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第二章 シグルド~15歳 ケヴィン~21歳 アネット~20歳(?)
二章-9
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──約束すればいいんです。必ず生きて帰るって。
そんなことで覆るような決定じゃない。シグルドを王国軍の総指揮官にという提案が出てから何日も、父公爵をはじめ、派閥の主だった貴族たちの間で話し合われてきたことだ。そうして決められた決定を、一員であるケヴィンが拒否することはできない。
だが、彼女の言うことには一理ある。
──このまま何の努力もせずに、みすみす殿下を見送ることになってもいいんですか?
嫌だ。それこそ後悔するだろう。何もしなかった自分を一生責め続ける。シグルドが生還したとしても。
しかし、努力すれば叶うというものでもない。
なのに彼女は言った。
──無事に帰って来てください。みなさんのために。
“叶います”と言われるよりも強い言葉。ケヴィンがシグルドについて戦場に行くと信じて疑わない一言。
微笑みをたたえゆるぎない視線を注いでくる彼女を見たら、わけもなく叶うと信じられた。
下街の、いつもの酒場に足を踏み入れた。
遅い時間だからもう解散してるかもしれないと思ったのに、店の中はまだ宵の口と言わんばかりの喧騒に包まれていた。ほとんどが近衛隊士だ。明かりの乏しい薄暗い店内に渦巻く熱気、大声で談笑し、どこかかしかで誰かが酒の杯をあおっている。
そんな中、ヘリオットや数人の仲間たちが気付いてケヴィンに顔を向けた。
「来たな」
ヘリオットがにやり笑って言う。何もかもお見通しというような笑みが、いつもケヴィンのしゃくに障る。
ケヴィンは近寄ってきたヘリオットを押しのけて、テーブルの一つで仲間たちと談笑するシグルドに近付いた。
シグルドは近付いてくるケヴィンに気付き、口に運ぼうとしていた杯を下げた。
「ケヴィン」
「お話があります」
ケヴィンが短く返すと、シグルドは杯をテーブルに置いて姿勢を正した。
「聞こう」
場が、急に静かになった。
隊士たちが好奇の目で見守る中、ケヴィンは深く息を吸い、自分にも言い聞かせるようにはっきりと言った。
「わたしも戦場に行きます」
「……トマスたちが決めたことに、おまえは逆らえるのか?」
誰も言葉を発しない中、シグルドはにらみつけるようなきついまなざしでケヴィンを見上げる。
その視線をまっすぐ受け止め、ケヴィンは答えた。
「逆らうのではありません。説得します。父たちが危惧するのは、わたしたち二人ともが失われるということ。それを回避するために一番確実な方法として、わたしをここに残すことを決めました。しかし本当に望ましいのは、あなたもわたしも生きていることです」
そこまで一気に言ったところで、ケヴィンは間を置いてゆっくり息を吸った。
そして宣言する。
「わたしはあなたを守って、わたしも生きる。だから戦場へついていきます」
彼女に言われたことを自分の言葉に置き換えて口にしていくうちに、身の内に自信が満ちてくる。
派閥の決定を覆すことは困難だ。それは今でも思うことだが、この自信さえあればやり遂げられるような気がした。
自分に足らなかったのは武術の腕でも父公爵たちに物申せる立場でもなく、これだったのだと今ならわかる。
ゆるぎない信念を持って、あきらめずに訴え続ける。努力はしないより、したほうがいい。
彼女が教えてくれたことだ。
「……あなたも反対してらしたので、まず先に報告させていただきたかったのです。ご歓談中お邪魔をいたしました」
反対をされても、もうシグルドの意見も聞く気はない。
きびすを返して立ち去ろうとした時、盛大なため息と一緒にシグルドは言った。
「ようやく覚悟を決めたか」
意外な一言に驚いて振り返ると、シグルドは立ち上がって口の端を上げる。
「俺はその言葉が聞きたかったんだ」
何の事だかわからず返答に窮していると、背後から両肩を強く叩かれる。
「遅いっつーの!」
とっさに振り向くと、肩の向こうでヘリオットがにやっと笑う。
「待ってたんだぜ? 俺たち。俺たちに役目があるように、おまえにも役目がある。役目だから残るんだって割り切れればいいけど、おまえにそういう器用なことはできないってわかってたからさ」
シグルドが席から抜けてケヴィンの横に立つ。ケヴィンはシグルドのほうに向きなおった。シグルドはあきれたように眉尻を下げる。
