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第一章 シグルド10歳 ケヴィン16歳 アネット15歳(?)
一章-7
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「なら何が欲しい? 金か? 今よりましな仕事か?」
うわ~言ってくれるなぁ。
アネットは心の中でつぶやいた。これはちょっと……いや、けっこうイタかった。
そういう聞き方をするってことは、下心あって近付いたと思われているのだろう。主人の息子に一介の下働きが近付くなんて、そう思われても仕方ないんだろうけど、それにしたってイタい。
だから、今回のことを笑って終わりにしようとしたアネットの表情は崩れてしまった。
お金はあったらいいと思うし、仕事はもう少し楽になったらありがたい。でも、それを目的に近付いたと思われるとツラい。
ベッドの端に座ったままアネットを見上げていたケヴィンは、立ち上がって頭を下げた。
「失礼だということは重々承知している。しかしわたしは、それくらいのことでしか君に償えない」
顔を上げると、辛そうにアネットから視線をそらす。
あれ? 何か様子が……。
ケヴィンはアネットの困惑をよそに、目をそらしたまま苦しそうに言葉を続けた。
「あまりよくは覚えていないが、わたしは君に不埒な真似をしたのだろう? 金や仕事で償うのは卑怯だと思うが、わたしにできることはそれくらいしかない」
不埒? 卑怯?
これ以上言葉を続けさせるのは悪いと思い、アネットは口を開いた。
「あのぅ……ケヴィン様はあたしに何をしたと思ってるんですか?」
「……」
一瞬アネットに視線を向けたケヴィンは、“責めは甘んじて受ける”とでも言いそうな雰囲気でうつむいてしまう。
アネットはぽりぽりと頭をかいた。
「あたし、何もされてませんよ?」
驚いたように顔を上げ、ケヴィンは勢い込んで言う。
「そんなことはないだろう! もうろうとしていたが、確かに──」
言いかけて思い出したのか、赤くなってまたうつむいてしまう。
確かにまったく何もなかったわけじゃない。
抱きしめられて。
押し倒されて。
キスされて。
髪をくしゃくしゃにされた。
でも、最後までいったわけじゃないし、ケヴィンは今、償おうとしてくれている。
アネットを傷つけたかったわけじゃない。ただ言葉が上手くなかっただけ。
だったらやっぱり、あの夜のことはこれで終わりにしちゃったほうがいい。
アネットは場を和ませようと笑い出した。
「あれくらいのこと、たいしたことありません。本当に覚えてないんですか?」
「あ、ああ……」
言い淀むけれど、覚えていないのは間違いないようだ。なら余計なことは言わないほうがいい。
「ケヴィン様はあたしを巻き込んでベッドに倒れちゃったんですが、そのあとすぐ寝ちゃったんですよ」
一部はしょって話す。
「そのあとケヴィン様の下から這い出て、靴を脱がせて毛布をかぶせたんですけどね。寒そうに震えてたからあたためてあげようと思いまして、ベッドにもぐり込んだんです」
眠って動かなくなってしまったケヴィンの下で、アネットは何とか腕を動かし、エプロンのポケットに押し込んだ布を引っ張り出してケヴィンの胸元を拭いた。
アネットの部屋から邸の中に入った時、手近にあった布をひっつかんで、ケヴィンが上着にこぼした水を拭いたのだ。それをエプロンの真ん中についたポケットに押し込んで、二階の部屋まで連れていった。
ポケットはケヴィンの体に押しつぶされてしまい、布を取り出す時に力が入った。そのときに中に軽く縫い付けてあった守り袋も、引っ張られて取れてしまったのだろう。
順番を間違えたと思う。ケヴィンの下から這い出してから、ポケットから布を取り出して拭いてあげればよかった。
