薬をもらってなかったら、あたしはきっとケヴィン様のお願いを聞いてなかったです。そしたらエイミーは生まれなくって、あたしは今でもまだクリフォードのお邸に勤めてて、ケヴィン様に申し入れされても受け入れなかったですよ。ケヴィン様のそばにいられればどんな形でもよかったんで、わざわざこちらのお邸に身を寄せさせてもらおうなんて考えなかったに違いないですから」
下町のアパートでケヴィンの申し入れを受け入れたのは、ケヴィンの熱意に負けたということもあるが、側にいたかったからということもある。これから一生ケヴィンの近くにいられないと思うのがつらくて、その気持ちが受け入れの後押しになったように思う。
ケヴィンはやはりアネットと結婚はできないという。アネットも側にいられるなら形にこだわらない。それが元の、邸の主人の息子と邸につとめる下働きという関係のままでもかまわなかった。そうであったなら、アネットにケヴィンの申し入れを受け入れる理由がなかったと思うのだ。
アネットの考えていることが何となくわかったのか、ケヴィンは眉をひそめて黙り込む。
ケヴィンは認めたくなさそうだけど、ヘリオットがいなければ“今”はきっとなかった。
ふと思い出す。
「そういえば、ヘリオット様に聞きたいことがあったんですよ」
「何?」
「初めてあたしと会った頃、やたらと誘いをかけてきましたよね? あれってどうしてなんですか?」
カップを手に取りながら、ヘリオットは面白げに眉を上げる。
「ああ、あれ? 堅物が気にする女の子ってどういう子かなぁって思って探りを入れただけ。さすが堅物が選ぶだけあって、君もお堅かったね」
「あれってそういう意味だったんですか。てっきりケヴィン様のことを心配して、あたしを陥れようとしてるんだとばっかり」
アネットが思い違いをしていたことを残念に思っていると、ヘリオットは苦笑して片手をひらひらと振った。
「やだなーアネットちゃん。男が男を心配するなんて、気色悪いこと言わないでよ」
ヘリオットの視線がちらっとケヴィンに向くのを見て、アネットは思わず吹き出しそうになる。
「それ、ケヴィン様の前で言っちゃダメですってば」
気色悪いとは思わないけど、ここに男が男を心配する代表格ともいえる人がいることに気付いて、こみあげてくる笑いが押え切れない。
ヘリオットと控えめに笑い合っていると、普段から低いケヴィンの声がさらに数段低くなった。
「ヘリオット、いい加減に帰れ」
「はいはい。夜の貴重な時間にお邪魔して悪かったよ」
紅茶をぐっと飲み干し、ヘリオットはソファから立ち上がる。扉を開けて部屋を出ていく間際、ヘリオットは振り返ってケヴィンににやっと笑いかけた。
「そんじゃま、ごゆっくり~。“夫婦”の貴重な時間を邪魔しちゃったお詫びに、明日は遅めに来ればいいからね」
ヘリオットが何を言っているか気付いて、アネットはぽっと頬を赤らめる。扉が閉まった後ケヴィンと顔を見合わせたが、ケヴィンの表情にわずかに浮かぶ動揺を見て恥ずかしさが増し、アネットはエイミーにかこつけてケヴィンの側を離れる。
一度起き出してしまったエイミーは、乳母に寝かしつけられて再び眠りについていた。
「ありがとうございます。すみません、夜遅くに」
「これが仕事ですから、気になさることないですよ。それよりも、久しぶりにケヴィン様がこちらにお泊りになられるのですから、お二人水入らずでお過ごしになられたらどうですか? イリーナお嬢様も“二人目”を楽しみにしておられますし」
アネットはよけい真っ赤になる。そうなのだ。イリーナはエイミーを生まれた時から育てられなかったことを残念に思い、ことあるごとに二人目をせっついてくる。こればっかりは一人でできることではないし、ケヴィンに協力してくださいなどと言えるわけがない。
ヘリオットといい、この人といい、何でそんな恥ずかしいことをケヴィンもいる場所で言えるのか。
ベビーベットをのぞき込んだまま硬直して冷汗を流しそうなくらい緊張していると、不意に腰に回された腕に、後ろへと引っ張られた。
「エイミーのことを頼む」
「かしこまりました」
「アネット、部屋に引き上げるぞ」
「え? あ?」
アネットがうろたえているうちに、ケヴィンは腰に回した腕でやや強引にアネットを押して、さっさとこの部屋──子ども部屋を出てしまう。そしてすぐ隣のアネットに与えられた部屋に押し入るように入ると、アネットを向きあうように立たせてぎゅっと抱きしめてきた。
「──まったく、いまいましいな」
……こういう時に口にする言葉じゃないと思う。腕が少しゆるめられたので体を離して眉をひそめながら見上げると、いまいましそうに眉をしかめるケヴィンがアネットを見下ろしている。
「お膳立てされてしまっては、逆にやりにくい」
そう言いながらも、ケヴィンはアネットの唇に唇を寄せる。ケヴィンが近づくのに合わせてアネットが目を閉じると、唇がやわらかい感触に包まれた。ついばむように与えられたその感触に、やがて湿っぽいものがまじるようになり、湿ったもので唇の合わせをなぞられる。その感覚に身を震わせ思わず口を開けば、ケヴィンの舌がアネットの口腔に忍び込み、内側を丹念になめられていく。
口内から全身に広がるしびれ。唾液と唾液が混ざり合い、あふれる。
喉の奥にためきれずこくり飲み干すと、ケヴィンはようやく唇を離した。
「また、しばらく来られそうにない。──いいだろうか?」
アネットは上がる息を整えながら苦笑して、ケヴィンの胸にしがみついていた手を背中に回した。
「そーいうことは聞かなくてもいいんですってば。……夫婦じゃなくても、あたしにとってケヴィン様は旦那さまなんだから」
「──そうか」
ケヴィンはうれしそうに目を細め、再びアネットに口づける。
その後固く抱き合ったまま寝室に移動し、二人してふかふかなベッドの上に沈み込んだのだった。
0
お気に入りに追加
145
あなたにおすすめの小説