「おまえに生き抜く覚悟が見られなかったから、俺も反対したんだ。だが、その覚悟ができたのなら、俺もトマスたちの説得にあたろう。──だいたい、何だよ。おまえが戦場に行くのを反対された時、俺は必ず死ぬみたいな顔しやがって。俺は戦場に死にに行くつもりはないっつーの」
ヘリオットたちを真似た口調も、今回ばかりは恐縮して聞き入ってしまう。
そんなつもりはまったくなかったが、思い返してみればそう受け取られてもおかしくないような切羽詰まった言動をしていたように思う。
「フツーに考えれば、総指揮官が倒れたら軍全体に大打撃だろ。そうならないように幾重にも守るから、簡単には死なねーよ。俺らもシグルドを守るし。おまえ、ひっくるめてな」
おどけた口調で言うヘリオットに、シグルドは横やりを入れる。
「そういうおまえも死ぬなよ。──おまえらもだ。みんなで生きて帰って、ここで祝杯を上げよう」
「おお!」
シグルドが店内にいる近衛仲間たちを振り返りそう言うと、仲間たちは声を上げ、杯を掲げたりうなずいたりと思い思いの反応を返す。
そこにあるのは信頼。今までにも感じてきたことだが、ここまで実感したのは初めてだった。
シグルドが仲間たちの中心になりつつある。その中に加わり続けることができてよかったと、心から思う。
実際に彼らと一緒に行けるかどうかはケヴィンのこれからの努力にかかっているのだが、あきらめなくて本当によかった。
感慨深い思いに浸っていると、ヘリオットがケヴィンの横に立った。
「さてと、話がまとまったところで」
ヘリオットは仲間たちを見回してにんまりと笑う。
「今日はロアルのおごりだ! 存分に飲むぞ!」
「おお!!!」
先程より大きな声が上がる。何事かとロアルを探せば、ロアルは奥のテーブルで頭を抱えていた。
「きっと来ないから一人勝ちだぞって言ったのは誰ですか~。それに皆さんさっきから遠慮なく飲み食いしてたじゃないですかぁ」
……つまりケヴィンは賭けのネタにされ、ロアルはカモにされたということか。
そうだった。こいつらはそういう奴だった。見直すたびに後悔するのに、付き合いが始まって数年経ってもしてやられる。
ケヴィンは自分にあきれ、口元にほんのわずか苦笑いを浮かべた。
「僕のお給金じゃ、こんなにも払えません~」
わめくロアルに、ケヴィンは声をかける。
「ロアル、ここは私が支払う。──とわたしが言い出すことも見越していたのだろう?」
隣のヘリオットに続く言葉を向ければ、ヘリオットは悪びれずに肩をすくめる。ケヴィンはため息をついた。
「今夜のところは乗せられてやろう。ただし今晩だけだ」
店のあちこちから歓声が上がる。シグルドも一緒になって注文を叫んでいるところを見ると、どうやら賭けに参加していたようだ。
近衛仲間とつるむようになってから、次々と悪いことを覚えるのでいけない。さいわい女遊びにうつつを抜かすことはなく、その点は安心しているが。
気付けば、ロアルが感激に目を潤ませてケヴィンを見つめていた。
「ありがとうございます! もしかして僕もおごってもらえるんですか?」
「……おごってやってもいいが、自重しろ」
今夜シグルドは酔い潰れるまで飲むだろう。そんな日にロアルまで介抱したくない。
翌日から、ケヴィンの戦場行き回避を決定したクリフォード公爵派の元を順に訪れた。
いい顔はされなかった。逆に説得し返されることもあった。
それでも何度も足を運んで頭を下げた。シグルドがついてきてくれて一緒に頭を下げてくれることもあった。
策も確実性もないが、この方法しか取れなかった。
そのうちにケヴィンの意思を理解してくれる者が現れ、一緒に説得に当たってくれるようになり、そのおかげで派閥内の話し合いが再度持たれることとなった。
その場にケヴィンも呼ばれた。
「戦況は悪化の一途をたどっている。死ぬかもしれないのだぞ?」
「死ぬつもりはありません。何が何でも生きて戻ってきます。シグルド殿下と一緒に。戦況が悪いからこそ、戦場で活躍もしやすいでしょう。殿下が戦果を上げられれば、その名声が派閥の力となります。わたしはそれをお助けしたいのです。どうか許可を」
そうして最後の一人も折れ、ケヴィンはシグルドの書記官として隊列に加わることとなった。
出立までにもう幾日もない時のことだった。
準備と各所への挨拶と、慌ただしく残りの日々を過ごす。
すべきことが終わったのは、前日のことだった。
出立前の最後の夜も、シグルドや仲間たちは酒場へと繰り出した。
ケヴィンもそれに同行し、途中でロアルにシグルドを任せて酒場を出た。
彼女の幸せを考え、会わずにいるつもりだった。
なのに自分の弱さに負けて会いに行ってしまった。
久しぶりに姿を見せたケヴィンを、彼女は以前と変わらぬ様子で迎えてくれた。情けないありさまだったケヴィンを優しく受け入れてくれ、大きな助言を与えてくれた。
忙しさのあまり、あの日以来彼女の元を訪れていない。
あれだけ世話になったのに、挨拶なしで出立するわけにはいかないだろう。
……いや、それも言い訳だ。
挨拶にかこつけて、ケヴィンは夜道を急ぐ。
これからしばらく会えなくなる。
そう思ったら、無性に彼女に会いたくなった。
──・──・──
ケヴィンが久しぶりに訪れた翌日から、新たな噂が広まった。
何人もの貴族たちに、ケヴィンが頭を下げて回っているのだという。
「せっかく戦場に行かなくてよくなったのに、ケヴィン様も奇特な方よね」
「それだけ王子様のことを愛してらっしゃるのよ」
「ケヴィン様の、王子様のかわいがりようは異常よね。いくら従兄弟だからって」
「もう完璧に保護者! まるで父親よね」
「えー? どっちかっていうと父親っていうより母親って感じしない? 口やかましいところとか」
「言えてるー」
相変わらず好き放題だ。
忙しくて遊んでいる暇のない使用人にとって、噂話は娯楽の一つ。単調な手作業の退屈しのぎに、限られた行動範囲で様々なことを知る手段として、噂話を交換する。
面白おかしくしようとして、尾ひれがつくのはいつものことだけど。
それにしても“父親っていうより母親”って……。
思わず吹き出しそうになったのを、アネットはじゃがいもの皮をむきながら必死にこらえる。
あの日以降ケヴィンが訪ねてくることはない。けど、こうして話はちくいち耳に入るから、アネットはやきもきすることなくいつも通りの日々を送ることができた。
自分の言った言葉がケヴィンの為になったのなら、それでいい。それ以上のことは望まない。
ケヴィンが忙しい日々を過ごしていた頃、ヘリオットが訪れた。
事情を話そうとするヘリオットに、アネットは「知ってます」と答えた。あきらめないことを勧めたのは自分だからと。
するとヘリオットは、寂しそうな笑顔を見せた。
「君は、強いね」
何を言われているのか、アネットは何となく察した。
ヘリオットは、アネットの気持ちに気付いている。
以前はわからなかったけど、今ならわかる。ヘリオットがアネットに誘いをかけたのは、アネットがケヴィンにふさわしいか確かめるためだ。貴族と関係を持って金品などをせびるやっかいな女だったりしないかどうかを。ヘリオットにも、ケヴィンは危なっかしく見えたらしい。
結局ヘリオットの誘いには一度も乗らなかったけど、そのおかげか認められているようだ。
アネットの気持ちに気付いているのなら、ヘリオットの言いたいことはこういうことだろう。
好きな相手が望んでいることとはいえ、戦場に向かうことを後押しするなんて並みの神経じゃない。普通なら好きな相手を戦場に向かわせようなんてしないだろうと。
それを強いと言われると、何だか違うような気がする。
ケヴィンに後悔させたくなかっただけで、それ以外のことは見ない振りをしていた。
それで強いと言えるのかどうか。
アネットは自嘲気味に笑った。それを見て、ヘリオットが言う。
「悪い意味で言ってるんじゃないよ。よく言ってくれたって感謝してる。ケヴィンのことだから、一人だけ王都に残ることになったら、自分を責め続けてどうにかなっちまう。俺から言えるようなことじゃなかったから、君が言ってくれて助かった。ありがとう」
「お礼を言っていただくほどのことじゃないです。あたしもそう思っただけで。……ケヴィン様は責任感の強い方ですから」
そう言ってアネットはにっこり笑う。
細く開いた戸口から漏れるわずかな光に照らされたヘリオットは、少しの間困ったような顔をしてアネットを見つめていたけれど、やがてあきらめたかのように上着についたポケットを探った。
「お礼ってわけじゃないけど、いいものあげる。必要になったら使って」
ケヴィンは忙しいから、アネットの所へは来られない。
自分にそう言い聞かせていたのに、ケヴィンはやっぱり律儀だった。
出立する前夜、邸の人たちが寝静まった頃を見計らって酒場から戻ってきたケヴィンは、裏庭に面した扉を叩いてアネットの部屋にやってきた。
勧められてベンチに座ったケヴィンは、正面の丸椅子に座ったアネットをまっすぐ見て言った。
「殿下について行けるようになった。君のおかげだ」
「あたしは大したことしてないですよ。叶ったのはケヴィン様が頑張ったからです。──よかったですね」
思っていた通りの言葉に、アネットは頭の中で何度も繰り返してきた言葉を返す。
練習しておいた。ケヴィンに会うことができたら動揺してしまうと思ったから。
行かないで。
無事に帰って来て。
ここ数日心をさいなんできた二つの想いを胸の内に隠して、アネットはいつものようににっこり笑う。
「出立前にケヴィン様と会えたら、お渡ししたいと思っていた物があるんです」
そして服の下から守り袋を取り出した。
「持っていってください。お守り代わりに」
「え……」
アネットが手のひらに乗せて差し出したものを、ケヴィンは驚きの呟きをもらして凝視する。
とたんに恥ずかしくなった。
どうしてこんなこと思い付いたんだろう。
動揺しないようにといろいろ考えていたのに、やっぱり動揺していたらしい。
「あ、やっぱりダメですか? 中身、小汚いですもんね」
何でこんなこと思い付いたんだろう。他人から見たらごみにしか見えないものをお守りにして、なんて。
頬を赤らめ差し出した格好のまま固まったアネットに、ケヴィンは戸惑った声で言った。
「いや……大事なものなんだろう? 真夜中にゴミまであさってさがそうとしていたくらいに」
五年近く前の話を持ち出されて、アネットは苦笑いを浮かべた。
「そのことはもう忘れてくださいよ。……大事は大事なんですけど、もういいんです。これよりももっと大事なものができましたから」
「大事なもの……?」
アネットは微笑んではぐらかす。
守り袋は心のよりどころだった。両親を知らないアネットが、ただ一つゆるぎなく信じられる親の愛情の証。
だからこそ、ケヴィンに持っていてほしいと思った。親が自分に与えてくれた愛情が、ほんの僅かでもケヴィンを守ってくれるように。
アネットにとって今一番大事なのは、ケヴィンが生きていてくれることだから。
ためらうように瞳を揺らめかせていたケヴィンは、急にふっと笑うと、左の小指から指輪を抜き取った。
「なら、これを代わりに」
「えっ!?」
「これは母の形見だ。君の守り袋の代わりにしてほしい」
高価そうなものと交換というだけでもとんでもないと思うのに、これを聞いてアネットはさらに慌てた。
「だっだだダメですっ! そんな大事なものと交換しなきゃならないなら、これ、持っていっていただかなくても……っ」
胸元に引き寄せて隠そうとした小袋を、ケヴィンはアネットが握り込む前に持っていってしまう。そして中から守り袋を取り出し、代わりに指輪を入れた。
「持っていてほしいんだ。──君に」
深くしみとおってくる声に、アネットは遠慮することをしばし忘れた。
ケヴィンは丸椅子に座るアネットの正面に膝をつき、小袋の長い紐をアネットの首に下げて、腰まであるおさげを一本ずつすくい取るように紐から抜く。
何故か夢の中にいるような気分になった。
酔った体を支えたことはあっても、こんなふうに触れられたことはない。
──いや、一度だけあった。
ケヴィンのベッドに押し倒され、髪をほどかれたあの時。
思い出したとたん、アネットの胸は騒ぎ出す。
息を詰めてケヴィンを見つめていると、三つ編みの毛先を手のひらからするりと落としたケヴィンが、アネットを見つめ返した。
めったに顔色を変えることにないケヴィンの瞳の奥底に、アネットは今まで見たことのない何かを見る。それは熱にうかされたように頼りなくありながら、アネットを捉えて離さない力強さがあった。
先程までの和やかな雰囲気が、いつの間にか別のものにすりかわっている。
息苦しさに、身動きが取れない。
頭はそのことでいっぱいなのに、アネットの口からは別の言葉がもれる。
「あたしの守り袋と、ケヴィン様の指輪とでは、つり合いが取れません……」
「金の価値じゃない。……君なら、わかっているだろう……?」
お互いの声が、苦しげにかすれる。
「だが、君が金銭的価値の差を気にするのなら、もう一つ、もらいたいものがある」
「何、を……?」
「──君に……口づけする、許可を」
どくん、と胸が高鳴る。
踏み込んじゃいけない、そう思うのに。
これが最後になるかもしれないと思ったら、抗い切ることはできなかった。
アネットのおとがいに、ケヴィンの手のひらがやさしく添えられる。
まっすぐ見つめられ、アネットは承諾の言葉の代わりに瞳を閉じた。
ゆっくりと近づいてくる気配がする。
暖かい息を感じたと思ったら、唇に柔らかい感触が触れた。
それは、ただ重なったまま、長い間離れることはなかった。
第二章 完
そんなことで覆るような決定じゃない。シグルドを王国軍の総指揮官にという提案が出てから何日も、父公爵をはじめ、派閥の主だった貴族たちの間で話し合われてきたことだ。そうして決められた決定を、一員であるケヴィンが拒否することはできない。
だが、彼女の言うことには一理ある。
──このまま何の努力もせずに、みすみす殿下を見送ることになってもいいんですか?
嫌だ。それこそ後悔するだろう。何もしなかった自分を一生責め続ける。シグルドが生還したとしても。
しかし、努力すれば叶うというものでもない。
なのに彼女は言った。
──無事に帰って来てください。みなさんのために。
“叶います”と言われるよりも強い言葉。ケヴィンがシグルドについて戦場に行くと信じて疑わない一言。
微笑みをたたえゆるぎない視線を注いでくる彼女を見たら、わけもなく叶うと信じられた。
下街の、いつもの酒場に足を踏み入れた。
遅い時間だからもう解散してるかもしれないと思ったのに、店の中はまだ宵の口と言わんばかりの喧騒に包まれていた。ほとんどが近衛隊士だ。明かりの乏しい薄暗い店内に渦巻く熱気、大声で談笑し、どこかかしかで誰かが酒の杯をあおっている。
そんな中、ヘリオットや数人の仲間たちが気付いてケヴィンに顔を向けた。
「来たな」
ヘリオットがにやり笑って言う。何もかもお見通しというような笑みが、いつもケヴィンのしゃくに障る。
ケヴィンは近寄ってきたヘリオットを押しのけて、テーブルの一つで仲間たちと談笑するシグルドに近付いた。
シグルドは近付いてくるケヴィンに気付き、口に運ぼうとしていた杯を下げた。
「ケヴィン」
「お話があります」
ケヴィンが短く返すと、シグルドは杯をテーブルに置いて姿勢を正した。
「聞こう」
場が、急に静かになった。
隊士たちが好奇の目で見守る中、ケヴィンは深く息を吸い、自分にも言い聞かせるようにはっきりと言った。
「わたしも戦場に行きます」
「……トマスたちが決めたことに、おまえは逆らえるのか?」
誰も言葉を発しない中、シグルドはにらみつけるようなきついまなざしでケヴィンを見上げる。
その視線をまっすぐ受け止め、ケヴィンは答えた。
「逆らうのではありません。説得します。父たちが危惧するのは、わたしたち二人ともが失われるということ。それを回避するために一番確実な方法として、わたしをここに残すことを決めました。しかし本当に望ましいのは、あなたもわたしも生きていることです」
そこまで一気に言ったところで、ケヴィンは間を置いてゆっくり息を吸った。
そして宣言する。
「わたしはあなたを守って、わたしも生きる。だから戦場へついていきます」
彼女に言われたことを自分の言葉に置き換えて口にしていくうちに、身の内に自信が満ちてくる。
派閥の決定を覆すことは困難だ。それは今でも思うことだが、この自信さえあればやり遂げられるような気がした。
自分に足らなかったのは武術の腕でも父公爵たちに物申せる立場でもなく、これだったのだと今ならわかる。
ゆるぎない信念を持って、あきらめずに訴え続ける。努力はしないより、したほうがいい。
彼女が教えてくれたことだ。
「……あなたも反対してらしたので、まず先に報告させていただきたかったのです。ご歓談中お邪魔をいたしました」
反対をされても、もうシグルドの意見も聞く気はない。
きびすを返して立ち去ろうとした時、盛大なため息と一緒にシグルドは言った。
「ようやく覚悟を決めたか」
意外な一言に驚いて振り返ると、シグルドは立ち上がって口の端を上げる。
「俺はその言葉が聞きたかったんだ」
何の事だかわからず返答に窮していると、背後から両肩を強く叩かれる。
「遅いっつーの!」
とっさに振り向くと、肩の向こうでヘリオットがにやっと笑う。
「待ってたんだぜ? 俺たち。俺たちに役目があるように、おまえにも役目がある。役目だから残るんだって割り切れればいいけど、おまえにそういう器用なことはできないってわかってたからさ」
シグルドが席から抜けてケヴィンの横に立つ。ケヴィンはシグルドのほうに向きなおった。シグルドはあきれたように眉尻を下げる。
「おまえに生き抜く覚悟が見られなかったから、俺も反対したんだ。だが、その覚悟ができたのなら、俺もトマスたちの説得にあたろう。──だいたい、何だよ。おまえが戦場に行くのを反対された時、俺は必ず死ぬみたいな顔しやがって。俺は戦場に死にに行くつもりはないっつーの」
ヘリオットたちを真似た口調も、今回ばかりは恐縮して聞き入ってしまう。
そんなつもりはまったくなかったが、思い返してみればそう受け取られてもおかしくないような切羽詰まった言動をしていたように思う。
「フツーに考えれば、総指揮官が倒れたら軍全体に大打撃だろ。そうならないように幾重にも守るから、簡単には死なねーよ。俺らもシグルドを守るし。おまえ、ひっくるめてな」
おどけた口調で言うヘリオットに、シグルドは横やりを入れる。
「そういうおまえも死ぬなよ。──おまえらもだ。みんなで生きて帰って、ここで祝杯を上げよう」
「おお!」
シグルドが店内にいる近衛仲間たちを振り返りそう言うと、仲間たちは声を上げ、杯を掲げたりうなずいたりと思い思いの反応を返す。
そこにあるのは信頼。今までにも感じてきたことだが、ここまで実感したのは初めてだった。
シグルドが仲間たちの中心になりつつある。その中に加わり続けることができてよかったと、心から思う。
実際に彼らと一緒に行けるかどうかはケヴィンのこれからの努力にかかっているのだが、あきらめなくて本当によかった。
感慨深い思いに浸っていると、ヘリオットがケヴィンの横に立った。
「さてと、話がまとまったところで」
ヘリオットは仲間たちを見回してにんまりと笑う。
「今日はロアルのおごりだ! 存分に飲むぞ!」
「おお!!!」
先程より大きな声が上がる。何事かとロアルを探せば、ロアルは奥のテーブルで頭を抱えていた。
「きっと来ないから一人勝ちだぞって言ったのは誰ですか~。それに皆さんさっきから遠慮なく飲み食いしてたじゃないですかぁ」
……つまりケヴィンは賭けのネタにされ、ロアルはカモにされたということか。
そうだった。こいつらはそういう奴だった。見直すたびに後悔するのに、付き合いが始まって数年経ってもしてやられる。
ケヴィンは自分にあきれ、口元にほんのわずか苦笑いを浮かべた。
「僕のお給金じゃ、こんなにも払えません~」
わめくロアルに、ケヴィンは声をかける。
「ロアル、ここは私が支払う。──とわたしが言い出すことも見越していたのだろう?」
隣のヘリオットに続く言葉を向ければ、ヘリオットは悪びれずに肩をすくめる。ケヴィンはため息をついた。
「今夜のところは乗せられてやろう。ただし今晩だけだ」
店のあちこちから歓声が上がる。シグルドも一緒になって注文を叫んでいるところを見ると、どうやら賭けに参加していたようだ。
近衛仲間とつるむようになってから、次々と悪いことを覚えるのでいけない。さいわい女遊びにうつつを抜かすことはなく、その点は安心しているが。
気付けば、ロアルが感激に目を潤ませてケヴィンを見つめていた。
「ありがとうございます! もしかして僕もおごってもらえるんですか?」
「……おごってやってもいいが、自重しろ」
今夜シグルドは酔い潰れるまで飲むだろう。そんな日にロアルまで介抱したくない。
翌日から、ケヴィンの戦場行き回避を決定したクリフォード公爵派の元を順に訪れた。
いい顔はされなかった。逆に説得し返されることもあった。
それでも何度も足を運んで頭を下げた。シグルドがついてきてくれて一緒に頭を下げてくれることもあった。
策も確実性もないが、この方法しか取れなかった。
そのうちにケヴィンの意思を理解してくれる者が現れ、一緒に説得に当たってくれるようになり、そのおかげで派閥内の話し合いが再度持たれることとなった。
その場にケヴィンも呼ばれた。
「戦況は悪化の一途をたどっている。死ぬかもしれないのだぞ?」
「死ぬつもりはありません。何が何でも生きて戻ってきます。シグルド殿下と一緒に。戦況が悪いからこそ、戦場で活躍もしやすいでしょう。殿下が戦果を上げられれば、その名声が派閥の力となります。わたしはそれをお助けしたいのです。どうか許可を」
そうして最後の一人も折れ、ケヴィンはシグルドの書記官として隊列に加わることとなった。
出立までにもう幾日もない時のことだった。
準備と各所への挨拶と、慌ただしく残りの日々を過ごす。
すべきことが終わったのは、前日のことだった。
出立前の最後の夜も、シグルドや仲間たちは酒場へと繰り出した。
ケヴィンもそれに同行し、途中でロアルにシグルドを任せて酒場を出た。
彼女の幸せを考え、会わずにいるつもりだった。
なのに自分の弱さに負けて会いに行ってしまった。
久しぶりに姿を見せたケヴィンを、彼女は以前と変わらぬ様子で迎えてくれた。情けないありさまだったケヴィンを優しく受け入れてくれ、大きな助言を与えてくれた。
忙しさのあまり、あの日以来彼女の元を訪れていない。
あれだけ世話になったのに、挨拶なしで出立するわけにはいかないだろう。
……いや、それも言い訳だ。
挨拶にかこつけて、ケヴィンは夜道を急ぐ。
これからしばらく会えなくなる。
そう思ったら、無性に彼女に会いたくなった。
──・──・──
ケヴィンが久しぶりに訪れた翌日から、新たな噂が広まった。
何人もの貴族たちに、ケヴィンが頭を下げて回っているのだという。
「せっかく戦場に行かなくてよくなったのに、ケヴィン様も奇特な方よね」
「それだけ王子様のことを愛してらっしゃるのよ」
「ケヴィン様の、王子様のかわいがりようは異常よね。いくら従兄弟だからって」
「もう完璧に保護者! まるで父親よね」
「えー? どっちかっていうと父親っていうより母親って感じしない? 口やかましいところとか」
「言えてるー」
相変わらず好き放題だ。
忙しくて遊んでいる暇のない使用人にとって、噂話は娯楽の一つ。単調な手作業の退屈しのぎに、限られた行動範囲で様々なことを知る手段として、噂話を交換する。
面白おかしくしようとして、尾ひれがつくのはいつものことだけど。
それにしても“父親っていうより母親”って……。
思わず吹き出しそうになったのを、アネットはじゃがいもの皮をむきながら必死にこらえる。
あの日以降ケヴィンが訪ねてくることはない。けど、こうして話はちくいち耳に入るから、アネットはやきもきすることなくいつも通りの日々を送ることができた。
自分の言った言葉がケヴィンの為になったのなら、それでいい。それ以上のことは望まない。
ケヴィンが忙しい日々を過ごしていた頃、ヘリオットが訪れた。
事情を話そうとするヘリオットに、アネットは「知ってます」と答えた。あきらめないことを勧めたのは自分だからと。
するとヘリオットは、寂しそうな笑顔を見せた。
「君は、強いね」
何を言われているのか、アネットは何となく察した。
ヘリオットは、アネットの気持ちに気付いている。
以前はわからなかったけど、今ならわかる。ヘリオットがアネットに誘いをかけたのは、アネットがケヴィンにふさわしいか確かめるためだ。貴族と関係を持って金品などをせびるやっかいな女だったりしないかどうかを。ヘリオットにも、ケヴィンは危なっかしく見えたらしい。
結局ヘリオットの誘いには一度も乗らなかったけど、そのおかげか認められているようだ。
アネットの気持ちに気付いているのなら、ヘリオットの言いたいことはこういうことだろう。
好きな相手が望んでいることとはいえ、戦場に向かうことを後押しするなんて並みの神経じゃない。普通なら好きな相手を戦場に向かわせようなんてしないだろうと。
それを強いと言われると、何だか違うような気がする。
ケヴィンに後悔させたくなかっただけで、それ以外のことは見ない振りをしていた。
それで強いと言えるのかどうか。
アネットは自嘲気味に笑った。それを見て、ヘリオットが言う。
「悪い意味で言ってるんじゃないよ。よく言ってくれたって感謝してる。ケヴィンのことだから、一人だけ王都に残ることになったら、自分を責め続けてどうにかなっちまう。俺から言えるようなことじゃなかったから、君が言ってくれて助かった。ありがとう」
「お礼を言っていただくほどのことじゃないです。あたしもそう思っただけで。……ケヴィン様は責任感の強い方ですから」
そう言ってアネットはにっこり笑う。
細く開いた戸口から漏れるわずかな光に照らされたヘリオットは、少しの間困ったような顔をしてアネットを見つめていたけれど、やがてあきらめたかのように上着についたポケットを探った。
「お礼ってわけじゃないけど、いいものあげる。必要になったら使って」
ケヴィンは忙しいから、アネットの所へは来られない。
自分にそう言い聞かせていたのに、ケヴィンはやっぱり律儀だった。
出立する前夜、邸の人たちが寝静まった頃を見計らって酒場から戻ってきたケヴィンは、裏庭に面した扉を叩いてアネットの部屋にやってきた。
勧められてベンチに座ったケヴィンは、正面の丸椅子に座ったアネットをまっすぐ見て言った。
「殿下について行けるようになった。君のおかげだ」
「あたしは大したことしてないですよ。叶ったのはケヴィン様が頑張ったからです。──よかったですね」
思っていた通りの言葉に、アネットは頭の中で何度も繰り返してきた言葉を返す。
練習しておいた。ケヴィンに会うことができたら動揺してしまうと思ったから。
行かないで。
無事に帰って来て。
ここ数日心をさいなんできた二つの想いを胸の内に隠して、アネットはいつものようににっこり笑う。
「出立前にケヴィン様と会えたら、お渡ししたいと思っていた物があるんです」
そして服の下から守り袋を取り出した。
「持っていってください。お守り代わりに」
「え……」
アネットが手のひらに乗せて差し出したものを、ケヴィンは驚きの呟きをもらして凝視する。
とたんに恥ずかしくなった。
どうしてこんなこと思い付いたんだろう。
動揺しないようにといろいろ考えていたのに、やっぱり動揺していたらしい。
「あ、やっぱりダメですか? 中身、小汚いですもんね」
何でこんなこと思い付いたんだろう。他人から見たらごみにしか見えないものをお守りにして、なんて。
頬を赤らめ差し出した格好のまま固まったアネットに、ケヴィンは戸惑った声で言った。
「いや……大事なものなんだろう? 真夜中にゴミまであさってさがそうとしていたくらいに」
五年近く前の話を持ち出されて、アネットは苦笑いを浮かべた。
「そのことはもう忘れてくださいよ。……大事は大事なんですけど、もういいんです。これよりももっと大事なものができましたから」
「大事なもの……?」
アネットは微笑んではぐらかす。
守り袋は心のよりどころだった。両親を知らないアネットが、ただ一つゆるぎなく信じられる親の愛情の証。
だからこそ、ケヴィンに持っていてほしいと思った。親が自分に与えてくれた愛情が、ほんの僅かでもケヴィンを守ってくれるように。
アネットにとって今一番大事なのは、ケヴィンが生きていてくれることだから。
ためらうように瞳を揺らめかせていたケヴィンは、急にふっと笑うと、左の小指から指輪を抜き取った。
「なら、これを代わりに」
「えっ!?」
「これは母の形見だ。君の守り袋の代わりにしてほしい」
高価そうなものと交換というだけでもとんでもないと思うのに、これを聞いてアネットはさらに慌てた。
「だっだだダメですっ! そんな大事なものと交換しなきゃならないなら、これ、持っていっていただかなくても……っ」
胸元に引き寄せて隠そうとした小袋を、ケヴィンはアネットが握り込む前に持っていってしまう。そして中から守り袋を取り出し、代わりに指輪を入れた。
「持っていてほしいんだ。──君に」
深くしみとおってくる声に、アネットは遠慮することをしばし忘れた。
ケヴィンは丸椅子に座るアネットの正面に膝をつき、小袋の長い紐をアネットの首に下げて、腰まであるおさげを一本ずつすくい取るように紐から抜く。
何故か夢の中にいるような気分になった。
酔った体を支えたことはあっても、こんなふうに触れられたことはない。
──いや、一度だけあった。
ケヴィンのベッドに押し倒され、髪をほどかれたあの時。
思い出したとたん、アネットの胸は騒ぎ出す。
息を詰めてケヴィンを見つめていると、三つ編みの毛先を手のひらからするりと落としたケヴィンが、アネットを見つめ返した。
めったに顔色を変えることにないケヴィンの瞳の奥底に、アネットは今まで見たことのない何かを見る。それは熱にうかされたように頼りなくありながら、アネットを捉えて離さない力強さがあった。
先程までの和やかな雰囲気が、いつの間にか別のものにすりかわっている。
息苦しさに、身動きが取れない。
頭はそのことでいっぱいなのに、アネットの口からは別の言葉がもれる。
「あたしの守り袋と、ケヴィン様の指輪とでは、つり合いが取れません……」
「金の価値じゃない。……君なら、わかっているだろう……?」
お互いの声が、苦しげにかすれる。
「だが、君が金銭的価値の差を気にするのなら、もう一つ、もらいたいものがある」
「何、を……?」
「──君に……口づけする、許可を」
どくん、と胸が高鳴る。
踏み込んじゃいけない、そう思うのに。
これが最後になるかもしれないと思ったら、抗い切ることはできなかった。
アネットのおとがいに、ケヴィンの手のひらがやさしく添えられる。
まっすぐ見つめられ、アネットは承諾の言葉の代わりに瞳を閉じた。
ゆっくりと近づいてくる気配がする。
暖かい息を感じたと思ったら、唇に柔らかい感触が触れた。
それは、ただ重なったまま、長い間離れることはなかった。
第二章 完
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