ベッドから降りたアネットは、ケヴィンの靴を脱がせ毛布をかけ、床に落とした上着を椅子にかけて、寝室を出る前に念のためと思って様子をうかがった。
ケヴィンは震えてた。体を丸めるようにして。
そりゃあ寒いだろう。たくさん濡れていたし、拭いたとはいえまだ湿ったシャツを着ていて、脱がせられそうになかった。毛布の上から何かをかけようと思ったけれど、どこに何があるかわからなかったし、上着は濡れてしまっている。
それについつい誘惑されてしまった。ふかふかのベッドに。
さっきは這い出すのに精一杯だったから、今度はあたためるついでにちょっとだけ堪能したいなー、なんて。
震えが止まるまでと思いながら、靴だけ脱いで毛布の中にもぐりこんだ。
隣に横になったとたん抱き寄せられた。あたたかさを求めて、甘えるようにすりよられて。
今度こそがっちり抱きかかえられて逃げられなくなった。
男に抱きつかれているという状況にドキドキしながらも、“あたたかくなれば離してくれるだろう”と考えているうちに、すごく眠たくなってきてしまって。
そのまま眠ってしまったのだ。
──という細かい話はせずに、簡単にまとめた。
「震えが止まるまでって思ってたんですけど、そのまま明け方まで寝ちゃいました。ごめんなさい」
アネットはぺこり頭を下げる。
が、ケヴィンから申し訳なさそうな表情は消えなかった。
「しかし、わたしが君に面倒をかけたことに変わりない」
「面倒ってほどの面倒なんてかけられてませんよ。むしろ一生ご縁がなかったはずのふかふかのベッドに寝れてらっきーだったというか……」
「だが、君はいいのか? 本来なら君と結婚しなくてはならないようなことを、わたしはしたんだぞ?」
はぁ!?
「あれだけのことで、何であたしと結婚しなきゃならないんです!?」
「──同じベッドで一夜を明かした」
「だからそれは、あたしがうっかり寝過ごしちゃっただけで」
何か話が混乱してきた。一夜を明かしたという話は、今アネットが話したから知ったはずなのに。
ケヴィンは苦悩するように、重々しく言った。
「記憶があいまいであっても、わたしがしたことに変わりはない。しかしわたしには、この家の嫡子という義務がある。君を妻にすることはできない。だから他のことで償いたいと言っているんだ」
──悪気はないんだろうけど、むかむかしてきた。
こっちが頼んでもないことを、申し訳なさそうに断るなっての!
「償ってほしいなんて言ってません。あたしに悪いと思うなら、さっさと話を終わらせて忘れてください! だいたいこんなところを他の使用人に見られたりしたら、困るのはあたしなんですよ!? この先仕事がやりにくくなったらどーしてくれるんですか!」
「あ──」
そのことはわかってくれたようで、ケヴィンはつぶやいて押し黙る。
アネットはとげとげしく言葉を続けた。
「そういうことですから、この場から早く解放していただけるほうがあたしには助かるんです。それともビィチャムさんが望んでいるように、“そういう仲”になってみますか? そしたらこの服も“お手当”として受け取りますよ?」
イジワルついでに流し目を送ってみせると、案の定ケヴィンはたじろいであとずさる。
こーゆー反応も何か傷つくなぁ……。
顔をひきつらせながら、アネットは言った。
「そーゆーことで。あたし、行きますね」
アネットは扉に向かって歩き出した。
オルタンヌさん、どっかで待ちかまえてるだろうなぁ。
アネットはどう説明したものかと思案する。もしかするとビィチャムとも出くわすかもしれない。ビィチャムは“成果”を期待してるだろうから、何もなかったと話してそれで済むかどうか……。
アネットが五歩も歩かないうちに、うしろから声をかけられた。
「君はそれでいいのか? 夫でもない男に不埒な真似をされたというのに……」
途方に暮れた声。悲壮感さえ漂っているような気がする。
やれやれ。しょうがないな、このお坊ちゃんは。
アネットはきびすを返して、ケヴィンの前に戻った。見上げると、困り切った頼りなげな目でアネットを見つめ返してくる。
小さくため息をつき、アネットは苦笑した。
「相手があたしでよかったですね。相手によっちゃつけ込まれて、邸がつぶれちゃうところでしたよ。これからはビィチャムさんに相談してくださいね。心得てると思うから、ちゃんと処理してくれるはずです。──それと、今回のことをどーしても償いたいっていうなら、使用人全員にお菓子をふるまってくださいよ」
「は?」
ぽかんとするケヴィンに、アネットはにんまりと笑う。
「次に近衛隊士の皆さんが来る時でいいです。料理長さんにたくさん作るように言って、使用人全員に配るよう指示してください。全員にですよ? そうしなきゃ下働きのあたしにまで回ってきません。──このお邸に何人使用人がいると思います? 行きわたるように作らせるとなると、すごい量になりますよ?」
我ながらいい考えだとアネットは思う。これなら念願のお菓子が食べられるし、ケヴィンの良心の呵責も解消できる。
ケヴィンは理解しがたいといった感じに眉をひそめた。
「何故、使用人全員に?」
「そりゃあ一人でいい思いをして、それがあとでバレたらコワいからです」
胸を張ってアネットはきっぱり答える。
どこかに視線をさまよわせて何やら考え込んだケヴィンは、しばらくして「わかった」と返事した。
「じゃあホントにもう行きますね」
「待て」
扉に向かおうとすると、また声をかけられる。
振り返ったら、ケヴィンがためらいがちに聞いてきた。
「君の名前は?」
あ、名乗ってなかったか。
「アネットです」
にこっと笑って答えると、アネットは今度こそ寝室を出た。
後日、近衛隊士たちがやってきたその日に、大量のお菓子が作られて、アネットたち下の使用人たちにも分けられた。
しかも何種類ものお菓子が下の使用人休憩室のテーブルに所狭しと並ぶ。
ケヴィン様ってば、いったいどういう指示の出し方をしたのかしら……?
アネットは内心あきれ果てつつ、下働きの仲間たちと一緒にお腹いっぱい食べた。
その夜、夜なべ仕事の息抜きにふと外を見てみたら、井戸の側に人影があった。
アネットは外に出て、ゆっくりと近付く。
「何でそんなところにいるんですか? ケヴィン様」
「ここにいれば、君に会えるような気がしていた」
この人、どーいうつもりでこんなこと言うんだろう。
他意はないとわかり切っていても、アネットの頬は赤らんでくる。
暗がりでよかった……。
今宵の月は半月。満月の時ほどの明るさはない。
ケヴィンはアネットの頬に気付かない様子で、平坦な声で尋ねてきた。
「菓子は食べたか?」
「ありがとうございました。美味しかったです。お腹いっぱい食べさせてもらいましたよ。おかげで夕飯が食べられなかったです。──何て言って料理長にお菓子を作らせたんですか?」
「たまには使用人たちにも菓子を食べさせてやってくれと言って、あのドレスと同じ額の資金を渡した。一度では使い切れないと言うから、また菓子がふるまわれることがあるだろう」
あのドレスって、そんなに高かったんだ……。
「どうした?」
額を押さえてうなだれたアネットに、ケヴィンは不思議そうに声をかける。
アネットは顔を上げ、肩をすくめて笑った。
「あんまり使用人を甘やかしちゃダメですよ。一度に一種類も食べられれば十分です」
「そうか」
言いながら、ケヴィンは上着のポケットから何かを取り出した。
長い紐のついたそれを、手のひらに載せてアネットに突き出してきた。
「下街でみつくろってきた。これに入れて首に下げておけば、なくすことはないだろう」
紐付きの守り袋だった。この間のドレスのような上等なものではなく、庶民の服の端切れのような質素な布で作られている。
これなら下働きのアネットが持っていてもおかしくない。
学習してらっしゃいます、お坊ちゃま!