蔑ろにされた王妃と見限られた国王
奏千歌
恋愛
※最初に公開したプロット版はカクヨムで公開しています
国王陛下には愛する女性がいた。
彼女は陛下の初恋の相手で、陛下はずっと彼女を想い続けて、そして大切にしていた。
私は、そんな陛下と結婚した。
国と王家のために、私達は結婚しなければならなかったから、結婚すれば陛下も少しは変わるのではと期待していた。
でも結果は……私の理想を打ち砕くものだった。
そしてもう一つ。
私も陛下も知らないことがあった。
彼女のことを。彼女の正体を。

愛は全てを解決しない
火野村志紀
恋愛
デセルバート男爵セザールは当主として重圧から逃れるために、愛する女性の手を取った。妻子や多くの使用人を残して。
それから十年後、セザールは自国に戻ってきた。高い地位に就いた彼は罪滅ぼしのため、妻子たちを援助しようと思ったのだ。
しかしデセルバート家は既に没落していた。
※なろう様にも投稿中。
(完結)貴方から解放してくださいー私はもう疲れました(全4話)
青空一夏
恋愛
私はローワン伯爵家の一人娘クララ。私には大好きな男性がいるの。それはイーサン・ドミニク。侯爵家の子息である彼と私は相思相愛だと信じていた。
だって、私のお誕生日には私の瞳色のジャボ(今のネクタイのようなもの)をして参加してくれて、別れ際にキスまでしてくれたから。
けれど、翌日「僕の手紙を君の親友ダーシィに渡してくれないか?」と、唐突に言われた。意味がわからない。愛されていると信じていたからだ。
「なぜですか?」
「うん、実のところ私が本当に愛しているのはダーシィなんだ」
イーサン様は私の心をかき乱す。なぜ、私はこれほどにふりまわすの?
これは大好きな男性に心をかき乱された女性が悩んで・・・・・・結果、幸せになったお話しです。(元さやではない)
因果応報的ざまぁ。主人公がなにかを仕掛けるわけではありません。中世ヨーロッパ風世界で、現代的表現や機器がでてくるかもしれない異世界のお話しです。ご都合主義です。タグ修正、追加の可能性あり。


【完結】「別れようって言っただけなのに。」そう言われましてももう遅いですよ。
まりぃべる
恋愛
「俺たちもう終わりだ。別れよう。」
そう言われたので、その通りにしたまでですが何か?
自分の言葉には、責任を持たなければいけませんわよ。
☆★
感想を下さった方ありがとうございますm(__)m
とても、嬉しいです。

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる