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第二章 シグルド~15歳 ケヴィン~21歳 アネット~20歳(?)
二章-8
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──君は、わたしが好きなのか……?
そう聞かれて、息が止まった。
熱に浮かされたようにかすれた声に、心が打ち震える。
もしかしたら、とずっと思っていた。
アネットのことをしすぎるほどに心配し、ただの下働きを相手にしているとは思えないほど気にかけてくれた。
──ケヴィン様のランプのほうが明るいから、ありがたいですし。
何気に言ったこの言葉を覚えていてくれて、読書がてら明かりを分けてくれた。アネットが気を遣わなくていいように。
知っていると言えるほど、ケヴィンのことを知っているとも思えない。けれど、普段ここまで気を回せる人だとは思えない。
償いかもしれないと思った。それにしてもあれからもう二年以上、償いにしては十分すぎるし、そろそろ忘れてもいい頃だ。
だからそれ以外の想いがあるのではと期待してしまう。
そのたびに考えを打ち消してきた。
ケヴィンはただ優しすぎるだけなのだと。
そう思うしかなかった。
アネットとケヴィンが結ばれることはない。
アネットは下働きで、ケヴィンはアネットの勤める邸の主人の息子。
違いすぎる身分の差に、本来なら会って話をすることもすべきではない。
想いが通じ合っても、その先はきっと苦しくなるばかり。
──君は、わたしが好きなのか……?
そう、なのだと思う。
夜の相手をするようにと言われた時、アネットはがっかりした。
ケヴィンも所詮は男。性欲を満たすために、断るすべのない使用人に夜の相手を命じるのかと。
でもそうじゃなかった。
単なる言葉の行き違いだった。
アネットの思っていた通りの人だとわかって嬉しくなった。
多分、その時から惹かれていた。
──ですから、夜のお供にあたしをご所望でしたら、お相手しますって。
望んでいたのは、むしろアネットのほうだ。
刹那の結びつきであっても、ケヴィンに求めてもらえるなら喜んで自らを捧げたかった。
それと同時に、ケヴィンは結婚できない相手を求めることなんかしないとも考えていた。
下働きのアネットに対してすら、誠実な人だから。
もしそういうことになったら、ケヴィンはきっと苦しむ。
相手の将来を案じ、これから迎える花嫁との間でどっちつかずの自分を責めるに違いない。
言ってることと考えてることが矛盾してる。
自分でも馬鹿だと思う。
けれど矛盾を抱えてしまっても、想うことをやめられないのだ。
ケヴィンの想いに触れて、アネットの心は震え上がった。
望みが叶った喜びと、踏み込んではならないところへ来てしまった怖れに。
ここでその通りだと、本心から言えたらどんなに幸せだったことだろう。
でも、想いが通じ合ったその先にあるものを知っているから。
はぐらかすしかなかった。
いつものようににっこり笑いかけると、ケヴィンの目に失望の色が宿った。アネットの胸がずきんと痛む。
ケヴィンにこんな表情をさせているのはアネットだ。
傷つけたいわけじゃない。できるだけ傷つけなくて済むほうを選んだだけのこと。
アネットにその気がないと考えたのか、ケヴィンもアネットと同じことを考えたのか。
ケヴィンはアネットから目をそらし、背を向けてのろのろと歩き出した。
その背にすがりたかった。
すがって、さっき言ったことは違うと言ってしまいたかった。
アネットはそれを耐えた。
ケヴィンを苦しめたくない。だからこの想いは、決して見せたりなんかしない。
アネットの年齢は正確にはわからない。でも拾われた時の様子からして、もう十八歳になるだろう。
これまでに言い寄られたことも、縁談があったこともあった。
だけど、ケヴィン以外の誰かのものになる決心がつかなかった。
アネットは捨子で、拾ってくれた公爵にも、育ててくれた使用人頭のオルタンヌにも恩がある。だから命じられれば結婚するしかない。けど幸いにも誰も強要しようとはしなかった。
──もしかして、あの噂は本当なのか?
結婚を前提につきあって欲しいと言ってくれた人が言った。
──ケヴィン様の愛人をしてるって。そのことなら僕は気にしない。そんなこと、他の邸じゃよくあることじゃないか。愛人をやめてくれるならそれでいい。ご主人様に恩義があっても、君にだって幸せになる権利はあるはずだ。
幸せ? 私の幸せって何だろう。
誰かと結婚すること?
ケヴィン様以外の誰かと。
そう思うだけで胸がきしむ。
──ごめんなさい。
一言だけ謝った。すると彼は表情を曇らせた。
──もしかしてケヴィン様のことを愛しているのか? どうしたって君はケヴィン様の妻にはなれない。ケヴィン様に身も心もささげて、みすみす不幸になるつもりなのか?
──違うの。あたしはケヴィン様の愛人なんかじゃない。ケヴィン様は愛人をお持ちになるつもりなんか一切ないのよ。……ただ、あたしが今はまだ結婚する気になれないだけ。
──そんなことを言っているうちに嫁ぐこともできなくなるぞ。
──その時はずっとこのお邸に雇ってもらうから、いいの。
ごめんなさい。優しい人。他の人から見たら不幸にしか見えなくても、あたしにはこういう生き方しかできない。
ケヴィンと出会ってしまったから。
──・──・──
あれから二年の歳月が流れた。
邸に近衛隊士たちが招かれる日が少なくなり、それと同時に“お菓子の日”も減って、ケヴィンの訪れも少なくなっていった。
真夜中、アネットの部屋を通って邸に入ることもなくなった。
ケヴィンが少しずつ、アネットから距離を置こうとしているのが感じられた。
それがいいと思う。
一緒にいる時間が長くなるほど、お互い離れがたくなる。深みにはまってしまう前に引き返したほうがいい。
ケヴィンと会えなくなったことが、たまらなく寂しい時もある。
けれどそれも、時が経つにつれ感じなくなっていくだろう。
つらさも寂しさも、長く心の中に留めておけるものじゃない。
そのうちに“こんなことがあった”となつかしく思える日がきっと来る。
シグルドの十五歳の誕生日が近付いて来るにつれ、邸の中では不安なうわさが流れるようになった。
三公爵のうちの一人が、シグルドとケヴィンを戦場に追いやろうとしていると。
戦場なんて噂の中でしか知らないけど、戦況が思わしくないことは聞いていた。
邸にいる誰もが、そのようなことにならないといいと願っていた。
誕生日が間近に迫ったある日、とうとうシグルドが戦場に赴くことが決定したという報せが届く。
「ケヴィン様は何とか行かなくて済んだんだって」
「それだけはよかったよね」
「ホントホント」
下働きの女たちが、噂話を交わしている。
そこにアネットが加わることはなかった。
求婚してきたあの人が言ったように、アネットがケヴィンの愛人になったという噂が流れていて、それが二年経ってケヴィンとのかかわりがなくなった今でも続いている。積極的にいじわるをされるということはないけれど、女の使用人たちの大半に無視され続けていた。
この国は一夫一妻制が重んじられ愛人は嫌われるのだから仕方ない。特に相手がみんながあこがれるケヴィンなのだから、敵視されたっておかしくない。なのに無視だけで済むというのはらっきーなほうだ。
こういう噂は、当人が否定して回っても信じてはもらえない。
孤独だった。でもかまわなかった。
逢瀬が多ければバレないわけがないとわかっていながら、それをケヴィンに言わなかったのだから。
らっきーだったと、心から思う。
他の何をおいてもかまわないくらい、好きな人と出会えて。
だから後悔なんてしていない。
その夜、繕い物をしながらケヴィンのことを思った。
きっとシグルドは戦場に行き、自分がここに残ることで悩んでいると思う。
あれだけ大事にしていた彼を一人戦場に向かわせるのは、身を切るよりつらいだろう。
今回のことでいろんなことを知った。
ケヴィンの亡くなった母親は現国王の姉で、ケヴィンは現在第三位の王位継承権を持つということ。三公爵は均等に権力を持たなくてはならないのに、今は一人の公爵に権力が集中して国政がおかしくなりつつあるということ。これ以上おかしくならないようにするために、シグルドとケヴィンの二人共を失うような危険を冒してはならないということ。
ケヴィンがここに残される理由は、アネットにもわかった。
けど、感情がそれに伴うとは限らない。
シグルドが戦場に行かなければならない事態を阻止できず、自分はここに残らなくてはならない。ケヴィンのせいではないけれど、彼の性格を思うに、自身に責任を感じていることだろう。
ケヴィン様、自分を責めすぎてなければいいけど……。
そう思いながら針を進めていると、洗濯室からカツンと足音が聞こえた。
その音にはっとして、アネットは誰なのか確かめもせず洗濯室に続く扉を開く。
洗濯室の入口に寄りかかったケヴィンがそこにいた。
支えがなければ倒れそうな様子に心配して駆け寄れば、ケヴィンから強い酒のにおいがただよってくる。
うつむいてアネットを見ようとしないケヴィンに、アネットは言った。
「酔ってらっしゃるんですか?」
「……酔えないんだ」
その一言から、ケヴィンの苦悩が伝わってくる。
「ともかく座って落ち付きましょう。来てください」
アネットが腕をかついで支えようとすると、ケヴィンはアネットから腕を退いて自分で歩き出す。
ふらつくケヴィンを気にしながら、アネットは先導するように部屋に入った。
「座ってください」
思っていた通りのひどい有様だった。目はうつろで顔色は悪く、ベンチに座ると前屈みになって膝に肘をつき、つらそうに体を支える。
そのまま動かなくなった。
何をしに来たのか、どうしたらいいのかわからない。
「……水を汲んできますね」
そう言ってケヴィンの前から離れようとした時、不意に手首をつかまれた。
ケヴィンは重々しく口を開く。
「殿下が、戦場に赴かれることに決まったんだ」
「……そうみたいですね」
「だが、殿下も父も、わたしにここに残れと言う」
苦渋に満ちた声に、アネットは相槌すら返せなかった。
ケヴィンは、アネットをつかんだのとは反対のほうの手で頭を抱える。
「理屈ではわかっているんだ。王位継承者の上位を、これ以上ラダム公爵派で占めてはならない。殿下は王命だから向かわなければならないが、わたしにはその命令は下されなかった。だからわたしは戦場に行かなくて済むようにする。それが最善だと。だが、わたしはどうしても納得しきれないでいる。今までわたしは自分の手で殿下を守ってきた。それを今になって、一番肝心なこの時に放棄しなければならないのか?」
アネットから手を離し、ケヴィンは両手で頭を抱え始める。
不謹慎と思いながらも、アネットは喜びを感じていた。
こんなつらいときに、アネットを頼ってくれた。しばらく会わなかったけれど、ケヴィンの中にはまだアネットが存在する。
ならあたしは、その信頼に応えよう。
アネットは微笑み、ケヴィンの肩に手を置いた。
「しなければいいんじゃないですか?」
ケヴィンがぼんやりと顔を上げる。
「放棄しなければいいんです」
これを聞いたケヴィンの表情に、いらだちがにじんだ。
「そんなに単純な話では」
その言葉を遮ってアネットは言う。
「あたしには難しいことはわかりません。でも、要は死んではダメということでしょう? ケヴィン様も──殿下も」
怒り出しそうだったケヴィンの顔が、虚を突かれたようにゆるんだ。
アネットは目を細めていっそう微笑む。
「殿下を守り通せばいいんじゃないですか? そしてケヴィン様も生きて帰ってくればいいんです。そうすれば何の問題もないように思うんですが、違いますか?」
無責任な言い方になってしまったけど、突き詰めればそういうことなんだと思う。
ケヴィンだけでなく、シグルドも死んではいけない。
戦場に行ったからといって、絶対に死ぬわけじゃない。
だから二人で生きて帰ってこればいい。
「もちろん戦場になんか行ってほしくないですよ? けど、殿下をこのままお一人で行かせてもしものことがあったら、ケヴィン様はきっと一生苦しむことになる。あたしはケヴィン様に後悔してほしくないんです。反対されるんなら約束すればいいんです。必ず生きて帰るって。そうすれば皆さん、きっとわかってくれます」
行ってほしくなんかない。
けど、それがケヴィンの望みなら、精一杯後押ししよう。
自分の感情は、心の底に押し込めて。
ケヴィンは額に手を当てため息をついた。
「それで許可が下りると、本当に思っているのか?」
「試してみなければわからないじゃないですか。ぶっちゃけ言いますと、ケヴィン様のお話からは“生きて戻る”っていう意思が感じられませんでした。そんな調子でお願いしたところで、戦場に行く許可なんかおりませんよ。あたしだったら心配になって絶対に許可しません。──ダメ元で試してみましょうよ。このまま何の努力もせずに、みすみす殿下を見送ることになってもいいんですか?」
アネットが言い終えると、ケヴィンは額から手を降ろし、ゆっくりと顔を上げた。
途方に暮れたような顔をして、アネットを見上げてくる。
今なら許されるだろうか?
ケヴィンの望みが叶うことを願って。
戦場に向かうことになるだろうケヴィンの無事を祈って。
“知り合い”なのだから、どこもおかしくないはず。
自分に言い訳して、抑えきれない想いに引きずられるように、アネットは体をかがめてケヴィンの額に口づけを落とした。
唇は額に軽く触れ、一呼吸の間も置かずゆっくりと離れていく。
驚いたようにわずかに目を見開くケヴィンに、アネットは想いを隠してもう一度微笑んだ。
「無事に帰って来てください。みなさんのために」
そう聞かれて、息が止まった。
熱に浮かされたようにかすれた声に、心が打ち震える。
もしかしたら、とずっと思っていた。
アネットのことをしすぎるほどに心配し、ただの下働きを相手にしているとは思えないほど気にかけてくれた。
──ケヴィン様のランプのほうが明るいから、ありがたいですし。
何気に言ったこの言葉を覚えていてくれて、読書がてら明かりを分けてくれた。アネットが気を遣わなくていいように。
知っていると言えるほど、ケヴィンのことを知っているとも思えない。けれど、普段ここまで気を回せる人だとは思えない。
償いかもしれないと思った。それにしてもあれからもう二年以上、償いにしては十分すぎるし、そろそろ忘れてもいい頃だ。
だからそれ以外の想いがあるのではと期待してしまう。
そのたびに考えを打ち消してきた。
ケヴィンはただ優しすぎるだけなのだと。
そう思うしかなかった。
アネットとケヴィンが結ばれることはない。
アネットは下働きで、ケヴィンはアネットの勤める邸の主人の息子。
違いすぎる身分の差に、本来なら会って話をすることもすべきではない。
想いが通じ合っても、その先はきっと苦しくなるばかり。
──君は、わたしが好きなのか……?
そう、なのだと思う。
夜の相手をするようにと言われた時、アネットはがっかりした。
ケヴィンも所詮は男。性欲を満たすために、断るすべのない使用人に夜の相手を命じるのかと。
でもそうじゃなかった。
単なる言葉の行き違いだった。
アネットの思っていた通りの人だとわかって嬉しくなった。
多分、その時から惹かれていた。
──ですから、夜のお供にあたしをご所望でしたら、お相手しますって。
望んでいたのは、むしろアネットのほうだ。
刹那の結びつきであっても、ケヴィンに求めてもらえるなら喜んで自らを捧げたかった。
それと同時に、ケヴィンは結婚できない相手を求めることなんかしないとも考えていた。
下働きのアネットに対してすら、誠実な人だから。
もしそういうことになったら、ケヴィンはきっと苦しむ。
相手の将来を案じ、これから迎える花嫁との間でどっちつかずの自分を責めるに違いない。
言ってることと考えてることが矛盾してる。
自分でも馬鹿だと思う。
けれど矛盾を抱えてしまっても、想うことをやめられないのだ。
ケヴィンの想いに触れて、アネットの心は震え上がった。
望みが叶った喜びと、踏み込んではならないところへ来てしまった怖れに。
ここでその通りだと、本心から言えたらどんなに幸せだったことだろう。
でも、想いが通じ合ったその先にあるものを知っているから。
はぐらかすしかなかった。
いつものようににっこり笑いかけると、ケヴィンの目に失望の色が宿った。アネットの胸がずきんと痛む。
ケヴィンにこんな表情をさせているのはアネットだ。
傷つけたいわけじゃない。できるだけ傷つけなくて済むほうを選んだだけのこと。
アネットにその気がないと考えたのか、ケヴィンもアネットと同じことを考えたのか。
ケヴィンはアネットから目をそらし、背を向けてのろのろと歩き出した。
その背にすがりたかった。
すがって、さっき言ったことは違うと言ってしまいたかった。
アネットはそれを耐えた。
ケヴィンを苦しめたくない。だからこの想いは、決して見せたりなんかしない。
アネットの年齢は正確にはわからない。でも拾われた時の様子からして、もう十八歳になるだろう。
これまでに言い寄られたことも、縁談があったこともあった。
だけど、ケヴィン以外の誰かのものになる決心がつかなかった。
アネットは捨子で、拾ってくれた公爵にも、育ててくれた使用人頭のオルタンヌにも恩がある。だから命じられれば結婚するしかない。けど幸いにも誰も強要しようとはしなかった。
──もしかして、あの噂は本当なのか?
結婚を前提につきあって欲しいと言ってくれた人が言った。
──ケヴィン様の愛人をしてるって。そのことなら僕は気にしない。そんなこと、他の邸じゃよくあることじゃないか。愛人をやめてくれるならそれでいい。ご主人様に恩義があっても、君にだって幸せになる権利はあるはずだ。
幸せ? 私の幸せって何だろう。
誰かと結婚すること?
ケヴィン様以外の誰かと。
そう思うだけで胸がきしむ。
──ごめんなさい。
一言だけ謝った。すると彼は表情を曇らせた。
──もしかしてケヴィン様のことを愛しているのか? どうしたって君はケヴィン様の妻にはなれない。ケヴィン様に身も心もささげて、みすみす不幸になるつもりなのか?
──違うの。あたしはケヴィン様の愛人なんかじゃない。ケヴィン様は愛人をお持ちになるつもりなんか一切ないのよ。……ただ、あたしが今はまだ結婚する気になれないだけ。
──そんなことを言っているうちに嫁ぐこともできなくなるぞ。
──その時はずっとこのお邸に雇ってもらうから、いいの。
ごめんなさい。優しい人。他の人から見たら不幸にしか見えなくても、あたしにはこういう生き方しかできない。
ケヴィンと出会ってしまったから。
──・──・──
あれから二年の歳月が流れた。
邸に近衛隊士たちが招かれる日が少なくなり、それと同時に“お菓子の日”も減って、ケヴィンの訪れも少なくなっていった。
真夜中、アネットの部屋を通って邸に入ることもなくなった。
ケヴィンが少しずつ、アネットから距離を置こうとしているのが感じられた。
それがいいと思う。
一緒にいる時間が長くなるほど、お互い離れがたくなる。深みにはまってしまう前に引き返したほうがいい。
ケヴィンと会えなくなったことが、たまらなく寂しい時もある。
けれどそれも、時が経つにつれ感じなくなっていくだろう。
つらさも寂しさも、長く心の中に留めておけるものじゃない。
そのうちに“こんなことがあった”となつかしく思える日がきっと来る。
シグルドの十五歳の誕生日が近付いて来るにつれ、邸の中では不安なうわさが流れるようになった。
三公爵のうちの一人が、シグルドとケヴィンを戦場に追いやろうとしていると。
戦場なんて噂の中でしか知らないけど、戦況が思わしくないことは聞いていた。
邸にいる誰もが、そのようなことにならないといいと願っていた。
誕生日が間近に迫ったある日、とうとうシグルドが戦場に赴くことが決定したという報せが届く。
「ケヴィン様は何とか行かなくて済んだんだって」
「それだけはよかったよね」
「ホントホント」
下働きの女たちが、噂話を交わしている。
そこにアネットが加わることはなかった。
求婚してきたあの人が言ったように、アネットがケヴィンの愛人になったという噂が流れていて、それが二年経ってケヴィンとのかかわりがなくなった今でも続いている。積極的にいじわるをされるということはないけれど、女の使用人たちの大半に無視され続けていた。
この国は一夫一妻制が重んじられ愛人は嫌われるのだから仕方ない。特に相手がみんながあこがれるケヴィンなのだから、敵視されたっておかしくない。なのに無視だけで済むというのはらっきーなほうだ。
こういう噂は、当人が否定して回っても信じてはもらえない。
孤独だった。でもかまわなかった。
逢瀬が多ければバレないわけがないとわかっていながら、それをケヴィンに言わなかったのだから。
らっきーだったと、心から思う。
他の何をおいてもかまわないくらい、好きな人と出会えて。
だから後悔なんてしていない。
その夜、繕い物をしながらケヴィンのことを思った。
きっとシグルドは戦場に行き、自分がここに残ることで悩んでいると思う。
あれだけ大事にしていた彼を一人戦場に向かわせるのは、身を切るよりつらいだろう。
今回のことでいろんなことを知った。
ケヴィンの亡くなった母親は現国王の姉で、ケヴィンは現在第三位の王位継承権を持つということ。三公爵は均等に権力を持たなくてはならないのに、今は一人の公爵に権力が集中して国政がおかしくなりつつあるということ。これ以上おかしくならないようにするために、シグルドとケヴィンの二人共を失うような危険を冒してはならないということ。
ケヴィンがここに残される理由は、アネットにもわかった。
けど、感情がそれに伴うとは限らない。
シグルドが戦場に行かなければならない事態を阻止できず、自分はここに残らなくてはならない。ケヴィンのせいではないけれど、彼の性格を思うに、自身に責任を感じていることだろう。
ケヴィン様、自分を責めすぎてなければいいけど……。
そう思いながら針を進めていると、洗濯室からカツンと足音が聞こえた。
その音にはっとして、アネットは誰なのか確かめもせず洗濯室に続く扉を開く。
洗濯室の入口に寄りかかったケヴィンがそこにいた。
支えがなければ倒れそうな様子に心配して駆け寄れば、ケヴィンから強い酒のにおいがただよってくる。
うつむいてアネットを見ようとしないケヴィンに、アネットは言った。
「酔ってらっしゃるんですか?」
「……酔えないんだ」
その一言から、ケヴィンの苦悩が伝わってくる。
「ともかく座って落ち付きましょう。来てください」
アネットが腕をかついで支えようとすると、ケヴィンはアネットから腕を退いて自分で歩き出す。
ふらつくケヴィンを気にしながら、アネットは先導するように部屋に入った。
「座ってください」
思っていた通りのひどい有様だった。目はうつろで顔色は悪く、ベンチに座ると前屈みになって膝に肘をつき、つらそうに体を支える。
そのまま動かなくなった。
何をしに来たのか、どうしたらいいのかわからない。
「……水を汲んできますね」
そう言ってケヴィンの前から離れようとした時、不意に手首をつかまれた。
ケヴィンは重々しく口を開く。
「殿下が、戦場に赴かれることに決まったんだ」
「……そうみたいですね」
「だが、殿下も父も、わたしにここに残れと言う」
苦渋に満ちた声に、アネットは相槌すら返せなかった。
ケヴィンは、アネットをつかんだのとは反対のほうの手で頭を抱える。
「理屈ではわかっているんだ。王位継承者の上位を、これ以上ラダム公爵派で占めてはならない。殿下は王命だから向かわなければならないが、わたしにはその命令は下されなかった。だからわたしは戦場に行かなくて済むようにする。それが最善だと。だが、わたしはどうしても納得しきれないでいる。今までわたしは自分の手で殿下を守ってきた。それを今になって、一番肝心なこの時に放棄しなければならないのか?」
アネットから手を離し、ケヴィンは両手で頭を抱え始める。
不謹慎と思いながらも、アネットは喜びを感じていた。
こんなつらいときに、アネットを頼ってくれた。しばらく会わなかったけれど、ケヴィンの中にはまだアネットが存在する。
ならあたしは、その信頼に応えよう。
アネットは微笑み、ケヴィンの肩に手を置いた。
「しなければいいんじゃないですか?」
ケヴィンがぼんやりと顔を上げる。
「放棄しなければいいんです」
これを聞いたケヴィンの表情に、いらだちがにじんだ。
「そんなに単純な話では」
その言葉を遮ってアネットは言う。
「あたしには難しいことはわかりません。でも、要は死んではダメということでしょう? ケヴィン様も──殿下も」
怒り出しそうだったケヴィンの顔が、虚を突かれたようにゆるんだ。
アネットは目を細めていっそう微笑む。
「殿下を守り通せばいいんじゃないですか? そしてケヴィン様も生きて帰ってくればいいんです。そうすれば何の問題もないように思うんですが、違いますか?」
無責任な言い方になってしまったけど、突き詰めればそういうことなんだと思う。
ケヴィンだけでなく、シグルドも死んではいけない。
戦場に行ったからといって、絶対に死ぬわけじゃない。
だから二人で生きて帰ってこればいい。
「もちろん戦場になんか行ってほしくないですよ? けど、殿下をこのままお一人で行かせてもしものことがあったら、ケヴィン様はきっと一生苦しむことになる。あたしはケヴィン様に後悔してほしくないんです。反対されるんなら約束すればいいんです。必ず生きて帰るって。そうすれば皆さん、きっとわかってくれます」
行ってほしくなんかない。
けど、それがケヴィンの望みなら、精一杯後押ししよう。
自分の感情は、心の底に押し込めて。
ケヴィンは額に手を当てため息をついた。
「それで許可が下りると、本当に思っているのか?」
「試してみなければわからないじゃないですか。ぶっちゃけ言いますと、ケヴィン様のお話からは“生きて戻る”っていう意思が感じられませんでした。そんな調子でお願いしたところで、戦場に行く許可なんかおりませんよ。あたしだったら心配になって絶対に許可しません。──ダメ元で試してみましょうよ。このまま何の努力もせずに、みすみす殿下を見送ることになってもいいんですか?」
アネットが言い終えると、ケヴィンは額から手を降ろし、ゆっくりと顔を上げた。
途方に暮れたような顔をして、アネットを見上げてくる。
今なら許されるだろうか?
ケヴィンの望みが叶うことを願って。
戦場に向かうことになるだろうケヴィンの無事を祈って。
“知り合い”なのだから、どこもおかしくないはず。
自分に言い訳して、抑えきれない想いに引きずられるように、アネットは体をかがめてケヴィンの額に口づけを落とした。
唇は額に軽く触れ、一呼吸の間も置かずゆっくりと離れていく。
驚いたようにわずかに目を見開くケヴィンに、アネットは想いを隠してもう一度微笑んだ。
「無事に帰って来てください。みなさんのために」
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