「ありがとうございます」
アネットは素直に両手を差し出す。アネットの手のひらの上に、ケヴィンは守り袋を落とした。
それにしても。
「あの、お聞きしたいんですけど、あたしのアレをどうしてケヴィン様はごみだと思わなかったんですか?」
ケヴィンは不思議そうに首をかしげた。
「何故あれをごみだと? 擦り切れ汚れても持ち歩いているだろうものだから、相当大事にしているのだと思っただけだ」
アネットの胸の奥が、ほっこりと温かくなった。
第一章 完
うわ~言ってくれるなぁ。
アネットは心の中でつぶやいた。これはちょっと……いや、けっこうイタかった。
そういう聞き方をするってことは、下心あって近付いたと思われているのだろう。主人の息子に一介の下働きが近付くなんて、そう思われても仕方ないんだろうけど、それにしたってイタい。
だから、今回のことを笑って終わりにしようとしたアネットの表情は崩れてしまった。
お金はあったらいいと思うし、仕事はもう少し楽になったらありがたい。でも、それを目的に近付いたと思われるとツラい。
ベッドの端に座ったままアネットを見上げていたケヴィンは、立ち上がって頭を下げた。
「失礼だということは重々承知している。しかしわたしは、それくらいのことでしか君に償えない」
顔を上げると、辛そうにアネットから視線をそらす。
あれ? 何か様子が……。
ケヴィンはアネットの困惑をよそに、目をそらしたまま苦しそうに言葉を続けた。
「あまりよくは覚えていないが、わたしは君に不埒な真似をしたのだろう? 金や仕事で償うのは卑怯だと思うが、わたしにできることはそれくらいしかない」
不埒? 卑怯?
これ以上言葉を続けさせるのは悪いと思い、アネットは口を開いた。
「あのぅ……ケヴィン様はあたしに何をしたと思ってるんですか?」
「……」
一瞬アネットに視線を向けたケヴィンは、“責めは甘んじて受ける”とでも言いそうな雰囲気でうつむいてしまう。
アネットはぽりぽりと頭をかいた。
「あたし、何もされてませんよ?」
驚いたように顔を上げ、ケヴィンは勢い込んで言う。
「そんなことはないだろう! もうろうとしていたが、確かに──」
言いかけて思い出したのか、赤くなってまたうつむいてしまう。
確かにまったく何もなかったわけじゃない。
抱きしめられて。
押し倒されて。
キスされて。
髪をくしゃくしゃにされた。
でも、最後までいったわけじゃないし、ケヴィンは今、償おうとしてくれている。
アネットを傷つけたかったわけじゃない。ただ言葉が上手くなかっただけ。
だったらやっぱり、あの夜のことはこれで終わりにしちゃったほうがいい。
アネットは場を和ませようと笑い出した。
「あれくらいのこと、たいしたことありません。本当に覚えてないんですか?」
「あ、ああ……」
言い淀むけれど、覚えていないのは間違いないようだ。なら余計なことは言わないほうがいい。
「ケヴィン様はあたしを巻き込んでベッドに倒れちゃったんですが、そのあとすぐ寝ちゃったんですよ」
一部はしょって話す。
「そのあとケヴィン様の下から這い出て、靴を脱がせて毛布をかぶせたんですけどね。寒そうに震えてたからあたためてあげようと思いまして、ベッドにもぐり込んだんです」
眠って動かなくなってしまったケヴィンの下で、アネットは何とか腕を動かし、エプロンのポケットに押し込んだ布を引っ張り出してケヴィンの胸元を拭いた。
アネットの部屋から邸の中に入った時、手近にあった布をひっつかんで、ケヴィンが上着にこぼした水を拭いたのだ。それをエプロンの真ん中についたポケットに押し込んで、二階の部屋まで連れていった。
ポケットはケヴィンの体に押しつぶされてしまい、布を取り出す時に力が入った。そのときに中に軽く縫い付けてあった守り袋も、引っ張られて取れてしまったのだろう。
順番を間違えたと思う。ケヴィンの下から這い出してから、ポケットから布を取り出して拭いてあげればよかった。
ベッドから降りたアネットは、ケヴィンの靴を脱がせ毛布をかけ、床に落とした上着を椅子にかけて、寝室を出る前に念のためと思って様子をうかがった。
ケヴィンは震えてた。体を丸めるようにして。
そりゃあ寒いだろう。たくさん濡れていたし、拭いたとはいえまだ湿ったシャツを着ていて、脱がせられそうになかった。毛布の上から何かをかけようと思ったけれど、どこに何があるかわからなかったし、上着は濡れてしまっている。
それについつい誘惑されてしまった。ふかふかのベッドに。
さっきは這い出すのに精一杯だったから、今度はあたためるついでにちょっとだけ堪能したいなー、なんて。
震えが止まるまでと思いながら、靴だけ脱いで毛布の中にもぐりこんだ。
隣に横になったとたん抱き寄せられた。あたたかさを求めて、甘えるようにすりよられて。
今度こそがっちり抱きかかえられて逃げられなくなった。
男に抱きつかれているという状況にドキドキしながらも、“あたたかくなれば離してくれるだろう”と考えているうちに、すごく眠たくなってきてしまって。
そのまま眠ってしまったのだ。
──という細かい話はせずに、簡単にまとめた。
「震えが止まるまでって思ってたんですけど、そのまま明け方まで寝ちゃいました。ごめんなさい」
アネットはぺこり頭を下げる。
が、ケヴィンから申し訳なさそうな表情は消えなかった。
「しかし、わたしが君に面倒をかけたことに変わりない」
「面倒ってほどの面倒なんてかけられてませんよ。むしろ一生ご縁がなかったはずのふかふかのベッドに寝れてらっきーだったというか……」
「だが、君はいいのか? 本来なら君と結婚しなくてはならないようなことを、わたしはしたんだぞ?」
はぁ!?
「あれだけのことで、何であたしと結婚しなきゃならないんです!?」
「──同じベッドで一夜を明かした」
「だからそれは、あたしがうっかり寝過ごしちゃっただけで」
何か話が混乱してきた。一夜を明かしたという話は、今アネットが話したから知ったはずなのに。
ケヴィンは苦悩するように、重々しく言った。
「記憶があいまいであっても、わたしがしたことに変わりはない。しかしわたしには、この家の嫡子という義務がある。君を妻にすることはできない。だから他のことで償いたいと言っているんだ」
──悪気はないんだろうけど、むかむかしてきた。
こっちが頼んでもないことを、申し訳なさそうに断るなっての!
「償ってほしいなんて言ってません。あたしに悪いと思うなら、さっさと話を終わらせて忘れてください! だいたいこんなところを他の使用人に見られたりしたら、困るのはあたしなんですよ!? この先仕事がやりにくくなったらどーしてくれるんですか!」
「あ──」
そのことはわかってくれたようで、ケヴィンはつぶやいて押し黙る。
アネットはとげとげしく言葉を続けた。
「そういうことですから、この場から早く解放していただけるほうがあたしには助かるんです。それともビィチャムさんが望んでいるように、“そういう仲”になってみますか? そしたらこの服も“お手当”として受け取りますよ?」
イジワルついでに流し目を送ってみせると、案の定ケヴィンはたじろいであとずさる。
こーゆー反応も何か傷つくなぁ……。
顔をひきつらせながら、アネットは言った。
「そーゆーことで。あたし、行きますね」
アネットは扉に向かって歩き出した。
オルタンヌさん、どっかで待ちかまえてるだろうなぁ。
アネットはどう説明したものかと思案する。もしかするとビィチャムとも出くわすかもしれない。ビィチャムは“成果”を期待してるだろうから、何もなかったと話してそれで済むかどうか……。
アネットが五歩も歩かないうちに、うしろから声をかけられた。
「君はそれでいいのか? 夫でもない男に不埒な真似をされたというのに……」
途方に暮れた声。悲壮感さえ漂っているような気がする。
やれやれ。しょうがないな、このお坊ちゃんは。
アネットはきびすを返して、ケヴィンの前に戻った。見上げると、困り切った頼りなげな目でアネットを見つめ返してくる。
小さくため息をつき、アネットは苦笑した。
「相手があたしでよかったですね。相手によっちゃつけ込まれて、邸がつぶれちゃうところでしたよ。これからはビィチャムさんに相談してくださいね。心得てると思うから、ちゃんと処理してくれるはずです。──それと、今回のことをどーしても償いたいっていうなら、使用人全員にお菓子をふるまってくださいよ」
「は?」
ぽかんとするケヴィンに、アネットはにんまりと笑う。
「次に近衛隊士の皆さんが来る時でいいです。料理長さんにたくさん作るように言って、使用人全員に配るよう指示してください。全員にですよ? そうしなきゃ下働きのあたしにまで回ってきません。──このお邸に何人使用人がいると思います? 行きわたるように作らせるとなると、すごい量になりますよ?」
我ながらいい考えだとアネットは思う。これなら念願のお菓子が食べられるし、ケヴィンの良心の呵責も解消できる。
ケヴィンは理解しがたいといった感じに眉をひそめた。
「何故、使用人全員に?」
「そりゃあ一人でいい思いをして、それがあとでバレたらコワいからです」
胸を張ってアネットはきっぱり答える。
どこかに視線をさまよわせて何やら考え込んだケヴィンは、しばらくして「わかった」と返事した。
「じゃあホントにもう行きますね」
「待て」
扉に向かおうとすると、また声をかけられる。
振り返ったら、ケヴィンがためらいがちに聞いてきた。
「君の名前は?」
あ、名乗ってなかったか。
「アネットです」
にこっと笑って答えると、アネットは今度こそ寝室を出た。
後日、近衛隊士たちがやってきたその日に、大量のお菓子が作られて、アネットたち下の使用人たちにも分けられた。
しかも何種類ものお菓子が下の使用人休憩室のテーブルに所狭しと並ぶ。
ケヴィン様ってば、いったいどういう指示の出し方をしたのかしら……?
アネットは内心あきれ果てつつ、下働きの仲間たちと一緒にお腹いっぱい食べた。
その夜、夜なべ仕事の息抜きにふと外を見てみたら、井戸の側に人影があった。
アネットは外に出て、ゆっくりと近付く。
「何でそんなところにいるんですか? ケヴィン様」
「ここにいれば、君に会えるような気がしていた」
この人、どーいうつもりでこんなこと言うんだろう。
他意はないとわかり切っていても、アネットの頬は赤らんでくる。
暗がりでよかった……。
今宵の月は半月。満月の時ほどの明るさはない。
ケヴィンはアネットの頬に気付かない様子で、平坦な声で尋ねてきた。
「菓子は食べたか?」
「ありがとうございました。美味しかったです。お腹いっぱい食べさせてもらいましたよ。おかげで夕飯が食べられなかったです。──何て言って料理長にお菓子を作らせたんですか?」
「たまには使用人たちにも菓子を食べさせてやってくれと言って、あのドレスと同じ額の資金を渡した。一度では使い切れないと言うから、また菓子がふるまわれることがあるだろう」
あのドレスって、そんなに高かったんだ……。
「どうした?」
額を押さえてうなだれたアネットに、ケヴィンは不思議そうに声をかける。
アネットは顔を上げ、肩をすくめて笑った。
「あんまり使用人を甘やかしちゃダメですよ。一度に一種類も食べられれば十分です」
「そうか」
言いながら、ケヴィンは上着のポケットから何かを取り出した。
長い紐のついたそれを、手のひらに載せてアネットに突き出してきた。
「下街でみつくろってきた。これに入れて首に下げておけば、なくすことはないだろう」
紐付きの守り袋だった。この間のドレスのような上等なものではなく、庶民の服の端切れのような質素な布で作られている。
これなら下働きのアネットが持っていてもおかしくない。
学習してらっしゃいます、お坊ちゃま!
「ありがとうございます」
アネットは素直に両手を差し出す。アネットの手のひらの上に、ケヴィンは守り袋を落とした。
それにしても。
「あの、お聞きしたいんですけど、あたしのアレをどうしてケヴィン様はごみだと思わなかったんですか?」
ケヴィンは不思議そうに首をかしげた。
「何故あれをごみだと? 擦り切れ汚れても持ち歩いているだろうものだから、相当大事にしているのだと思っただけだ」
アネットの胸の奥が、ほっこりと温かくなった。
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